北九州にある「映画」の存在
私は、よく予言めいたことを発信してしまう。11月30日に投稿したインスタの内容もそうだった。
「明日から12月。今年の締めくくりのひと月になりますが、なぜだか、何かよいお知らせが舞い降りてくるような予感がします。勝手に期待しています。
また、12月は映画にまつわるイベントごとが目白押しなので、楽しみです。」
こんな内容だった。これを投稿した2日後に、予言が的中。小倉昭和館のプレオープン上映に当選したのだ。80年以上続く昭和館という映画館は、昨年8月10日に発生した市場周辺の大火にて消失してしまう。しかしながら、映画関係者、映画を愛する方々、そして地元からの支援によっていち早く復活をすることができたのだ。この上映会をきっかけに、私は故郷北九州にある「映画」の存在を体感することとなる。
1.変化を受け容れた復活
12月8日、早朝から特急に乗り込み小倉駅へ。小倉昭和館は、小倉の銀天街を抜けて駅から徒歩10分ほど。信号待ちをしていた道路の反対側に小倉昭和館という青と赤のネオンが見えた。思わず、iPadを取り出し、動画を撮ってしまう。すでに私より先に10人以上の招待客が並んでいた。報道陣のカメラも入り口あたりで集まっている。
10時半ごろ、三代目館主の樋口さんが列の前で挨拶をした。お客からはあたたかい歓声と拍手。私も思わず「おめでとうございます」と発していた。招待券を提示して、館内に入ると、とても綺麗な座席の緑色が目に飛び込んできた。そして、真っ先に探したのが8列3番の座席。事前に樋口館主の書籍を拝読していたので、いくつかの座席に俳優や監督の名前が金の刺繍で施されていることを知っていた。8列3番は俳優の片桐はいりさん(この後はいりさんと記す)の名前が刺繍されている。
はいりさんには、この昭和館で初めてお会いした。コロナ騒動が起きる直前に開催された、2019年11月9日オールナイトの上映イベントの時だった。ゲストで来ていたはいりさんの映画と映画館を愛してやまないその想いに触れ、一気に大ファンになってしまう。その際に上映された作品の中に、今回の招待上映で鑑賞する『ニュー・シネマ・パラダイス』もあった。
ご存知の方も多いかとは思うが、イタリア映画の巨匠ジュゼッペ・トルナトーレの映画史に残る名作中の名作。冒頭のベランダにある植木鉢の映像からすでに涙ぐんでしまった。それは、この作品の中で村の映画館が焼失してしまうのだが、小倉昭和館が昨年焼け落ちてしまったことと、重ねて観ていたから。
映写技師だったアルフレードは青年になったトトに「盲目」であると伝え、村から出ていき、二度と戻るなと言い放つ。なぜか。私は、この作品を観るたびになんとなく理解できたような気分にはなるものの、本質の部分をずっと掴みきれていなかったように思う。
四書五経の最初に挙げられる「易経(えききょう)」には、時の変化の法則が記されている。その変化の法則の土台となるのが、三易(さんえき)である。
① 時は常に変化をしている。
②その変化には一定の変わらない法則がある。
③これらの基本を知れば、理解は容易くどんなことにも応用が可能となる。
たったこれだけで非常にシンプル。しかしながら、このことを人は気に留めることもなく、ただその時々の時流に乗っかってしまう。
突然、映画の話から外れてしまったように思われるかも知れないが、実は、この『ニュー・シネマ・パラダイス』には、この時の変化の法則が真理をつくように語られている。アルフレードは、シチリアにあるこの村のことを「まぼろし」「夢」と形容する。まるで、自分たちがいる村だけ、時が止まってしまったかのような表現である。アルフレードがトトに発した言葉は、こんな村に居てはいけないと、前途有望なトトを外側にある「変化の場所」に押し出すかのようだ。村の広場に寝泊まりする男が常に「オレの広場だ!」と、最後の場面まで言い続けている。まるで変化を受け容れないでいることの象徴のように。
いつまでも、このままがいい。
こんな言葉が、村人から聞こえてきそうである。時の変化を受け容れるのがそんなにも怖かったのか。
