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皇道経済論は資本主義を超克できるか

はじめに

 新自由主義との決別、日本本来の経済システムへ転換が求められる中で、先人たちが唱えた皇道経済論は見直す時が訪れている。
 皇道経済論の源流の一人と位置づけられる二宮尊徳(一七八七年~一八五六年)は、財を預かった人間が、いかにそれを生かし、いかに用いるかに、天財の保管者で、天徳の代表者である人間の全責任が存在すると説き、天財を明日に譲り、明年に譲り、子孫に譲り、社会に譲るという「推譲」の重要性を主張した。最も必要としている人に譲ることが、ものの価値を最大限に活用するという発想である。「推譲」を支えるのが、「分相応につつましく」という「分度」の思想であり、人々が節約して余剰を生み出すことで推譲が成り立つ(片山巍「二宮尊徳の経済学考」『国士館大学政経論叢』昭和四十二年一月、二百十一頁)。
 かつて、わが国には尊徳流の経済思想が脈々と引き継がれ、近代においても、独自の思想に基づいて、資本主義と社会主義を同時に克服しようという試みがあった。
 西洋近代の思想は、人間中心主義、物質至上主義、要素還元主義等に象徴されるように、宇宙万物の一体性、連動性、調和という観念を見失ったのではないか。ホモ・エコノミクス(合理性に従い富の獲得と消費行動を行う存在)といった特殊な概念に基づいて、近代の経済学は構築されてきた。皇道経済は、こうした西洋近代の経済学の前提である価値観に対する根源的な批判を含んでいた。大阪工業大学准教授の上久保敏氏は、日本経済学(皇道経済学)には、今日なお通用する「経済学の危機」といった問題意識が含まれているという。
 皇道経済論には、柄谷行人氏が『世界史の構造』で提示した「互酬原理の高次元での回復」という考え方と重なり合う部分もある。本稿では、主要な皇道経済論者を紹介しつつ、
(一)肇国の理想と家族的共同体
(二)神からの贈り物と奉還思想
(三)エコロジーに適合した消費の思想
(四)成長するための生産=「むすび」
(五)生きる力としての「みこと」意識
の論点からその主要な主張を整理しておきたい。
 そこに示された考え方は、決して経済の分野にとどまるものではない。そもそも、経済学を他の分野と切り離したこと自体が近代経済学の失敗だったとの見方もある。そうした認識から、皇道経済論が持つ、社会的安定、人間の精神的充足といった価値にも注目したい。

