難波田春夫─わが神話に日本経済の本質を捉えた
マックス・シェーラーと神話の知
『翼賛国民運動史』(昭和二十九年)には、小泉純一郎元首相の父小泉純也が、昭和十六年一月の衆議院予算委員会で次のように語ったと記録されている。
「革新政策の名の下に赤化思想を日本に植付けんとするコミンテルンの陰謀を十分警戒する必要がある。……後藤(隆之助)局長が多年主宰している昭和研究会は、共産主義的思想との世人の非難の故に、ついに解散のやむなきにいたつたのである。また中には一連の関係者が同志と共に入り、翼賛会の各局部を固めていることは、一種の不安をもたざるを得ない」
この発言には、大政翼賛会をめぐる、財界・資本主義擁護派、国体明徴派、統制経済派(あくまで便宜的な呼び方)の複雑な駆け引きの一端が示されている。日本主義経済学者として注目を集めていた難波田春夫は、この時代にいかなる主張を展開したのだろうか。
難波田春夫は、明治三十九年三月三十一日、兵庫県に生まれた。大阪高校に入学した大正十四年頃から、西田哲学に関心を強めていたという。昭和三年に大阪高校を卒業、東京帝国大学経済学部に入学する。初めて手にした経済学の本が、スウェーデンの経済学者グスタフ・カッセルの『理論経済学』であった。ちょうどその頃、衆議院議員の小寺謙吉の寄附をファンドとした懸賞論文の論題が「グスタフ・カッセルの理論体系について」と発表された。そこで、難波田はどうせ読むのならば、論文を書き、懸賞論文に応募しようと思い立った。彼はカッセルに関わる多数の学術論文を読破し、経済現象の全体を貫くものが市場メカニズムの論理であるという近代経済学のエッセンスを見出したのである。こうして、難波田は三百枚ほどの論文を書き上げ、見事に入選した。
二年生になって早々の昭和四年春、友人に連れられて経済原論担当の教授のところに遊びに行くと、教授は「大学に残って教授への道を歩んではどうか」と難波田を勧誘した。こうして、経済学者としての難波田の人生が始まったのである。
彼は、昭和六年三月に東京帝大を卒業、翌昭和七年に兵役についた。だが、一カ月足らずで病気になり、淡路島の病院で療養するようになる。それまで、彼は理論経済学、特に景気変動の理論を研究していたが、療養中の瞑想を契機として、資本主義経済がどのように動くかよりも、いかに導かれるべきかということが問題だと気づいたのである。
同年六月に除隊となり、八月に助手として大学に戻ると、難波田は「国家と経済」の研究に没頭した。国立大学文科系が西洋思想のヒューマニズムの思想に傾き、我が国独自の思想を阻害する傾向が強まることを憂慮し、文部省が国民精神文化研究所を設立したのは、ちょうどその頃である。むろん、難波田の研究志向は、こうした国家レベルでの思想立て直しの動きと無縁ではなかったろう。
ただし、彼が「国家と経済」という研究テーマを定める上で、見逃すことのできない人物がいた。ドイツのカトリック神学者マックス・シェーラーである。卒業する頃、難波田はドイツの経済学者・社会学者ヴェルナー・ゾンバルトの著作を読んだのがきっかけで、シェーラーに傾倒していったのである。シェーラーは、「人間とは何か、宇宙全体の中でどのような地位を占めるのか」を自らの哲学のテーマと定め、「哲学的人間学」の概念を提唱した。
経済学者として歩み始めた難波田は、唯物論と観念論の統一というシェーラーの試みに着想を得て、経済理論と経済政策の関係づけについて独自の考え方に到達した。彼は、経済理論は経済という物資的なものの世界を支配する必然性を明らかにするが、経済政策はそこへ観念的、理念的なものを持ち込むことだと捉えることができたからである。こうして、彼は必然の論理を持つ「経済」に対して、「国家」が働きかけ、その在り方を変容することができると主張した(難波田春夫『風流鈔』早稲田大学出版部、昭和五十八年、百八十一頁)。これが、昭和十三年に刊行された『国家と経済 第一巻』において提示された「変容されうる必然」という概念である。
シェーラーの「哲学的人間学」は、我が国の近代の超克論に強い影響を与えている。難波田がシェーラーの思想に着想を得て、独自の経済学を展開しつつあった頃、京都学派の高山岩男はヘーゲル研究を推進する傍ら、シェーラーの思想的影響を受けて、哲学的人間学の研究を推進していた。高山の『哲学的人間学』には、「神話」に一節が割かれている。三木清もまた、『構想力の論理』の一章を「神話」から書き始めた。