この視座で思考すると、小倉昭和館はまったく反対の道を選んだことになる。映画館焼失という苦境から逃げず、この時代の大転換の中で、変化を受け容れ新しく生まれ変わり復活を果たしたのだ。
ここで大切なのは、どうやって変化を受け容れたのかである。それは、その時に必要なピッタリなことをなしたから。これを易経では時を中(あて)ると書いて「時中(じちゅう)」という。中(ちゅう)することを何よりも重んじる。多くの方々が、小倉昭和館の復活を望み、互いに協力しあった。私も上映イベントに行ったことがあるが、本当に多くのボランティアの人たちが一致団結して活動されていた。この復活への強い思いを実現するために懸命に力を尽くしてきた。これは、映画を超える現実であり、見事の一言に尽きる。一方で、『ニュー・シネマ・パラダイス』では、偶然宝くじを当てた村人が出資をし、消失した映画館を再建する。しかし、そもそものお金の出所が泡銭であり、ある種の「時流」から生じたもの。これも易経ではっきりと書かれていることだが、時流に乗るものは時流によって自滅すると。確かにシネマ・パラディッソは最後爆破されてしまう。
時は必ず変化する。それにはある一定の法則がある。これらを知るだけであらゆることに応用できる。
小倉昭和館は、この時の変化の原理原則を素晴らしい結果として具現化した、極めて稀有な存在の映画館ということになる。
2.青山真治監督との接点
プレオープン上映会を終え、昭和館を後にした私は、北九州市立美術館別館へ徒歩で向かった。ちょうど同日から開催される北九州市民映画祭にて、青山真治監督特集追悼上映が組まれていたからだ。青山真治監督は、北九州市門司区の出身。この市民映画祭の立ち上げにも尽力なさった方。正直なところ、私は、青山監督のことを生前まったく存じ上げていなかった。昨年青山監督の訃報を報道で耳にした程度。しかし、あることをきっかけに、青山真治監督という存在が、私の内側に新たなゆらぎを生じさせていることに気づく。
上記の映画イベントに参加するため、2022年12月上旬、私は映画旅行に鳥取へ。同じ時期に、市内にある行きつけの映画館で甫木元空監督の作品『はだかのゆめ』が公開され、監督の舞台挨拶が行われることになっていた。主演の青木柚さんの映画作品で表現する演技が素晴らしいと感じていた私は、監督宛に手紙を書き映画館の方に渡してもらうことにした。鳥取から戻り、後日映画館の方から伺った話によると、実は、甫木元監督は北九州出身である青山監督の最後の愛弟子とのこと。今回青山監督の故郷である福岡にて舞台挨拶をすることに、並々ならぬ思いで来福していたということだった。そんな時に、私から初めての手紙。2人の監督の関係を知らぬまま、私は手紙の中で、甫木元監督が推薦していた『書かれた顔』についても触れている。その映画で青山監督が助監督を務めていた。甫木元監督の胸の内を思い浮かべると、どこか切ない感触があった。
一通の手紙を通して、私は青山真治という映画監督に、ようやくたどり着けた。
北九州市立美術館分館に到着。3日間開催の映画祭で私は5作品を鑑賞することにしていた。まず、初日は2作品。1996年の『チンピラ』と2011年の『高塔山ジャム2011』。『チンピラ』に出演している、大沢たかおさんや光石研さんの若々しさに、なぜか驚く。人は誰しも刻一刻と歳を重ねているもの。老けていくことは自然な営みの一つである。それでも、当時を映す映像は時の変化を克明に描き出し、敏感に受け取ってしまう。特に、他界してしまった方々の映像となると、尚更にあらゆる気持ちが押し寄せてくる。『高塔山ジャム2011』の野外ライブの模様を撮影していたのは、青山真治監督。その舞台でノリノリに歌い演奏しているのはシーナ&ロケッツ。まるで、その会場の真ん中付近にいる自分が「最前列、盛り上がってるなー」などと言いながら、タオルを空中に投げたりしている気分。隣の人の汗がついても構わないような、なんとなくの一体感。夏は野外ライブ最高!なんて。アンコールの後、映像は夜空へ。暗闇から一気に美術館の灯りに照らされる。今までに感じたことのない、深い喪失感。もう、二人はいない。その事実だけが、この映画が残酷にも伝えたものだったのだろうか。