一、肇国の理想と家族的共同体

「人民の利益となるならば、どんなことでも聖の行うわざとして間違いない。まさに山林を開き払い、宮室を造って謹んで尊い位につき、人民を安ずべきである」(宇治谷孟訳)
 『日本書紀』は、肇国の理想を示す神武創業の詔勅をこのように伝える。皇道経済論では、国民を「元元」(大御宝)として、その安寧を実現することが、肇国の理想であったことを強調する。
 山鹿素行の精神を継承した経済学者の田崎仁義は、皇道の国家社会とは、皇室という大幹が君となり、親となって永遠に続き、親は「親心」を、子は「子心」を以て国民相互は兄弟の心で相睦み合い、純粋な心で結びついている国家社会だと説き、それは力で社会を統制する「覇道の国家社会」とも、共和国を指向する「民道の国家社会」とも決定的に異なるとした(田崎仁義「皇道経済」『史蹟叢談』大阪染料商壮年会、昭和十九年、三百十七頁)。
 西田幾多郎に師事した唯一の経済学者とされる石川興二は、肇国の理想を体現したわが国社会を国民共同体と位置づけ、その本質的特徴を次のように説明している。
 「全体が個々人を重んじ個々人が自己の性能を全体の為めに発揮するところのものである。然るに我国民共同体に於ては、その歴史的全体性が 天皇に於て人格化されて居り従つてこの全体と国民個々との間には直観的な人格的関係が成立ち従つてそれは最も強い愛の関係となる」(石川興二「日本経済学の根本原理」『経済論叢』昭和十四年七月、二百二十四頁)。
 さらに石川は、天皇の全体性は国民全てに、その処を得しめんとする大御心であり、国民はこの御心を体してこれを実現すべく各々のある地位において、その分を尽くすのだと言う。これによって、「一が多を生かし、多が一を生かす」、「全が個を生かし、個が全を生かす」ことになると説く。『皇道経済の確立』を著した田辺宗英は、この点を「一切を慈しみ給ふ至仁至愛の大御心と、感謝報恩の念に燃へて、一切を奉仕する国民の忠誠との合体」(天恩と報恩一体の経済)と表現する(田辺宗英『皇道経済の確立』報国新報社、昭和十三年、一頁)。
 一方、戦前東京帝大で教鞭をとった難波田春夫は、本居宣長の『古事記伝』や和辻哲郎の『日本古代文化』に依拠しつつ、古事記、日本書紀の解釈に没入し、独自の経済学を樹立したが、彼はわが国の神話が示すものは、わが国におけるすべての氏族を一系の皇統からの分かれであると捉える「血縁的共同体としての歴史」だと結論づけた(難波田春夫『国家と経済 第三巻』日本評論社、昭和十三年、百四十一頁)。 また、戦前に独自の経営学を展開した岡本廣作は『日本主義経済新論』において、わが国の家を中心とする立体的家族生活は日本民族の祖先崇拝、血族相愛の観念の上に基かれたものであって、この民族的性格は日本経済の大きな特色であると主張した。そして、日本の国民生活の根底は家にあり、西洋のように個人が国民生活の基本を形成していないと指摘した。
 ところが、「君臣相親みて上下相愛」する国民共同体の性格は、時代とともに変化していった。慶應四(一八六八)年三月十四日に示された「国威宣布ノ宸翰」は、「中葉朝政衰へてより、武家権を専らにし、表には朝廷を推尊して実は敬して是を遠ざけり、億兆の父母として絶えて赤子の情を知ること能はざるやう計りなし、遂に億兆の君たるも唯名のみに成り果て、其が為に今日朝廷の尊重は古に倍せしが如くして朝威は倍ますます衰へ上下相離るること霄壌しょうじょうの如し」と謳っている。
 明治維新の根本精神は、国民共同体の回復にあり、五箇条の御誓文においても「上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ」「官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス」と国民共同体実現のための方策が謳われていた。
 皇道経済論者には、貴賎貧富の別なく、その安寧を確保することがわが国体であるとする考え方が貫かれている。皇道経済の源流の一人と位置づけられる佐藤信淵(一七六九年~一八五〇年)は、『経済要録』(安政六年)において、「経済とは国土を経緯し、蒼生を救済するの義なり」と書いている(佐藤信淵『経済要録』滝本誠一編纂『日本経済大典』第十八巻、啓明社、昭和四年、百八十三頁)。