神話の知は、近代科学が排除した知である。中村雄二郎氏は「神話の知の基礎にあるのは、私たちをとりまく物事とそれから構成されている世界とを宇宙論的に濃密な意味をもったものとしてとらえたいという根源的な欲求で」あると言う。
まさに、高山、三木と歩調を合わせるかのように、難波田は神話の知を経済学に活かすという発想を強め、ギリシア神話や中国の古典などから国家と経済の関係を探ろうとした。その成果が、昭和十三年にまとめられた『国家と経済 第二巻』(『古典に於ける国家と経済』)である。ここで彼は、主体的人間を離脱して客観的に存在する「科学」と、「間柄」としての具体的人間を可能にする根底としての「神話」を対照し、「神話」は、情意的、行為的、全体的な人間の考察を忘れた科学の欠陥を補うために必然的に再生してきたと主張する(十七~二十一頁)。この難波田の試みこそ、近代経済学が前提とする、「利益拡大のために合理的に行動するという人間像」への根源的批判を支えるものとなっていく。
日本経済の本質としての「仕え奉る」
いよいよ、難波田は日本神話に向き合って日本の経済の本質を探り当てようと試みる。本居宣長の『古事記伝』や和辻哲郎の『日本古代文化』に依拠しつつ、古事記、日本書紀の解釈に没入していったのである。こうして昭和十四年にまとめられたのが、『国家と経済 第三巻』(『我が国の神話に於ける国家と経済』)である。
難波田は、我が国の神話が示すものは、我が国におけるすべての氏族を一系の皇統からの分かれであると捉える、「血縁的共同体としての歴史」だと結論づけた。彼は、これを「『血』の統一」と呼ぶ。そして彼は、神話が示すものは、すべての氏族が「天下治しめ」す中心へ「仕へ奉る」ことだとし、これを「『心』の統一」と呼んだ(百四十一頁)。
例えば、『古事記』神代篇には次のようにある。
「ニギハヤヒが参り赴いて天つ神の御子に申し上げることには、『天つ神の御子が天降りなされたとお聞き致しました。それで、あとを追って、わたくしも天より参り降りきました』と、こう言うて、みずから天つ瑞の宝物を奉り、(イハレビコに)お仕えすることになったのじゃった。……さて、こうして荒ぶる神どもを言向け平らげ和らげ、従わない人どもを退け払うて、カムヤマトイハレビコは、畝火の白檮原の宮に坐して天の下を治めたもうことになったのじゃった」(三浦佑之訳)
難波田は、荒ぶる神どもが言向け平らげ和らげられ、従わない人どもが退け払われ、「仕え奉る」に到る物語こそ、「『心』の統一」の過程にほかならないと書いた。彼は、ニギハヤヒが「仕え奉る」ことにした理由は、天降り坐した「天つ神の御子」を見たからであると強調し、「神に仕え奉る」という我が国経済活動の本質を示そうとした。
続けて難波田は、神話が伝える「神の恵みとしての穀物」という考え方を探求する。古事記、日本書紀の中に現れる、稚産霊、大宜都比売神、保食神、倉稲魂神、豊宇気毘売神といった食物をつかさどる神は、神話の物語に従えば、それぞれ別々の神と考えざるを得ない。にもかかわらず、本居宣長や飯田季治がこれらの神を統一しようと苦心した理由について、難波田は、穀物は神の身体に化生したものであり、これを皇室のご先祖である神がお取りになり、「種と成し」給うた結果、我々に与えられたものであるということを、古典が我々に語ろうとしているからだと考えたのである。
難波田は、これらの食物をつかさどる神の物語と合わせて「斎庭之穂の神勅」の意義を強調する。彼は、「斎庭之穂の神勅」は、我々国民に対して、天照大御神が天孫降臨に際して臣民にお渡しになった稲を、わが国土に繁茂させることによって、これを皇孫に奉れと命ずるところのものであるとし、これこそが、「わが国民経済の理念」を示すものにほかならないと説いた。つまり、「わが国民経済の理念」は「天皇の御為に」の一語につくされねばならないというのが、難波田が神話から導きだした結論であった。こうした人間像は、近代経済学が前提とする人間像の対極にある。
