古神道霊学の先覚・本田親徳①
神道霊学中興の祖
本田親徳(ほんだちかあつ)の思想は、近代の古神道霊学の源流の一つとして位置づけられる。彼の思想は、長沢雄楯、副島種臣らに継承されたほか、出口王仁三郎、友清歓真、荒深道斉ら、著名な古神道家にも大きな影響を与えている。
文政5(1822)年1月に薩摩藩で生まれた本田親徳は、幼い頃から漢学と剣道を修業した。天保10(1839)年、17歳のときに京都に出て、その後江戸に移った。会沢正志斎に入門し、和漢の学を学んでいる。平田篤胤の家にも出入りしていたとされている。
京都に滞在していた天保14(1843)年、21歳のとき、狐憑きの少女に会い、憑霊状態で和歌を詠むのに衝撃を受け、霊学研究に入ったという。この「和歌を詠む」という点が、極めて重要なのではなかろうか。彼は、歌の機能に対する特別な思いを抱くようになったに違いないからである。
本田は、安政3(1856)年に神懸りに36法あることを悟っている(『本田親徳全集』山雅房、1976年、572頁)。ちょうどこの頃、彼は神祇伯白川家の最後の塾頭だった高浜清七郎と交流していた(前掲、577頁)。高浜は、門外不出の伯家神事秘法を体得していた(前掲、587頁)。
自ら古神道霊学の復興に乗り出した本田は、決して非科学的な迷信に惑わされていたわけではない。友清は、本田を次のように評価している。
「世の中の一部には本田先生を目して各方面に迷信の種を蒔かれた人のやうに誤解して居る人があるらしいが、事実は其の反対で一生を迷信打破のためにさゝげられた御方である。世間多くの神懸かりめいたものの大部分が甚だ低級な妖魅の作用なることを各方面から詳細に研究して世人の蒙を啓かれ、同時に至厳なる帰神法の存在を実証的に説明することに努力せられたもので、欧米の心霊科学なども輸入せられて居らぬ幕末頃から明治20年頃までの御尽力といふものは非常なものであつた。」(『友清歓真全集 第4巻』638頁)。
本田が残した膨大な著作は、いくつかに分類することができる。本田の直弟子の鈴木廣道の孫、鈴木重道氏は、『産土百首』、『霊魂百首』が序論、『古事記神理解』と『難古事記』が本論、『道之大原』が結論、そして『道之大原』を解説したのが『真道問対』だと位置づけている(『本田親徳全集』584頁)。
『難古事記』をはじめ、本田の著作は平田篤胤らの国学者に対する厳しい批判を含んでいたために、弟子たちは意識的にそれらを公開することを控えていた。これが、本田の思想の普及を妨げていた理由の一つである。しかし、本田は平田を否定したばかりではなく、平田から多くを学びとっていた。平田を乗り越えようと努力することによって、自らの古神道霊学の境地を切り開こうとしたのではないか。
産土神の解明
産土神や一霊四魂論は、本田霊学の基本的な概念である。産土神とは、産土(生まれた土地)を守護する神のことである。本田は産土神に関する理論を和歌に詠み、『産土百首』としてまとめるとともに、『産土神徳講義』を著わしている。同書で本田は、それぞれの土地の恵みによって生きていることを次のような強調している。
「眼前ニ老若男女ノ日々目撃スル所ヲ以テ之ヲ云ハンニ、其ノ遠祖ノ代ヨリシテ其ノ土ヲ踏ミ其ノ水ヲ飲ミ、其ノ地ノ五穀ヲ食ヒ、其ノ地上ニ家居シ、其ノ竹木ヲ用ヒ、其ノ金石其ノ珠玉、其ノ布帛、其ノ言語、其ノ里風、其ノ気候、其ノ器械、其ノしゅ(「禾」に「朱」)、其ノ魚鳥、其ノ海藻野菜、其ノ大気、其ノ雨露云々ヲ、朝夕資用スル物品悉ク産業土神ノ賜ニアラザルナシ」(『産土神徳講義(上)』11頁)。
産土神に関する本田の業績について、鈴木重道氏は「産土信仰の解明は本田先生の皇学の門であると同時に日本人の正しい神社信仰の入口であると私は考えている。従来の人格的にのみ解釈した神の存在に対して、もつと広い大きな視野を与え、雄大な宇宙の神秘と生命のつながりを拓き、科学的な頭脳に教育せられた現代人にも首肯し身に迫る信仰として受取らせる処に先生の皇学皇道の真髄がある」と指摘している(『本田親徳全集』581頁)。
本田は『道之大原』において、次のように万物が神(大精神)から発していることを強調している。