 佐藤の思想を支えたとされる家学の信憑性については様々な議論があるが、石川興二は「彼の家学は、万民を飢寒より救はんとする仁心のほとばしりより発したのであつて、それが子孫に伝へられ、信淵に至り完成されるのである」と書いている(石川興二「日本共同体経済学の建設者佐藤信淵」『経済論叢』昭和十四年一月、二百二十九頁)。
 佐藤の原点にもまた、家族共同体たるわが国において、貧困に喘ぐ国民がいることに対する激しい憤りであった。彼は、天明三(一七八三)年に出羽、奥州、関東諸国を遊歴、大飢饉で流散した飢民が道路に充満し、四百人以上の餓死者が出ている惨状を目の当たりにした。しかも佐藤は秋田に生まれ、自分自身飢饉を体験していた。「蒼草を救う」ための経済学の樹立という彼の使命はここに定められたのであった。
 佐藤は、文化七(一八一〇)年に江戸に出て平田篤胤に師事、『鎔造化育論』において、古事記の天地創造論を基礎として、儒教、仏教、蘭学などを統一して独自の宇宙観を樹立した。この宇宙観に基づいて、独自の経済学を説いた。彼は豪商が利益を貪り、富の偏在が拡大しており、これを規制しなければ国民は大困窮に陥ると警告した。彼は『復古法概言』において、公設市場を設けて、各地の物資を「御上の御産物」としてそこに集めて、問屋に販売させるという構想を提案していた(佐藤信淵『復古法概言』(『日本経済大典』第十九巻、啓明社、昭和四年)七十七頁)。
 その後も、国体思想の確立に貢献した志士たちは、商品経済の拡大に伴う国民共同体の破壊に警鐘を鳴らした。会沢正志斎(一七八二年~一八六三年)は『新論』(一八二五年)で、「富溢れて貧を生じ、貧は弱に相依る」と書き、一方藤田東湖(一八〇六~一八五五年)は『弘道館記述義』(一八四七)において「蒼生安寧」を強調して次のように主張した。
 「臣彪謹んで案ずるに、民の道たるや、憂は飢寒より切なるはなし。天祖、始めて種穀・養蚕の道を開きたまひ、民、ここに於てか衣食す。患は疾病・災害より甚しきはなし。大己貴命・少名彦命、始めて療病・厭災の方を定めて、民、ここに於てか全活せり。居は宮室より安きはなく、哀は死喪より惨なるはなし。素戔鳴尊・五十猛命、山林を殖ゑて材木を足し、民、ここに於てその生を養ひ、その終りを慎む…一として民を恤み生を厚くするの誠に出でざるはなし。これ神皇、政を発し仁を施したまふの大略なり。ここを以て天下乂安、四海虞れなく、年穀豊饒にして、家ごとに給し、人ごとに足れり。所謂「蒼生これを以て安寧」とは、豈に信に然らずや」(「弘道館記述義」(『水戸学』岩波書店、昭和四十八年)二百七十二、二百七十三頁)。
 明治維新は、国民共同体の回復を理想とするものであったが、わが国の資本主義が発展する中で事態は悪化していった。これに対して、明治三十八年八月には在野の歴史家、山路愛山が国家社会党を結成し、その党宣言で 「……二千五百年間君臣の情、家人父子の如く其間未だ嘗て一毫の芥蒂なく君主の心は則ち臣民の心たり。二の者にして一、一にして二、膠漆の如く水魚の如く之を千秋万才に伝えんと期する者は是豈日本国体の精華にして吾人の世界に向つて誇揚せんと欲する所にあらずや」と謳った。彼の国家社会主義は、「皇室を人民の父母とする」との信念によって支えられていた。彼はそれを、『続日本紀』にある、「兆民を優労す(天平二十年)」、「四海に君臨し、兆民を子育す(宝亀四年)」、「宇宙に君臨し、黎元を子育す(同五年)」、「朕は百姓の父母たり(天応元年)」、「朕は民の父母たり(延暦六年)」といった詔勅の一節によって裏付けようと試みた。
 「君臣相親みて上下相愛」する国民共同体では、生産活動、生活における相互扶助の伝統が脈々と続いてきた。農村社会を中心に家族的な協力の慣習が根付いている。互酬的行為としての「結い」や、再分配行為としての「もやい」は、その代表的な形態である。一方、わが国には、潅漑用水、漁場、森林、牧草地など、コモンズ(共有地)が存在してきた。
 二宮尊徳にも影響を与えた人物であり、富士山信仰と実践道徳を結合させた宗教組織「不二道」を指導した小谷三志(一七六五~一八四一年)が、農民間の互助精神の復興に強い影響を与えたのも決して偶然ではなかった。三志の弟子や共鳴者たちは、水害の堤防復旧や河川の流れを変える瀬替え、川ざらいなどの奉仕活動に従事し、互助精神の復興に貢献した(恩田守雄『互助社会論』世界思想社、平成十八年、二百六十六頁)。ちなみに、文政十(一八二七)年に小谷に入門した柴田花守の次男介次郎は、副島種臣らとも交流があった。