今回の映画上映には、爆音映画祭のスタッフの方々が抜群の音響機器で、至高の臨場感を演出してくれている。明日の上映とトークイベントに期待を膨らませながら、私はまだ映画の余韻の中にいた。
3.映画の中に生きる
次の日、12月9日。昼過ぎに北九州に到着した私は、小倉の名物、娘娘(ニャンニャン)のラーメンと肉やきめしを昼食にいただく。久々の店内には、以前と変わらず、昭和の懐かしさがしっかりと染み付いて残っていた。だが、長年フライパンを振っていたおじさんは数年前に辞めてしまったようで、少し寂しさを感じた。
食後、改めて美術館へ。2日目は、まず最初に「青山真治クロニクルズ展」へ足を運ぶ。青山真治という映画監督の足跡を巡る展覧会。会場は映画上映会場の一つ上の階。事前に購入しておいた前売り券を提示し入場しようとした時、会場入り口にある古本に目が行く。スタッフの方に尋ねると、青山監督の夫人、とよた真帆さんから青山監督の遺品である書籍やビデオ、DVDが寄贈され、それを販売しているとのこと。収益は、同団体の活動費に充てられる。つまり、青山監督の遺品であり、形見である。この展覧会は1週間ほど前からすでに開催されており、大半の品々は多くの人の手に渡っている状態。その中から、一冊の本が私の目を釘付けにした。
『薔薇の鉄索 村上芳正画集』
箱から取り出し、目を通してみる。そこには溢れ出るほどの創造世界。これらが一人の作者の内側から生み出されたことを想像すると、表現に迷うのではなく、言葉の表現でもって立ち入ってはいけないように感じた。そして何かに突き動かされるような感覚があった。
「これ、いただきます」
この本以外に、青山監督の内側に秘められている本質に触れることはできないのではないか。そんな勝手な妄想さえ浮かんできた。
書籍の購入を済ませ、早速展覧会場へ。青山監督の手がけてきた作品のチラシやポスター、台本のメモ、映画中に使用された小道具など様々な品々が展示されていた。壁一面に、青山監督の自宅本棚の写真を拡大コピーをして貼り付けてあるところも。その様々なジャンルの書籍を眺めていると、監督の思考の多角性と多面性を感じざるを得ない。先ほどいただいたばかりの『薔薇の鉄索』もこの本棚の中に潜んでいたと思うと、感慨深い。人の本棚を観れば、まるでその人の頭の中をのぞいているかのようだとは、言い得て妙。
この展覧会には、映画『サッドヴァケイション』と『共喰い』のメイキング映像が1時間20分ほどあり、私は運良く最初から最後までしっかりと鑑賞することができた。ただ、両作品ともまだ観たことがなく、先にメイキングから観るという一風変わった楽しみ方となった。
『サッドヴァケイション』は北九州三部作の完結作と言われているが、このメイキングの中には、三部作の最初の作品『Helpless』の映像も使用されていた。ある場面になったときに、私は一瞬目を見開いた。
「りゅう先生?」
20数年以上前に、北九州の小さな劇団でナレーションや朗読を学びに通っていた。その主宰者がりゅう雅登先生。若い頃に東京で役者をなさって、その後北九州に戻って劇団をされていた。一瞬のことだったので、見間違いの可能性もある。後ほど『Helpless』を鑑賞するので、じっくり観て確認することにしよう。
展覧会を後にした私はそそくさと一つ下の上映会場に移動。まずは建築映画探偵という異名を持つ堀口徹氏によるトークイベント。本業は大学の先生で、建築学を教えている。堀口先生は、映画のロケ地をストリートビューで探しながら、巡っているという強者。些細なことも見落とさないその鋭い眼光は。。。というようなことはなく、至って淡々と自分の興味関心のアンテナとベクトルを全開に広げ、映画を思いっきり楽しんでいる方。トークが終わった後、会場から拍手が沸き起こった。私もその後の『Helpless』『シェイディー・グローヴ』の鑑賞中、背景の景色が気になってしまうほど、感化されていた。とても面白い映画鑑賞の視点を授けてもらったと思った。同時に、私には励ましをいただいたようにも感じた。私は、易経という東洋哲学の角度から映画を堪能している。初めて耳にする人には、小難しいことを考えて何が面白いのかと思われるかもしれないが、映画は我々の人生におけるあらゆる営みを描き出し、また易経は人生を生きていく上での指針を書きつけてある書。つまり、映画の観る角度を微調整するだけで、この激動の時代を生き抜く術を享受できるということである。私は、映画エッセイを介してそのことを届け続けていきたいと思っている。