後に、早稲田大学教授を務めた永安幸正は、難波田の日本神話の解釈は、カール・ケレーニイなどによって代表される現代解釈学(存在の意味の解読)の日本における先駆だと絶賛している。ここまでの研究を難波田自身は第一段階と位置付けていた。
戦時の要請と維新派経済論
実は、難波田が『国家と経済 第四巻』(昭和十六年)をまとめる過程で、彼を取り巻く日本主義派、維新派の経済論は、不幸な分裂傾向を示していた。近衛文麿のブレーン後藤隆之助は、すでに昭和八年末から蝋山政道を指導者とし、「昭和研究会」の名称で勉強会を主宰していた。この後藤の活動を資金的に支援していたのが、志賀直哉の叔父の志賀直方である。後藤は、一高時代に鎌倉の建長寺に参禅した際に志賀と知り合い、以来交流を続けていた。志賀の盟友には、陸軍士官学校同期(十三期)の小林順一郎や井田磐楠らがいた。
志賀は小林ら同志の経済論を昭和研究会に持ち込もうとしたようである。ところが、後藤が小林の貨幣論を昭和研究会で取り上げた際に、蝋山らのリベラル派は徹底的に小林理論を批判した。以来、後藤と志賀の間に溝ができてしまう。
やがて、近衛擁立の動きが活発化した昭和十一年、正式な団体として「昭和研究会」が設立された。後藤も志賀も近衛擁立に奔走、昭和十二年六月四日、各界の期待を背に、ついに第一次近衛内閣が組織された。その直前、志賀や小林は維新陣営からの入閣を強く望んでいたが、その意見は退けられ、志賀は憤然として組閣本部を去ったという。大森曹玄は「小林先生のみならず私ども維新派の千秋の恨事であつた」と振り返る。一方、後藤は志賀について次のように回想する。
「自由主義者はいかんと志賀さんから強く制肘を加へられて来たが、ぼくは頑として之に応じませんでした」(『後藤隆之助氏談話速記録』昭和四十四年、内政史研究会、九千九百三十頁)。
いずれにせよ、経済革新に対する維新陣営の分極化は、難波田の主張にも複雑な影響を与えていたと考えられる。ゴードン・M・バーガー氏は、昭和十二年からの変化として、「『日本主義』グループは、急激な国内改革に対して『社会主義』的で日本の国体と相容れないものとして反対しはじめたのである。この傾向は日中戦争によって倍加された。『日本主義者』達は、この戦争は制度改革ではなく精神動員と精神統一によって成功裡に遂行しうると執拗に主張したからである」と書いている(坂野潤治訳『大政翼賛会』山川出版社、平成十二年、百五十九、百六十頁)。
維新陣営は、正しい国体観に基づいて日本経済を分析し、現状打破、つまり資本主義経済の是正を求めてきた。本来、物心一如の原則に基づいて、制度・機構の変革と精神の変革は一体のものとして追求されるはずだった。ところが、制度の変革か、精神の変革かという対立に陥ってしまったかに見える。ここに、制度改革の強調が構築主義として攻撃される素地があった。その背景には、日本経済の戦時体制化、共産主義を浸透に対する警戒感の高まりがあった。
この分極化傾向は、昭和十五年七月二十二日に発足した第二次近衛内閣でも顕著に見られた。十月十二日に大政翼賛会が発足、十二月十四日にはその実践要綱が発表されたが、その間、小林は「臣道実践以外に日本人の行為はない」とまで主張するようになっていた。後に東方会に発展する、中野正剛率いる振東社は次のような声明(昭和十六年二月十四日)を出さねばならなかった。
「新体制運動の発足によって一時後退を余儀なくされた旧議会勢力は、翼賛会の不活発とその不評判を巧みに利用し、既成議会勢力と同様、革新的新体制運動に内心大いに不満を持つ財界旧体制勢力と結び、議会の表裏において、また院の内外において翼賛会攻撃に動き出したのである。この運動は近衛内閣支持の有志代議士が中心となり、議会出身三閣僚も加はりて一挙近衛与党を結成、大政翼賛会を政治的に全く無力に精動化せんとするものであつて、革新派に対し『赤』のレッテルを貼り、これを葬り去らんとする観念右翼の一派と相通ずるものがある」(句読点などを補足)