二、神からの贈り物と奉還思想

 「君臣相親みて上下相愛」する国民共同体を裏付けるものは、わが国特有の所有の観念である。皇道経済論は、万物は全て天御中主神から発したとする宇宙観に根ざしている。皇道思想家として名高い今泉定助は、「斯く宇宙万有は、同一の中心根本より出でたる分派末梢であつて、中心根本と分派末梢とは、不断の発顕、還元により一体に帰するものである。之を字宙万有同根一体の原理と云ふのである」と説いている。
 「草も木もみな大君のおんものであり、上御一人からお預かりしたもの」(岡本広作)、「天皇から与えられた生命と財産、真正の意味においての御預かり物とするのが正しい所有」(田辺宗英)、「本当の所有者は 天皇にてあらせられ、万民は只之れを其の本質に従つて、夫々の使命を完ふせしむべき要重なる責任を負ふて、処分を委託せられてゐるに過ぎないのである」(田村謙治郎)──というように、皇道経済論者たちは万物を神からの預かりものと考えていたのである。
 念のためつけ加えれば、「領はく(うしはく)」ではなく、「知らす(しらす)」を統治の理想とするわが国では、天皇の「所有」と表現されても、領土と人民を君主の所有物と考える「家産国家(Patrimonialstaat)」の「所有」とは本質的に異なる。
 皇道経済論者たちは、一部の勢力が神からの預かりものである富を独占することは、断じて許されないと考える。遡れば、孝徳天皇が示された大化の改新の詔は、「従前の天皇等が立てた子代の民と各地の屯倉、そして臣・連・伴造・国造・村首の所有する部曲の民と各地の田荘は、これを廃止する」と定めていた。その後も、桓武天皇が延暦三(七八四)年に私営田を規制するなど、大化の改新以来の目標を実現しようという努力が続けられた。
 わが国への資本主義経済の導入は、わが国特有の所有の観念を覆す重大な契機となった。明治政府は、明治五年に田畑永代売買禁止令を解き、明治六年の地租改正で土地にも個人の所有権が存在する事を認めた。
 皇道経済論者たちの試みは、奉還の名のもとに、神の所有を回復しようとする試みでもあった。その源流の一人が、近代の古神道霊学の源流となった本田親徳である。本田は、亀の甲羅を焼き、ひび割れの形から神意を占う「亀卜」に精通していたが、その知識は大国隆正門家の大畑春国から学んだものであった。
 本田の弟子で、いわゆる征韓論争で西郷南洲とともに下野した副島種臣の考え方は、大化改新に遡る土地公有論であり、「一家に在ては一家の親和、一村に在ては一村の親和、一国に在ては一国の親和、其親和を結合してこそ日本社会と謂ふべき」だとするものであった(丸山幹治『副島種臣伯』大日社、昭和十一年、三百二十五、三百二十六頁)。
 もう一つの源流として、言霊学の大成者として知られる大石凝真素美に連なる思想家群の存在に注目しておきたい。大石凝の師山本秀道は、文政十(一八二七)年に美濃国不破郡宮代村で生まれた。山本家は代々修験道の行者だったが、明治維新後の神仏分離令によって神仏習合の色合いが強い修験道は変容を迫られ、山本家の宗教的基盤も修験道から神道へと移った(梅村貞子「精神障害者収容施設山本救護所の歴史」『郷土研究岐阜』昭和五十一年十二月、十三~十七頁)。
 明治十七年十二月、山本は「我が所有の地所はじめ金銀財貨の類残らず大君へささげ奉ってくれ」と郡役所を通じて、県令に申し出た。これに対して、役所側は狂人のたわ言として、取り合わず放置した。その二年後の明治十九年四月、山本家が火事になり、貴重な古文書等が失われてしまった。ところが、秀道はなんら頓着することなく、この火事を「物を私有仕り候故の天遣」と受け止めていたという(『大石凝真素美全集 解説篇』大石凝真素美全集刊行会、昭和五十六年、八十一頁)。
 一方、大石凝の弟子の水野満年は、和光同塵の皇謨を始めてから、外来文物利用の影響は国体的経済の本義を失い、ついに勢力のある者は土地、人民を私有とし、お互いに名利を争い、生活的競争をするに至ったと批判した。この弊害を根本的に除去すべく、国体本義に基づいて根本革正的経綸の行われたのが、大化の改新だとし、明治天皇によって、報本反始の大業が成就されたと見た。しかし、再び弱肉強食の弊政が顕在化しているとし、大正維新の経綸として、神聖なる国運発展の経済的国家経綸を確立すべきと説いた(水野満年『現人神と日本』霊響社、昭和五年、八十頁)。