「人心也は大精神の分派。故に生無く死無く之れが制御する所たり。而して今時太陽大地大陰及び人魂を以て各位の守神と為す。悉く皆神府を無みするの説。信従す可らず」(前掲、36頁)、「心を尊び体を卑むは善を為すの本。体を尊び心を卑むは悪を成すの始。故に曰く善は天下の公共する所、悪は一人の私有する所」(同38頁)、「萬物の精神亦た神の賦与する所。然りと雖も其の受くる所に尊あり卑あり大あり小あり。故に各々善あり悪あり賢あり愚あり。その千変万化究尽するところ無きが如し。大なる哉大精神の用」(同40頁)。
霊、力、体によって万物は生成
本田はまた、「神は自ら万物の始祖を造る、誰か各祖と形体同じからざる者ぞ。子承孫継の理を知れば則ち我体は父祖の遺体にして子孫は我の後身たるを知る。四海同胞、神人一系、身体髪膚の重んぜざる可からざる所以なり(神自造万物之始祖誰不与各祖形体同者、知子承孫継之理則知我体為父祖之遺体而子孫為我後身、四海同胞神人一系身体髪膚之所以不可不重也)」と説いている(『真道問対』鈴木重道『本田親徳全集』51~52頁)。
続けて本田は、「唯体は霊ありて用と為る。而して霊也は自己力徳の取る所にして父祖の譲る所に非ざるなり(唯体也者有霊為用而霊也者自己力徳之所取而非父祖所譲也)」とする(『真道問対』『本田親徳全集』51~52頁)。本田は、「体」として剛体、柔体、流体の3つを挙げ、これを三元とする。
さらに、本田は「霊」の働きに「力」が伴って万物が生成するとした。本田の高弟副島種臣の質問に答えるという形式の『真道問対』には、次のようにある。
問者副島種臣『霊、力同一乎。』
対者本田親徳『霊には力無く、力には霊無し。霊、力相応じて、而して神と為り物と為るを得る也。』 本田は、「力」として動、静、引、弛、凝、解、分、合の八つを挙げ、これを八力とする(「真道問対」『本田親徳全集』47頁)。つまり、本田の古神道霊学は、次のように「霊」、「力」、「体」の三大要素によって、万物の生成が起こるとしている。
「神の黙示は則ち吾俯仰観察する宇宙の霊力体の三大を以てす
一、天地の具象を観察して真神の体を思考すべし
一、万有の運化の毫差なきを以て真神の力を思考すべし
一、活物の心性を覚悟し真神の霊魂を思考すべし」
古神道では、天上から下された四魂を一霊が統括して人体に宿り、霊止(ひと)になるという。四魂とは、荒魂・和魂・幸魂・奇魂である。荒魂は勇魂、和魂は親魂、幸魂は愛魂、奇魂は智魂であり、また本田は、荒=「進」、「果」、和=「平」、「交」、幸=「益」、「育」、奇=「巧」、「察」とも述べている。本田は、善を行なえば魂量は増え、悪を行なえば魂量は減るとした。
なお、本田の『霊魂百首』は、一霊四魂とその働きを和歌に詠んだものである。
『古事記神理解』と『難古事記』は、鈴木重道氏が本田の古神道霊学の本論と位置づけた著作だが、まず『古事記神理解』は、本田の古神道霊学独自の古事記解釈で、一霊四魂、三元八力等の論が展開されている。『難古事記』は、和歌300首を詠み、それに古事記の文章を添えて解説を加えたものである。
鎮魂と帰神
皇国固有ノ霊学として、本田親徳が挙げたのは、鎮魂、帰神、太占の3つである。菅田正昭氏は、帰神とは神懸り(神霊が人の体に乗り移ること)をさせる方法で、鎮魂とは「人の体に乗り移った神霊をしずめ、落ち着かせること」だと説明している(菅田正昭『複眼の神道家たち』八幡書店、1987年、116頁)。
鎮魂と太占との間にも、密接な関係がある。古代史の大家、三品彰英は布刀御幣(ふとみてぐら)、太詔戸言(ふとのりと)、太占(ふとまに)などに冠せられている「フト」は、単なる美称ではなく、神霊の来臨に関わる語と解すべきだと唱えている(岩田勝「『審神者』考」82頁)。
さて、本田が弟子の鈴木廣道に伝授した、鎮魂法の「先清浄式」は次の通りである。
次ニ 十種十柱神名奉称ナリ
次ニ 恐クモ某今般鎮魂神業ヲ奉行ニ因テ神代ノ任々平久御受令聞食ト恐美々々毛白須
次ニ 鎮魂及神乃ヘシ術ナレハ鎮里給ヘ霊主神
次ニ 十度普留霊乃奇支鎮魂ニ鎮里賜ヘ天地神
(此神名ハ随意ナリ)
次ニ 三産霊神ヲ一心ニ祈里幽山貫徹ノ加持ヲ冥中ニ行フ。(口伝)
但玉石ニ鎮ムルニ前以テ其目方見置ク可シ。
一 生産霊ノ鎮ル時ハ前ヨリ軽クナル
一 足産霊ノ鎮ル時ハ前ト平均ナリ
一 玉留産霊ノ鎮ル時ハ前ヨリ重クナル
右何レノ神鎮リテモ同断也。
右鈴木廣道ニ伝授ス
明治二十年五月五日 本田九郎 花押(『鎮魂法』鈴木重道『本田親徳全集』364~365頁)。
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