生きづらさを面白がる。
今、あのひとが生きていたら、どんなことを語ってくれるだろうか。
こんなことを思うことはありませんか?
緊急事態宣言が発令されようが、どの時代も生きづらさはある。生きづらい時代に、私たちはどうやって折り合いをつけていくのか。
少しでもココロが軽くなれるように、この人が生きていたら何を語ってくれるだろうを、過去の言葉と共に妄想してみようと思います。
天野祐吉さんの言葉
私が今の仕事をしているのは広告批評があったからだと思います。朝日新聞のCM天気図や年末の筑紫哲也のニュース23で語ってくれる天野祐吉さんの言葉が好きでした。
広告という窓から世の中をのぞいてきた天野祐吉さんの言葉です。
広告は常識を変えるモノ
佐藤可士和さんとのトークショーで。
この国は、知的水準の高い国だ。それなのにほとんどの広告は、知的な人びとを無視してきた。その結果として、いまやほとんどの広告は知的な人たちに無視されているのだ。
「どういう時代が始まるか」ではなく、「どういう時代を始めるのか」ということでしょう。
これからの広告に可能性があるとすれば、夢の現実化のためのアイデアを出したり、実現のための集まった人びとの運動を支援したりするようなところにあるんじゃないでしょうか。
経済力にせよ軍事力にせよ、日本は一位とか二位とかを争う野暮な国じゃなくていい。「別品」な国でありたいと思うのです。
「成長から成熟へーさよなら経済大国」より
広告が、大衆表現としての新しい”言葉”を獲得するには、何をどうすればいいのか。そのことをいま、みんなが知恵を出し合って考えることが必要なのではないでしょうか。『広告批評』は、そのための小さいな場(フォーラム)です。
批評というのは、つくり手のためにあるんです。もっといえば、つくり手と批評者の対話みたいなもんなんですね。
よくない広告は批評に取り上げないことで「取り上げるに足らないもの」という批評をしていることになる。
メディアがつぎつぎに変わり、手法がいろいろに変わっても、「評判をつくる」という広告の役割はまったく変わらない。
広告っていうのは、非常にシビアな面もありつつ、デジタルには割り切れない、いろんないかがわしさや人間くささがいっぱいでね。そこがいいところなんだよね。
「広告も変わったなぁ」より
さくらももこの言葉
私は未だにさくらももこがこの世にいないことを信じていない。日曜夜のちびまる子ちゃんが見れないくらいに、さくらももこがいない事実から逃げている。
私は今、自分の人生の夢に挑戦しているのだ。家族はそれぞれの夢があるんだか無いんだか知らないが、私自身の夢とは無関係だ。私の人生は私のものでしかない。私は今、何が何でもこれをやるのだ。
自分自身への挑戦がやってきた。もうくだらない夢を見ている場合じゃない。まずは明日、紙とペンを買いに文房具屋へ行くべきだろう。 近所の文房具屋が、将来への第一歩だ。
毎日、人の数だけ違う事が起こっている。同じ日なんて無い。一瞬も無い。自分に起こる事をよく観察し、面白がったり考え込んだりする事こそ人生の醍醐味だと思う。
「ひとりずもう」より
渦中にいる時にやたら深刻になっているだけにすぎないのだ。そう思うと、あらゆる出来事の渦中にいる時にその流れを俯瞰で見る事のできる冷静さを持つ事は非常に大切である
「そういうふうにできている」より
さくらももこはどんな時代だろうが、
「この状況を楽しむしかないよね。こりゃあなかなかできない経験だよ。」
と言ってくれそうな気がします。コロナだろうが、ウィルスだろうが日々を過ごしていくしかないんだなと、(なんかみつをみたいだけど)
生きづらさを面白がる。
こうやって語ってくれるであろう言葉を妄想してみると、天野祐吉さんもさくらももこさんも生きづらさを面白がって営んでいくのだろうなと。当たり前だけどそれを分からせてくれる本があって良かったと思います。
これからも生きづらさに折り合いをつけて、ここにいないあなたへ想いを巡らせていこうと思います。この記事は星野源を聞きながら書いたので音楽も一緒に紹介します。