 学習院院長、宮内省図書頭、宮中顧問官などを歴任した山口鋭之助もまた、大石凝の古神道の影響を受けた人物である。『世界驀進の皇道経済』(昭和十三年)を著した山口は、本田親徳と同様、大国隆正の思想の継承者でもあった(永井了吉『混沌』調和の研究会、昭和五十年、三百四十七頁)。山口は、「マルクス等がロンドンに共産主義同盟を作り始めたのは一八四八年即ち我が弘化四年で、大国隆正が本教本学を唱え出した天保五年に後れること十三年である。本教本学は日本式共産主義とも云うべきものである。併し本教本学は上生下責任観念に立脚し、マルクス・レーニンの共産主義は下克上権利観念に立脚して居るのであるから、両者は対蹠的に反対である」と書いている(山口鋭之助『世界驀進の皇道経済』本学会、昭和十三年、三十八頁)。
 山口は、鎌倉時代の執権北条時頼の家臣、青砥藤綱の逸話を引いて、万物が「天下の大宝」であることを強調した。藤綱は、夜間出勤の途中、川に銭十文を落してしまった。そのとき彼は、五十文払って松明を用意し、何時間もかけて十文の銭を拾い出したという。人々は利に合わないと嘲笑ったが、藤綱には、どんなにわずかであっても落した十文は自分個人のものではなく、「天下の大宝」だとの感覚があったのである。
 山口の流れをくみ、昭和維新運動にも挺身した永井了吉は、昭和八年に『皇道経済概論』を著している。彼は、皇政を復活させ、皇地と皇民を徹底せよと主張し、皇地を徹底させるためには、土地と一切の生産機関の私占を禁じて、これを奉還すべきとし、皇民を徹底させるためには、私の利益のために天皇の赤子を駆使する(搾取する)ことを禁じ、これを奉還すべきと唱えていた(内務省警保局編『国家主義運動の概要』原書房、昭和四十九年、百八、百九頁)。
 資本主義の発展に伴い、大正時代になると格差の拡大が深刻化した。こうした中で、大石凝真素美とも交流があった出口王仁三郎は大正維新を掲げ、「元来総ての財産は、上御一人の御物であつて、一箇人の私有するを許されない事は、これ祖宗の御遺訓と、開祖帰神の神諭に炳々として垂示し給ふ所である」と説いた。大正八年には、山口鋭之助の影響を受けた遠藤無水(友四郎)が『財産奉還論』を著し、土地も資本も、その他一切の財物資力は、一つとして国民の自由権に属すべきものではなく、悉く皇室の顕現に在ると主張した。また、遠藤とともに尊王急進党などで活動した長沢九一郎は、昭和七年に『生産権奉還』を刊行、明治二年に長薩土肥四藩が朝廷に呈出した「版籍奉還の上奏」に記された「臣等居る処は即ち天子の土、臣等牧する所は即ち天子の民なり、安んぞ私有すべけんや」の精神を徹底すべきだと説いた。遠藤、長沢らは、昭和十一年九月に、昭和維新原理の究明体得、日本の興隆進展に奉仕貢献すべきことを目的として、「本学会」を組織したが、このとき、その総裁に就いたのが山口であった。
 昭和維新運動の主張には、奉還思想に基づく富の偏在に対する批判が存在していた。その発想は、物質的次元の平等だけを重視し強権的に目的を達成しようとする共産主義とは根本的に異なるものである。唯物主義という点においては、資本主義も共産主義も同根であり、皇道経済論の奉還思想は、「君臣相親みて上下相愛」する国民共同体と不可分な、神の所有の観念に基づくものであった。その発想は、他の宗教の奉還思想とも通ずる。例えば、イスラム経済論を唱えたムハンマド・バーキルッ=サドルは、「富とはアッラーの富であり、アッラーこそは真の所有者である。人間は地上における彼の代理人であり、大地とそこにある富、資源の管理者にすぎない」と主張している(ムハンマド・バーキルッ=サドル著、黒田寿郎訳『イスラーム経済論』未知谷、平成五年)。仏教においても、あらゆるものは、宇宙の命そのものであり、宇宙からの、あるいは仏からの預かり物だと考える(井上信一「仏教経済学への道」『仏教経済研究』平成十年、四十一頁)。