そして先ほどのりゅう先生のこと。やはり間違いなく出演されていた。冒頭の出演者テロップに名前を見つける。『Helpless』は1996年の作品。作中でりゅう先生は浅野忠信さん演じる健次の父親役で出演。とにかくびっくりして、危うく大きな声が出そうになった。その日の夜、りゅう先生の娘さんにSNSでメッセージを送ると「作品として残るのは、本当に幸せなことですね」と喜んでいらした。このりゅう先生はコロナ騒動より以前にすでに他界されている。映像を通して先生に久々にお目にかかれたことは、青山監督が繋いでくださったご縁だと思えてならない。
4.「音」から生まれる総合芸術
北九州市民映画祭も最終日。映画プロデューサーのトークイベントと最後にもう一作品鑑賞することにしていた。上映会場に到着するや否や、受付の方から思わぬ情報を耳にする。青山作品で美術デザイナーをしていた清水剛氏がトークイベントを展覧会会場にて、今ちょうどしています、とのこと。映画のチケットがあれば入場できるという言葉を聞き流すように、上の階に急いだ。会場には、すでに多くの人が集まり、展示の前で男性が説明をしていた。イベントは予定時間の半分を過ぎ、すでに後半部分。青山監督は『ユリイカ』から音を意識するようになったという言葉が、耳に入る。メモメモ。『共喰い』で使われた魚屋の旗の誕生秘話や牢屋の場面で使われた牢屋のこだわりなど、この機会でしか伺えない貴重な内容ばかり。メモメモメモ。。。最後に質問の段になり、遅れて参加したにもかかわらず、素朴な質問をしてみた。
青山監督にとって「音」とはどのような存在なのか。
清水さんからこのような回答をいただいた。青山監督にとっての「音」は画(え)を具現化する一つのアイデアになると。つまり、美術造形をする上で「音」は着想点になっている。例えば、『共喰い』で使われている義手は、腕から外す時に「シュポッ」という音が出るようにしてほしいと、青山監督は清水さんに要望を出したそうだ。
なぜか。どうしても気になる。この映画祭の翌週には、北九州国際映画祭が開催され、青山監督の追悼上映もあり『共喰い』も上映される。実際に観て確認しよう。さらにスケジュールをよく見ると『サッドヴァケイション』も同日に別会場にて上映される。「よし、映画をはしごしよう」トークイベントの後、即座に決定。何か面白い方向に転がってきた。ぼんやりとではあるが、映画作家・青山真治の輪郭をじわじわと実感しはじめていた。
展覧会会場を後にした私はそそくさと上映会場へ。最前列真ん中に座り、映画プロデューサー仙頭武則氏のトークイベントを拝聴した。仙頭さんは、青山さんに映画監督として最初の機会を授けた方。その最初の作品が『Helpless』である。仙頭さんは、青山さんに出会ってから2年間べったり24時間行動を共にしていたそうだが、青山さんは故郷である北九州のことを話したがらなかったというのだ。仙頭さんは、青山さんが進むべき道はあらゆる創作の作家であると観抜いていた。故郷のことで、青山さんが何かを隠していると悟った仙頭さんは、その部分と向き合わせるために、青山さんに2つの条件を提示。一つは、北九州で撮影をすること。そしてもう一つは、音楽は自身が担当することだった。最初はこの条件を嫌がっていた青山さんだが、この仙頭さんの采配が、実はその後の青山さんの大きな成長を促すことになったのではないかと、私はトークイベントを聴いていて強く感じた。
