『ある画家の数奇な運命』 「グラスを割った」から「グラスが割れた」への主体性からの逸脱
小学生のころから、手を使って何かをつくる図画工作や家庭科が大好きでした。中高校では美術部に所属し芸術の道に進みたいとも思っていましたが、途中で方向転換。鑑賞中、芸術と向き合う青年の姿が懐かしく思えてきました。
画家の道を目指すドイツ人の青年クルト。第二次世界大戦で彼の人生も翻弄される。戦時中に芸術の魅力を教えてくれた叔母。彼女の死に関わったのが、クルトの婚約者の父親だった。戦後、東ドイツから西ドイツに移住するが、彼は画家として「自分は何者なのか」という問いに答えを見出すことができるのだろうか。
実は鑑賞後、私には消化不良の部分がありました。それは映画タイトルにある「数奇な運命」の中身を主人公の青年自身は知ることもなく、映画が終了してしまったからです。つまり、大好きだった叔母の死に義父が関わっていることを知らないままなのです。予告やチラシを見て抱いた期待とは異なっており、少々拍子抜けしました。
そのまま映画館をあとにして街中を歩いていると、歩きスマホをしたり、スマホを見ながらイヤホンをつけて自転車に乗っている人たちが、ふと目に留まりました。その時、私の頭の中にある言葉がパッと浮かんだのです。
「主体性」
映画の中で画家を目指すクルトは、妻とともに西ドイツに渡り美術学校に通い始める。担当教授は常に異質なオーラを醸し出し、生徒の作品は一切見ないことにしていた。ところがあることがきっかけで、教授自らがクルトのアトリエに出向き作品を見てくれることになる。そこで言われた一言が「君は何者か」という問い。「これらの作品は君ではない。主体性がない」と告げられる。
芸術家の卵にとって、心が押しつぶされるような衝撃的な言葉に違いないでしょう。私にはこの主体性という言葉と街に存在する人たちの景色が交差し、どこかでつながったのです。
主体性とは一体なんでしょう?
以前こんな質問をされたことがあります。「レストランでうっかりグラスを落として割った時、何て言う?」と。私は咄嗟に「グラスが割れましたと言います」と答えました。すると「大体の人がそう答えるんだよね。でもね、グラスは自分で落ちて割れることはないよね」と一言。そうです。「グラスが」ではなく「グラスを」であり、グラスを割ったのは他でもない「私自身」なのです。この時の私はまさに「主体性」を欠いていたことになります。
主体性とは当事者意識を持つこと。突き詰めると、それは自分の諸言動について責任を持つことでもあります。
大概、成功したことや良いことの場合は「自分がした」と自認をし、大いにアピールをする方も多いでしょう。でも、その反対はどうでしょうか。失敗したことや悪いことの場合はやたらと取り繕ったり、素知らぬ顔をする方もいるかもしれません。そんな主体性のない他人事の感覚が積み重なったら、自分自身も社会も一体どうなってしまうのか。想像しただけでもゾッとしてしまいます。「他人の振り見て我が振り直せ」とはよく言い得ているなと感心するばかりです。
期待していた印象以上に、生きていく上でとても大切なメッセージが込められている作品。少しだけ背筋が伸びる思いがしました。
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