三、エコロジーに適合した消費の思想

 「万物は天御中主神に発する」という皇道経済論の考え方は、物の運用、管理、消費の仕方について独特の考え方をもたらす。一切のものを大切にし、無駄なく完全に活かしきるのである。
 例えば、岡本廣作は、日本国民は「大君のおんもの」である財産を、上御一人の御仁慈に応えるように活用しなければならないと説いた(岡本廣作『日本主義経済新論』増進堂、昭和十九年、百三十九頁)。
 無駄なく完全に活かしきるとは、それぞれの「勿体」(もったい)を活かすことにほかならない。「勿体」とは、もともと仏教用語で、その物の本体、価値などを表している。万物に価値、存在意義があり、それを活かし切ることを重視することを意味している。つまり、「もったいない」とは、そのものの価値を完全に活かしきれていないことをいう(「仏教経済学への道」四十一頁)。
 皇道経済論では、本来の消費には、物質的充足にとどまらない、より高次元の目的があると考える。佐藤信淵は、万物は人間が人間としての道徳を修成するための養料であり、私欲のために浪費されるべきではないと主張した。また、古神道家の友清歓真から強い影響を受けた高橋輝正もまた、消費とは、人間の側からすると根源的生命との一体化であり、物の側からすると、低次の生命が高次の生命へ生成する過程であるとし、人間は消費によって根源的生命と合体し、絶対者の意志を遂行し得るという(高橋輝正『皇道経済論』奉天大坂屋號書店、昭和十七年、四十四、四十五頁)。
 皇道経済論の消費は、万物を活かしきることに徹している。『農本維新論』を書いた佐藤慶治郎は、人馬牛の大小便はもとより、塵芥、雑草、枯葉のはてまで、一切万物皆天地の賜であり、捨てるべきものは何もないと書いている(佐藤慶治郎『農本維新論』平凡社、昭和十三年、二百頁)。
 大国隆正は、「亀卜」の区象(マチガタ)に古神道の祓詞「トホカミエミタメ(吐普加身依身多女)」を対応させ、霊学的に稲と人間の循環を把握し、万物が万物の役に立っていると説いた。
 大国によれば、「卜」は処で、人の立つところで、稲を植える所である。「ヱミ」は稲のゑみわれて、芽を出すところ。「ホ」は秋になって穂となるところ。「カミ」は身の上(カミ)の頭に口があって、稲を噛む。噛み砕いて腹に入り、その精液は腎に収まって、その血液は心(シン)に入り、心を出て骨肉皮毛の闕耗を補う。その糟は大小腸に入って下る。稲の実は人に噛まれて人の身を肥やし、その大小便は、稲の根にかけて稲の肥やしとなる。こうした天地自然の循環を大国は説いているのである(『本学挙要』(『日本思想大系 五十』岩波書店、昭和四十八年)四百十四頁)。
 そして、穂は人の「ため」になり、その糟は稲の「ため」になるとし、「『タメ』といふことばのその中にあるは、このことわりとしるべきなり」という。つまり、万物が万物の「ため」に存在していると説いたのである。
 こうした主張は、エコロジーに合致した考え方であり、いま環境省などが強調する「循環型社会」といった考え方を先取りしているとも言える。
 「天の恵みをありがたく頂戴する」という発想は、自然との共生の色彩が強い。
 前出の田崎仁義は、農業をして穀物や野菜を主として食べて生活している日本などは、「順の生活」をしているという。ここでいう「順の生活」とは、順序に誤りがない、自然の摂理に則った生活のことを意味している。これに対して、獣を殺して食べて、獣の乳を奪い取って飲み、獣の皮を剥いで靴や着物にしたりするような民族というものは、「逆の心」を持っていると、田崎は主張した。
 出口王仁三郎の発想もまた、「順の生活」に徹していた。彼は、獣を殺すことに象徴される人間による動物支配、自然支配の発想に基づいた消費を嫌悪していた。彼が、洋風の生活を批判したのは、まさにその本質が人間中心主義だと考えたからであろう。「大正維新に就て」では、「現在世界的文明の服装として、国民が競つて使用せる洋帽に、洋服に、洋傘に、洋靴の如きは実に実に非文明的野蛮を標榜したる獣的蛮装である」と述べ、それらの洋装の材料が残忍無道を敢行して調達された産物だからだと指摘している。彼は、濫りに動物を屠殺して食糧とすることを批判したばかりか、土地に生える野菜や穀物の生育を妨害するという理由から、宏大雄大を極めた邸宅を厳しく批判していた。