易経には乾為天(けんいてん)という卦がある。龍の成長物語に例えられる。この卦のニ爻を見龍(けんりゅう) といい、初心の志をしっかりと打ち立てた次の段階。周囲のさまざまな人、物、事をただ見て学ぶ。まだ力はない。しかし、最初に決めた強い思い(これを易経では「確乎不抜」という)がある人間からは、観る人が観ればわかる、内に秘めた志の輝きが自然に溢れ出ているもの。そのことを観抜く存在こそ大人(たいじん)である。その見龍を上へと引き上げ、これからの大いなる成長の一歩を促す。
もう説明は不要かと思うが、まさにこの見龍の話こそ、仙頭さんと青山さんの間柄そのものだと、私はとらえた。
最後に仙頭さんは「(青山さんに)何とか撮らせてやりたかった」と涙ながらに語った。「(青山監督が)残していったものを、観てやってください」と。
トークイベント終了後、最後の作品『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』を鑑賞した。美術デザイナーの清水さんが、トークイベントの際に話したことを思い出す。「エリエリはまさに音が凝縮された作品だ」
2023年の春、音楽家の坂本龍一氏が亡くなった。日本だけでなく世界中にその訃報は伝わった。その直後に2017年に公開されたドキュメンタリー映画『Ryuichi Sakamoto:CODA』を劇場で再度鑑賞する機会を得た。映画の中で、坂本さんが『戦場のメリークリスマス』や『ラストエンペラー』は、はじまりに過ぎなかったと話すところは、とても印象に残った。音楽ではなく「音」へと、自身の思想哲学の表現が昇華されていく様は、私の心を揺さぶった。公開当初はまったく意味が分からず、当時購入したパンフレットも読まずにしまい込んでいた。今回の鑑賞後、数年経ったが真新しいままのパンフレットを開いてみる。今頃になって、坂本龍一という偉大な音楽家が存在していたことを噛み締め、自分の至らなさに後悔した。
私は『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』を鑑賞している最中、ずっと青山さんと坂本さんが頭の中で重なって浮かんできた。音と芸術と哲学が深く絡み合う中で、音楽家である坂本さんは、音楽から最終的に「音」という芸術に至る。そして映画作家である青山さんは「音」から映画映像という芸術にたどり着いた。興行的に成功しているのは『ユリイカ』だが、俺たちの最高傑作は『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』ではないかと、2021年ごろ青山さんは話していたそうだ。私もこのことに激しく同意する。『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』の最後の場面。宮崎あおいさん演じる女の子が目隠しをつけた状態で草原に立たされ、大音響で「音」を耳にする。私も同じように目をつむり「音」を耳にした。最高の音響機器のおかげで、身の毛がよだつような臨場感の中、私は思った。
「音を観ている」
「観る」という言葉は、見るとはまったく意味が異なる。観るとは、洞察すること。目に見えることしか見ていないと、永遠に「観る」ことはできない。この映画の中で「音」を採取している場面が幾度となく出てくる。初めのうち、意味がよくわからなかったが、最後のこの場面になってすべての点が一気に結びついて立体になった。青山監督の先を見越す力、すなわち洞察力や観る力にはただただ圧倒される。
鑑賞後、打ち上げにも参加した。青山監督の古くからの友人が、実は私の古くからの親しい先輩だったのだ。その方のギャラリーで関係者の方と歓談した。某テレビ局記者の方が青山監督についての報道映像を見せてくれた。
「(北九州は)からだをつくった 魂をつくったところ すごく愛していたと思う」
青山さんの内側にある「蒙」が一つひとつ啓(ひら)いて、青山さんは青山さんになれた。映画作家に至ったのだなと、思った。青山さんがよき理解者や指導者に恵まれていたことを知り、携帯電話の画面を見ながら微笑ましく感じた。