冒頭に紹介した小泉純也の発言も、こうした熾烈な綱引きの中でもたらされた。振東社の声明に象徴されるように、経済統制についての維新陣営の分裂には著しいものがあった。司法省刑事局の報告書(昭和十五年十二月)は、「勤皇まことむすび」(聖戦貫徹同盟を含む)が「強度統制経済」、大日本生産党系(黒龍会、瑞穂倶楽部、日本主義青年全国会議を含む)と建国会が「統制経済」、そして国体擁護連合会(愛国社、国際反共連盟、原理日本社、対支同志会を含む)が「資本主義的、現状維持的」──と分類していた。
さて、昭和十四年に東京帝大経済学部助教授に就いた難波田の発言は、社会の注目を集めていた。それは、次のような回想にも明確に示されている。「昭和のある時期から大東亜戦争の終結に至る期間、その発言がアカデミズムやジャーナリズムで最も注目された一人で、いわば〝教祖〟であったのである」(明星大学教授を務めた正慶孝)、「戦時下の多くの学徒は『国家と経済』で学問に対する知的割礼を施された」(草柳大蔵)、「難波田春夫という名は、その著『国家と経済』とともに、戦時下の学生である私にとって、夜明けの地平線上に輝く明星の様なものだった」(明治大学教授の寺田自永)
では、社会的に影響力を持った難波田は、いかなる主張を展開していたのだろうか。難波田は、『国家と経済 第三巻』までは、国家に規制される経済、経済を規制する国家という関係で、国家と経済を捉えてきたが、もう一つ全く別の国家が存在することに思い至ったのである。それが共同体としての国家である。彼は、それを民族共同体、国民共同体と呼んでいる。民族共同体が存在するからこそ、国家と経済が喧嘩分かれにならず、国民経済が成立するのだと難波田は主張した。この「経済、国家、共同体の三重構造論」の考え方をまとめたのが、昭和十六年に刊行された『国家と経済 第四巻』である。これが、難波田経済学の第二段階で、ここにおいて「難波田経済学」と呼ばれる独自の体系を樹立したとされる。さらに、昭和十八年には『国家と経済 第五巻』を刊行している。
井内弘文氏は、『国家と経済』(第一~三巻/昭和十三~十四年)までと『国家と経済』(第四、五巻/昭和十六~十八年)を区別し、前期には「いかに経済を統制するかということ」を研究対象としていたが、後期には「統制を受ける経済そのものを、いかにして強健なものにするか」を問題とするようになったと分析する(井内弘文「難波田春夫の皇国経済観」『三重大学教育学部教育研究所研究紀要』昭和四十二年十一月、二十一頁)。
この時点で、学界の皇道経済論者も分裂していた。難波田は資本主義経済機構そのものを統制するよりも、国体に基づいて日本人が意識改革することを重視し、「問題は結局組織の問題ではなく人の問題だ」とも述べていた。しかも、現在は資本主義の変革を重視している場合ではないと説き、昭和研究会の経済協同体論にも批判的な立場を鮮明にした。彼は、いわゆる「観念右翼」、「国体明徴派」の側に立ったのである。
小林順一郎と井田磐楠が起草した「大政翼賛会の性格に関する件」(昭和十六年一月五日)は、大政翼賛会は臣道実践体制であると明言し、「官公吏自身は勿論みずからの臣道の自覚に徹して、率先垂範自粛躬行と同時に、更に進んで各々職分奉公の誠を致し、皇国民をして皇国臣民たるの本領を大に発揮せしむることに努力せざるべからず」と説いている。こうした言説は難波田の主張を強く反映していたのである。
これに対して、作田荘一の弟子の柴田敬は、資本主義的経済機構を国体的に改めるべきだと主張し、独占資本の放任に強く反対し続けた。
難波田は、昭和十九年に刊行した『経済哲学』において、「国体は、経済を営む主体としての人間を、主体的に内面から正して行く原理なのであって、外からの統制と関係を持たない」と主張するに至る。井内弘文氏が、『経済哲学』において日本経済改造の問題は「国体明徴」という空語によっておきかえられてしまっていると評したのも無理はない(二十七頁)。
一方、牧野邦昭氏は、難波田が『経済哲学』で提起した「家・郷土・国体」の三重構造に注目し、難波田の言論に時局的な用語が用いられていたとしても、そこには既存の経済学体系に回収しきれない、風土、人倫といった要素を国民精神のうちに取り込んだ「新しい経済学」であったと評価する(牧野邦昭「精神と経済─難波田春夫の『日本経済学』」『日本経済思想史研究』平成十七年三月、三十、三十一頁)。