四、成長するための生産=「むすび」

 皇道経済論者は、人間もまた、宇宙の創造に参画すべき存在と考えた。「むすび」の思想に基づいて、この点を強調したのが、作田荘一であった。彼は、古事記や日本書紀などの古典によって、わが国独自の道の真髄を悟り、「創造そのことを以て生活の宗旨となし、『むすび』の道を以て万事を統べ貫き、而も斯の道を行ふものが億兆心を一にする全体であることは、我等の古ながらの変りなき尊い伝統である。…『むすび』の道に随ふとき、始めて労働神聖の意義が明らかとなり、その実現が保証される」とむすびを強調した(作田荘一『経済生活に於ける創造者としての国家』日本文化協会、昭和十年、六十六、六十七頁)。
 一方、古神道に没入した東京帝大教授の筧克彦は、皇産霊神(高皇産霊神と神皇産霊神)は、創造、化育、生成を行う神様であり、人間の各々も創造、化育、生成の働きを、皇産霊神の下に行っていると説いた。
 筧の影響を受けた、農本主義者の加藤完治もまた、創造とは、我々が物を作るときに、命のない物に、我々の命を叩き込む、我々の魂をその中に入れることだと述べた。そして、化育とは、命のあるものと命のあるものとが向き合って一方の命が他の命を刺激し、これによって円満完全に発展させることだとした。彼は、「磨かれた精神を以て相手の生物に対する場合、相手は立派になる、相手を立派にするべく努力するその時の又此方の魂が磨かれて行く」とも述べている(中村薫『加藤完治の世界』不二出版、昭和五十九年、百六頁)。
 皇道経済論者は、生産を物質的次元でのみとらえるのではなく、自らの精神を向上させるという精神的価値を見いだしているのである。
 創造とは生命を相手にすることであると主張する加藤は、農業は人間の生命とはっきりした連絡があると主張し(加藤完治『日本農村教育』東洋図書、昭和九年、三十三頁)、農業を尊重しないことは、生の否定であるとまで言い切っていた。ただし、彼は農業以外の労働の意義を軽視していたわけではない。加藤は、鎌倉時代末期に登場した日本刀の名匠、岡崎五郎入道正宗を例として、日本刀を造ることは、生命のない鉄に自分の生命を注入することだと述べ、工業にも産霊の精神を見出していた。
 ここには、物質と精神を不可分にとらえようとする皇道経済論の思想が示されている。高橋輝正は、「生産」とは「自然の盲目的死的力」を理性的かつ生命をもたらす力に改変し、これを再生すると表現し(高橋『皇道経済論』百六十六頁)、岡本廣作は、創造には単に物質的な力だけでなく、精神的な力が働くと明快に語っている(『日本主義経済新論』百五十五頁)。
 精魂を込めたものづくり、匠の精神こそ、わが国のものづくりの原点であり、高い技術力の源なのではあるまいか。
 こうした皇道経済論の「生産」は、大量生産、機械化、分業といった近代的生産の対極にある。大量生産は確かに効率的ではあるが、それぞれの土地にある宇宙の恵みを無駄にしている側面がある。機械化は生産効率を上げるが、機械への依存は本来人間に備わっている能力を弱める。分業は人間の労働を分割することをも意味している。
 大本教(現大本)に関与した松本富美彦は、機械主義、大量生産、分業主義によらなければ生産効率は低下するという経済学者の主張に対して、「抑も生産は社会万民の幸福のために生産能率を高める必要があるのでありまして、生産能率を上げるために生産があるのでは無い、生産能率を餓鬼の如き姿に於いて高める事のみが生産そのものの目的では断じてないのであります」と述べ、自給自足の経済組織を打ち立てるべきだと主張していた(松本富美彦「皇道経済の本質と生産及労働に就ての考察」『神聖』昭和十年二月(『大本資料集成 運動』)七百五十六、七百五十七頁)。
 こうした皇道経済論の発想は、ジョン・ラスキンやマハトマ・ガンジーの労働観にも通ずる部分がある。ラスキンの近代産業資本批判を読んで、労働の尊さに目覚めたガンジーは、サティヤーグラハ・アシュラム(真理把握の道場)を設けた。そこで彼は、身にまとう物はすべて自分たちの手で作ることを目指し、工場で織られた布を利用することをやめたのである。インド製の糸だけで織り上げた手織りの布(カーディー)を用いることにした。彼は自給自足の貫徹を目指して、チャルカ(手紡ぎ車)を導入したのである。
 さらに、皇道経済論は、自らの精神を向上させない経済活動を卑しんだ。この点からも、不労所得や投機による財の増殖に批判的な立場がもたらされる。こうした皇道経済論の立場は、不労所得や投機を嫌悪するイスラム経済論の考え方とも通底する。