翌週開催された北九州国際映画祭で『共喰い』と『サッドヴァケイション』を鑑賞した。それぞれに出演者等による舞台挨拶もあった。気になっていた『共喰い』で使われた義手のこと。ご覧になった方はご存知だと思うが、中盤で義手を外す場面がある。その際に「シュポッ」と、はっきり聞こえた。またその義手をまな板の上で洗う場面も。その先が尖っていることを確認した。話は最後の光石研さん演じる元旦那が刺される場面。元妻が刃物で元旦那を刺そうとするも奪い取られ海へ放り投げられてしまう。必死になって使ったのが、そう義手だったのだ。その時に、義手を腕から外す時に発した音こそ「シュポッ」。青山監督は、その「音」の存在の重要性を理解し、観抜いていた。唸ってしまう。
その後に鑑賞した『サッドヴァケイション』では、ロケ地が私自身の地元ということもあり、知っている場所が映し出されると懐かしく感じた。ちなみに、北九州三部作と言われている『Helpless』『ユリイカ』『サッドヴァケイション』。これらは、製作当初から決まっていたわけではなく、それぞれ別々に構想が出来上がっていったそうだ。仙頭プロデューサー曰く、一作一作ごとに全力で作っているので、連続性は考えていなかったとのこと。そうであるならば、本当に見事な物語の展開である。(見事という言葉が止まらない)
5.呼吸をはじめた映画
『共喰い』を観た2日後、私はまた展覧会の会場にいた。数日前に、最後のトークイベントの開催が決まり、急遽予定を変更。ゲストには、俳優の斉藤陽一郎さん、映画監督の三宅唱さん、青山組の常連スタッフの佐藤公美さん。3人それぞれの青山監督との関わり方から感じ取れる、映画作家・青山真治という存在が私の中でよりリアルになっていく過程があった。それは、まるでその会場のトークゲスト席に青山監督も座って3人の話をそばで聞いて楽しんでいるようだった。最後に、質問ができる時間が設けられたので、率直に伺ってみた。
「まるで、青山さんがここにいるような気持ちになりました。でも、現実にはもういない。その上で、青山さんが残したものからどのような影響を得て、どう表現の場で活かしていくのか、教えてください。伺いたいです。きっと、青山監督も聞きたいと思います」
上記の中で、お三方それぞれの回答が確認できる。北九州市民映画祭を知っていただくのにもよい機会になると思うので、ぜひご覧を。
実は、俳優の斉藤陽一郎さんの発言がきっかけで、あることを知ることになった。「『EUREKA』の中で兄の直樹がテレパシーで妹の梢に「海を見に行け」というセリフが印象的で、監督から「映画を観続けろ」と言われていると感じる」という発言。その映画の場面は、記憶に新しい。というのも、この3月にイベント上映会で『ユリイカ』を鑑賞していたから。いつも映画ノートに記録を残している私。トークイベントが終わり、市内へ戻るJRの車内でノートを確認して、思わず片手に持っていたコーヒーを落としてしまった。そこには2023年3月21日と書かれてある。青山監督が亡くなったのは2022年3月21日。これは先日の仙頭プロデューサーがトークイベントで話していたので間違いない。つまり、私は青山監督の命日に図らずも『ユリイカ』を鑑賞していた。驚きのあまり、頭が真っ白になり何も考えられなくなった。
私の中では、青山真治という映画作家が手がけた作品は「残された」ものではない。青山作品についてまだまだ初心者マークを付けて鑑賞している。私には、青山監督からもその作品からも、今まさに生き生きとした生命力を感じる。いま、呼吸をしているのだ。青山真治という存在が私に与えたゆらぎは、明らかに私の内側で変化の芽生えとなった。これから私が生み出す思考と思索における変容が楽しみでならない。青山監督、ありがとう。
追記
12月16日の展覧会での最後のトークイベントの後、自宅に戻り、夜からバスで佐賀市内へ移動。シアター・シネマでオールナイト上映会「桃源郷」に参加。コロナ後はじめての通常オールナイト上映会となりました。よろしければ、下記のフォトエッセイもご覧いただけましたら、うれしいです。今回は長文となりましたが、最後までお付き合いいただき本当にありがとうございました。どうぞ、年末年始健やかにお過ごしください。