難波田が、生産力増強という戦時の要請に応えようという気持ちを強く抱いていたことは間違いなかろう。だが、その結果、近代の超克という視点からの国内経済の改革というテーマは棚上げされねばならなかったのではなかろうか。
再び近代の超克へ─相互律の提唱
終戦後、難波田は辞意を表明して東大を去った。昭和二十一年には「各著書によって大東亜共栄圏の確立を図った」として、公職追放処分を受けた。だが、講談社の野間省一社長の好意で、同社内に経済学研究所が設置され、難波田はそこで自由に研究を続けることができた。
難波田は、国家、経済、民族共同体の関係を新たな次元でとらえるべく、改めてヘーゲルの弁証法の研究に没頭した。彼は、「経済=自由」、「国家=正義」、「民族共同体=友愛」というように、経済、国家、共同体を原理的に還元し、自由の否定としての正義、正義の否定としての友愛という弁証法的関係として捉え直した。この研究成果をまとめたのが、昭和二十三年に刊行された『スミス・へーゲル・マルクス』であり、これが難波田経済学の第三段階と呼ばれる。
昭和二十七年になって難波田は公職復帰が可能となり、財団法人運輸調査局理事・経済調査部長に就いた。同年、東洋大学で教鞭をとるようになり、昭和二十九年には都立商科短期大学でも講義を始めた。難波田は、第四段階の研究として、「理論」、「政策」、「歴史」の関係の体系化に進み、「理論」は経済の必然的なりゆきを説明するもの、「政策」はこの必然に対して価値判断を下してこれを修正し変容するためのもの、そして「歴史」は両者の総合された軌跡だと把握したのである。そして、この歴史の根底に共同体の理念を見、共同体の実現に向う歴史を、歴史の本質と捉えられたのである(田村正勝研究室「難波田春夫先生について」)
http://www.masakatu.net/masakatu/naniwada.php
難波田は、昭和四十一年四月から早稲田大学の招きで新設の社会科学部で教壇に立つとともに、駒沢大学で講師を務めた。早稲田大学には昭和五十一年三月まで奉職した。その後は、大東文化大学教授、関東学園大学長、酒田短期大学学長などを務めた。この間、難波田は知識の吸収を続け、自らの経済学を発展させ続けた。後に駒沢大学仏教経済研究所で難波田から指導を受ける齋藤博は、「学問をするのは知識を増やすためではなく、生きた問題に主体的に取り組み、社会を良くするとともに、自分自身を立派にすることであると教えられた」と振り返る。
昭和六十一年以降は、駒澤大学大学院での門下生である出村忠吉が社長を務める日進株式会社の企画で発行されることになった『経済通信』などに論文を書き続けた。平成三年八月、難波田は『経済通信』第二十四号の論文を、最後の力を振り絞って書き上げた。難波田が八十五年の人生を閉じたのは、その直後の九月一日のことであった。
早稲田大学教授に就任する前後からの研究活動が、難波田経済学の最終段階であった。ここで、近代の超克というテーマが再び前面に押し出された。
難波田は、近代社会は、個々の存在が「自己は自己のみによって在る」という自同律の時代だったが、来るべき次の時代は「相互律(アレロノミー)」だと位置づけた。彼は、自同律は、私は私であり、光は光であり、闇は闇であると考えるが、光は闇により、闇は光によってはじめて存在しうると説いた。一切の事象は、他との相互依存関係によって、はじめて実在しうる。難波田はこれを「相互律」と呼んだのである。後に彼は、西田幾多郎は相互律を絶対矛盾的自己同一という言葉で表現したと語っている。
戦後日本経済の分析にも、難波田は相互律を用いた。彼は、社会主義も資本主義もともに、思惟の論理が生み出したイデオロギー、つまり自同律であり、いずれ行き詰ると主張したのである。
難波田の死後、その先駆的業績を評価する論文がいくつも書かれてきたが、『我が国の神話に於ける国家と経済』で示された「天皇に仕え奉る」ことが我が国経済活動の本質だとする彼の主張は、素通りされてきた。難波田自身、戦後は国体思想や日本神話についてほとんど語ることはなかった。しかし、死の直前まで全うした彼の研究活動を支えていたものは、「日本経済の本質を示す日本神話には、資本主義と社会主義を超える、自由かつ正義(平等)が貫かれる民族共同体(友愛)の原型がある」という強い信念だったのかもしれない。