No.1 Yuってどんな人?(自己紹介♪)
こんにちは!Yuです。
タイトルの通り、ここではこのnoteの執筆者である私Yu(土屋勇太)について簡単にお伝えしていきます。
こんなこと発信する必要あるの?って思う方もいるかもしれませんが、今の時代自分で自分を打ち出していくことがとても大切であると感じたため、僭越ながら自己紹介です。
書いていくうちにとても長いものとなってしまいました、、でもそれだけ気持ちが入っているのだと思っていただければと思います。
自己紹介
1992生まれ。
山梨県公立特別支援学校教員
趣味:ダンス、書道、お絵かき、筋トレ、etc.
山梨県時代(生まれ~高校生)
生まれてから小中高校までは自然豊かな山梨でのびのび育ちました。本当に良い環境で生活することができたと思います。
小学校時代は色々な習い事に通わせてもらいました。
水泳、剣道、書道、そろばん、ドッジボール倶楽部、絵画教室(数回だったかな?)、英会話教室などなど、たくさんの習い事をさせてもらいました。
両親には本当に感謝です。
中学、高校はバスケットボールと書道に励みました。特に中学生の頃はバスケ部のみんなでよく小瀬スポーツ公園でストバスやりましたね。
習い事はさておき、私は高校1年生の頃に特別支援学校の教師になりたいと思いました。
人に何かを教えることが好き
一人一人を丁寧に見ていきたい
障害のある子との関わりが多く(たまたまです)、障害っていったい何だろう、知りたい!
という気持ちから、特別支援学校の教員の免許が取れる大学へ行こうと思いました。
自分の性格上、計画を早めに立てていきたいということもあり、中学1年生頃には行きたい高校を決め、高校1年生の頃には行きたい大学を決めていました。
高校の頃の進路についての授業は、自分のことを知ることができるとても良い機会だったことを今でも覚えています。
東京時代(大学、大学院)
大学生
せっかくなら教育専門の大学へ行きたい!
ということで選んだのが東京学芸大学でした。
今振り返ってみても、本当に学芸大学で良かったと思います。環境って大切だなと改めて感じさせてくれます。
せっかく大学へ入ったのだから、大学生、大学院生の間に(大学1年生の頃には大学院に行くつもりでした)人の2倍経験を積んでやろう!と思い、日々パンクしそうになりながら取り組みました。
教育に関することは何でもやりました。
障害の方の移動支援サービス、余暇支援サービス、発達障害の子の家庭教師、学童保育、研究室の臨床活動、etc.
自分が将来経験しないであろう飲食店のバイト(居酒屋キッチン、アイス屋)もしました。正直あまり向いていないバイトでしたが、とても良い経験となりました。
大学のサークル活動は障害の子と月一で出かける余暇支援サークルと、ダンスサークルに入り、思う存分楽しませてもらいました。
若干勉強の方はおろそかになった時期もありましたが、教育を学ぶ場、特に特別支援教育を学ぶ場としてはこれ以上ないと思えるくらい良い環境の中経験を積むことができました。
大学院生
大学院へ進学してからは、ダンスと教育、研究がメインの日々でした。
大学のサークルは卒業したため、東京の社会人ダンスサークルに所属し、様々なイベントに出させていただきました。様々な縁が重なってnonさんと出会うことができました。感謝です。
大学院では臨床活動の運営側として動いたり、学会で自身の研究を発表したり(ポスター発表ですが)、研究協力で様々な施設へ行き、データを取らせてもらったりと、The 大学院生というような経験をすることができました。
また、海外とつながりのある先生と一緒に台湾へ行き、ポスター発表したり、Early Intervention Schoolを見学させていただいたりできたことは、本当に良い刺激でした。
大学院生の時にももちろん人の2倍生きてやろう精神は健在です。
大学院での研究のほか、週5で2つの小学校の特別支援学級に、支援員として働かせていただきました。東京の特別支援学級のため、児童の人数も多く、圧倒されたことをよく覚えています。
その外にも、発達障害のある中学生の家庭教師や、発達障害、グレーゾーンの子の個別指導(塾)をさせていただき、本当に多くの、障害のある子どもたちと関わらせていただきました。
平日の朝から昼は特別支援学級、夕方から夜は家庭教師や個別塾講師、土日は研究と臨床活動、すのスキマにダンスといった今振り返ってみれば常に走っているような、とても充実した生活でした。
再び山梨県時代(社会人へ)
そんなこんなで大学院の2年間を修了し、山梨でさあ教員だ!