五 生きる力としての「みこと」意識


 市場原理主義の信奉者たちは、競争原理によって社会は発展するのであり、競争のないところに進歩はないと主張する。確かに、社会主義的な平等分配の思想は、人間の意欲を奪いとるという欠陥があった。だが、一方で競争社会の弊害も無視できるものではない。そこで注目されるのが、「人との競争ではなく、自らの存在価値を高めようとすることによって生じる意欲こそが重要だ」と考える皇道経済論の発想である。「四、成長するための生産=『むすび』」で書いた宇宙の創造に参画という考え方が意識されるとき、人間の生きる力は大きく変化する。岡本廣作は、日本経済とは、日本国民全てが、生まれて生み、生まれて生みの生成発展の永遠飛躍の生命力である「むすび」の道に参じて、各人がその分に従って、そのつとめを尽くすことだという(『日本主義経済新論』七十六頁)。
 一方、永井了吉は、「みこと」(一人一人の人間)が、それぞれの生命を最も充実させることが奉仕にほかならないとする。しかも、「みこと」それぞれが全宇宙過去未来に亘つて唯一無二の個性を持つことが、個性が尊貴である理由であり、その綜合によって全体としての大創造が可能だと説いた(永井了吉『皇道経済概論』日本主義評論社、昭和八年、百三頁)。
 田辺宗英は、社会の進歩と発展が、我欲闘争、自由競争から生み出されたものだと考えることは迷信だと断じ、偉大な発明の多くは奉仕の精神から生み出されたとする(『皇道経済の確立』四十四頁)。誤解のないように付け加えれば、ここでいう「奉仕」とは、強いられてするものではなく、喜びとしてするものと考えるのである。その大前提が、「一切を慈しみ給ふ至仁至愛の大御心に対する感謝報恩の念」である。
 こうした観点から、歴史的建造物の評価も再検討されるべきかもしれない。例えば、従来、ピラミッドは奴隷によって建設されたとされてきたが、昨年エジプトの考古学チームが、クフ王のピラミッドの建設に従事した労働者の墓群を発掘し、奴隷従事説を覆した。あるいは、高い技術を持った労働者が、ある種の宗教的使命感を伴ってピラミッド建設に従事していたのかもしれない。
 勤労についての皇道経済論の考え方は、貨幣のあり方にも及ぶ。三六倶楽部(瑞穂倶楽部)を率いていた小林順一郎は、「勤労報国券」という精神的表彰として貨幣を位置づけるという構想を示していた。小林は、物の価値によって貨幣価値を定めるという従来の考え方は、皇国扶翼を全生命とする皇国民の精神と相容れないとし、「勤労報国券」が皇国独特の経済原理を明徴にすることになると主張した。
 小林は、例えば「勤労奉行」を設けて、そこで勤労の価値に見合う通貨を直ちに発行できるようにしてはどうかと提案した。こうした通貨発行方法によって、従来の国家財政の観念に制約されずに通貨発行ができるようになり、国家が所有する資源、設備、人力のすべてを最大限度に発揮できると主張した。そして彼はこのような通貨発行は、国家統治権の存在が絶対不変なる皇国においてのみ採用できると説いた。
 一方、出口王仁三郎は、カネの支配からの脱却のために、現在流通している貨幣を奉還し、「皇室の御稜威」に依存した新紙幣を発行することを主張していた。また、大本教信者の葦原万象もまた、藩札の例を紹介した上で、カネが足りなければいくらでも発行すれば良いと主張していたが、彼もまた王仁三郎と同様に、日本人の貨幣に対する特別の観念、つまり「天皇の御稜威輝く十六菊花章」に表された特別な信用に基づけば、通貨の信用は保たれると説明していた(葦原万象「万人の喜ぶ『皇道経済』とは何か」『神聖』昭和十年五月(『大本資料集成 運動』)七百八十一頁)。葦原は紙幣の乱発を招き物価の高騰を招くのではないかとの疑問に答え、「皇道経済は失業者に仕事を与へ此等の生産制限を撤廃して尚一層能率を発揮拡張するのである。而して其れに応じて貨幣を増発するのであるから、物価は断じて高騰する筈がない」とも述べている。

おわりに


 以上、(一)肇国の理想と家族的共同体、(二)神からの贈り物と奉還思想、(三)エコロジーに適合した消費の思想、(四)成長するための生産=「むすび」、(五)生きる力としての「みこと」意識──の観点から、皇道経済論の特徴的な主張を整理してきた。それらは、国学、古神道、神話などに基づいた、国体の理想、宇宙生成の原理に発している。
 かつて、皇道経済論は、日本主義経済学、生活経済学などの名称でも呼ばれ、早坂忠氏によれば、満洲事変勃発頃からそれは急速に力を持ち始め、戦争後半期には日本経済学界の主流を形成した。ただ、そのとき明治維新以来の富国強兵路線を踏襲し、戦時体制の要請に応える形で、生産力拡大、総動員体制の確立、経済統制を強める政府の意図に、皇道経済論が迎合した部分がなかったわけではない。昭和十二年五月に編纂された『国体の本義』にも、皇道経済論の発想が示されていたが、そこにも時局の要請が色濃く反映されていた。欧米列強の進出に直面し、富国強兵策によって独立を維持したわが国は、その後も近代化路線を推進するために、官僚主導、中央集権型の産業経済政策を採用せざるを得なかった。それは、「むすび」の精神を純化した農本自治思想家などから厳しい批判を受けていた。つまり、本来の皇道経済論には、欧米的な近代化自体を超克しようとする発想があったのである。
 資本主義の矛盾が深まる中で、そうした本来の皇道経済論の主張を現実の経済政策に生かす方策を考えるときではなかろうか。それには、制度の改革以上に、国民意識の根本的な改革が不可欠である。まず、我々は物心一如の観念を回復し、経済優先の考え方自体を見直す必要があるのではなかろうか。また、皇道経済の発想を取り入れつつ、わが国が対外的な経済関係を維持するとすれば、近隣アジア諸国をはじめ国際社会における皇道経済の発想の理解が必要になる。
 新自由主義の発想に基づく日本の制度改革の圧力が再び強まりつつあるいま、皇道経済論を通じて国体に則った本来の経済観を再認識するという営みの中に、自主独立の気概を回復するのみならず、文明の在り方を再考する契機を見出すことができるのではなかろうか。

*本稿は『新日本学』第二十号、平成二十三年に掲載された「忘却された経済学 皇道経済論は資本主義を超克できるか」の一部を修正したものである。

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