と、うまくはいかず、1度目の教員採用試験に落ちました。
しかも、その後の期間採用教員としての枠にも引っかからず、全く電話が来ない状態。。。
これは来年無職か?と思った矢先に「教員の枠は空いてないけど、実習助手やってくれませんか?」
これまで、特別支援教育について勉強してきてまさかここで躓くとは、正直思っていなかったです。
しかし、無職になるよりはマシだ、一度山梨の特別支援学校に入ってみないことには、と思い、特別支援学校の実習助手となることに決めました。
結果的に、少し離れた場所から特別支援学校について見ることができたので、実習助手になったことは非常に良い経験でした。
その後、期間採用の試験をもう一度受け、(教採は落ちました、2度目)晴れて期間採用教員としてクラス担任を受け持ちました。
実習助手の頃は、少し教育的なこと(子どもの指導)をしようとすると、あなたは「実習助手だから」と言われることも何度かありました。「でも教員じゃないからねー」と言われることも多々あり、確かにそうだけど、、、と思ったことも何度もありました。
教員採用試験は、この年も落ちました。3回目です。正直この時はなぜ落ちたのか本当に分からず、(1、2回目は何となく面接かな?実技かな?と理由はありました)納得がいきませんでした。
そこで、次の年は山梨県だけでなく、たまたま試験日程が別日であった静岡県の教員採用試験も受験しました。
2つの教員採用試験を受けるというのは、県が何を考えて、どういう未来を想像しているかよく比較できるので、これから教採を受けられる方はぜひ2~3県受けてみるのが良いかもしれません。
ちなみに、静岡県の教員採用試験は効率化、自動化もかなり進んでいて何につけてもスムーズで、かつ試験内容も非常に良いものだったと感じています。
山梨県の教員採用試験は、正直に言うと旧態依然です。効率化や自動化といった様子は1ミリも感じられませんでした。残念です。
ここで、もし4度目の山梨県の教採が落ち、静岡県の教採が受かったら迷わず静岡県の教員になろうと思っていましたが、こういう時に受かるんですよね。結果両方受かったので、山梨県の教員となることを決めました。
初任者としての一年目は、非常に有意義なものとなりました。
なぜなら、初任研担当の先生が非常に勉強家で、特別支援教育について学び続ける姿を見せ続けてくれたからです。本当に尊敬できる先生でした。(今は再任用を終え学校現場から離れています)
やはり、尊敬できる方が職場にいるということは本当に大切ですね。
現在とこれから
現在は、教員3年目として、クラス運営、分掌等学校をよりよいものにするために尽力しています。
※分掌(ぶんしょう)というのは学校の運営に関わる仕事です。(生徒指導部、渉外部、教務部、情報部etc学校によってその呼び方も構成も異なります。)
これまで、学校現場で働いてみて、たくさんの違和感がありました。
もっと教育のことについて学ぶ姿勢があってもいいんじゃないか?(特殊教育学会を知らない人が多すぎです)
年齢が上の教員がリーダーシップを発揮するべきじゃないか?(公務員なので給料は年齢順です)
若い教員の提案をもっと受け入れてもいいのではないか?(クラス運営しかり、分掌しかり)
これらの違和感は、実習助手の時からありましたが、まだ教員にもなっていない、正規採用にもなっていない状態だからかもしれない。
そう思って正規採用となりましたが、この違和感は消えるどころか日々大きくなっていきました。3番については、クラスや学年、分掌の集団によって若い人も意見を言えているかと思いますが、1と2については2つの特別支援学校を経験し、その両方で感じました。
学校で働くことはお金について安定、人生安泰を勝ち取ることができたといっても過言ではないでしょう。
ただ、その体制のせいで、働かなくても、適当にやっていても(良い意味の適当ではありません)毎月決まった額のお金が通帳に入ってくる。そんな人が多くいるように感じます。
人は悪くないと思います。どの先生も子どもが好きで、教育をしたいから先生になったのだと思います。(中には安定と給料目的の人もいますが、少数でしょう)
私は、山梨県の特別支援教育を変えるぞ!という熱意をもって教員になりました。
しかし、自分が教頭、校長になるまでの約25年間のうちに、この旧態依然とした化石のような学校の形態が変わっていくとも思えませんし、待つこともできない、と強く感じました。
校長になって変えようと思っても、それは数年間です。その数年間のために自分は25年間耐えられるのか。
もちろん、私自身年齢が上がっていけば、多少変えられることは増えていくでしょう。しかし、学校の雇用形態や教採のあり方を変えることまでは、今のままではできない、そう考えます。
もともと、大学の教員を目指してもいいかなと思っていたところもあり、学校現場に一生いるつもりはありませんでした。
10年ほど現場を経験し、大学へ行きなおし、博士課程をとって大学の教員というルートも考えましたが、現場を通して、自分が子どもと関わっている時が一番幸せだと改めて気付くことができました。
ではどうしようか、、それなら、もう自分で色々始めたらいいのではないか?
学校のシステムに納得いかない
子どもたちの指導、支援がしたい
だったら、将来自分の理想とする学校を作ればいい!
ということで、近々学校教員を辞めて自分で活動していこうと思います。
ゆくゆくは、障害のある子もない子も関係なく学べる場を作り、さらには障害者がしっかりと給料を得られるような会社、または一般企業が欲しくてたまらないとったような人材を育成できる場を作っていきたいと思っています。
今思えば、高校、大学、大学院と、他の人の2倍生きてやるぞ!と意気込んていたのが、働き始めてから少しずつ薄まってしまっていました。
私自身どこまでできるか分かりませんが、自分が見てみたい光景に向け、これからまたひたすら走っていきたいと思います!