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ベトナム・ドキュメンタリー文学紹介【連載第8回】『私はお父さんの娘です』 トゥオンサーの夜
ファン・トゥイ・ハー, ベトナム婦女出版社, 2020。“Tôi Là Con Gái Cha Tôi” Phan Thúy Hà, Nhà Xuất Bản Phụ Nữ Việt Nam, 2020.
【訳者Mikikoより】
引き続き、クアンチ省が舞台です。今回は、ハイラン県ハイトゥオン社トゥオンサー村(Thôn Thượng Xá, Xã Hải Thượng, Huyện Hải Lăng)で起きたと言われる物語から始まります。戦時中はどちらの側についても死と隣り合わせ、戦後平和が訪れても何十年にもわたって命の危険にさらされ続けている地域があります。
Thượng Xáの位置はこちら↓
Thượng Xá - Google マップ
今回出てくる「ラヴァンの聖地」と言われるカトリック教会は国道1A号線を挟んでトゥオンサー村の反対側にあります。
ラヴァン教会はこちら↓
Nhà thờ cũ La Vang - Google マップ
今回も、著者から写真の提供をいただきましたので本文中に掲載しました。
※本文中、身体の障がい、政治的な立場等に関する差別的な用語を使用することがありますが、原文を忠実に反映するため、そのまま掲載いたします。
◇ 目次 ◇
● まえがき
● クオック・キエット
● ザンおじさんと二人乗りした三日間 (前半)
ザンおじさんと二人乗りした三日間 (後半)
● フエへ
● カムロの母
● 「戦争が今まで続いていなくてよかった」
● チンおじさんの親指
● トゥオンサーの夜 ☚ 今回はここ
● 「コマンド野郎」
● ヤシの老木
● ホイトン寺の鐘の音
● サイゴンのバイクタクシー
● 女軍人
● 車いすの年老いた宝くじ売り
● 家鴨の卵のバーおじさん
● 私は疲れない
● カオラインの朝
● 「戦争は終わったのになぜ父さんはそんなに悲しそうなの」
● フエへ(再び)
● 傷痍軍人の歌声
● さようなら
● 私はお父さんの娘です
トゥオンサーの夜
わしがトゥオンサーを訪れたのは、1971年の初めに起きたある出来事のためだった。
子どもが二人いる貧しい母親がいた。その日の夕方、雨が降ったので彼女はいつもより早く帰宅した。ホーおばさんと呼ばれているが、まだ三十そこそこだ。人に雇われて働いており、土地を持っていなかった。帰宅すると、畑に出てバナナの茎を切り、豚のえさ用に刻んだ。バナナ畑の隣には干上がった池がある。池を見下ろした。人がいる。バナナの葉に隠れている。彼女は恐ろしくなってバナナの茎を放り出して逃げた。ベトコン。ベトコン。そう叫んだ。ベトコンは猛獣だ、ベトコンは人間じゃない、と刷り込まれていた。社(訳注:ベトナムの行政単位)の議会で働いている親戚の家に駆けこんだ。ベトコン。彼女は真っ青な顔で池を指さした。
それは、任務を終えて帰ってきた四人の偵察員だった。その内二人は負傷している。彼らは空きっ腹を抱えて、池に潜んでいた。潜んで、村びとが食事を出してくれるのを待ち、暗くなって森に戻るのを待っていた。
少しして、車がやってきた。空に向けた銃声が一発聞こえる。四名の偵察員は捕えられ、車に乗せられた。
四名の偵察員のその後の運命を、村びとたちは知らない。村びとたちは、貧しい母親の運命しか知らない。
彼女はその後間もないある夜、連行された。翌朝、学校の校門、竹の切り株の傍に母親の遺体が横たわっていて、横に「死刑判決」と書かれた札があった。
その話は、事実ですか?私はフォーおじさんに尋ねた。
そりゃもちろん事実さ、わしは駆けつけて、皆が遺体を運び、埋葬するのを見たんだから。
チンおじさんも答える。ホーおばさんのような話は珍しくない。始まりと終わりはこうだ。チンおじさんは上述の母親の話をもう一度語った。フォーおじさんが私に語ったのと、細部まで同じだった。おじさんは続ける。ホーおばさんが死刑に遭ってからもう一人とても若い女の子も同じ目に遭った。遺体の横には同じく「死刑判決」の立て札があった。ハーさん、あんたがあの頃わしの村にいたら、そんなことを怖いと思っただろうか。誰もが口を閉ざして生きる。皆、誰も信じない。両親は我が子を信じず、きょうだいは互いを信じない。信じ合えないというのは生きづらいものだよ、ハーさん。生きづらい。今に至るまで生きづらいんだ。
私はラムおじさんにこの話を再度詳細に尋ねた。おじさんは、そりゃあの人が愚かだったからさ。愚かだから死んだのさ、と言った。
私は少し眉をひそめた。
ここではみんなこうやって注意しあう。「愚か者は死に、賢者も死に、物分かりがいい者が生きる」。あんたが理解できるように説明してあげよう。運悪く秘密を知ってしまったとする。ホーおばさんが池に潜んでいる兵隊さんたちに気づいたようにな。愚者:急いで伝える―死ぬ。賢者:黙って帰宅、知らんぷりをする。賢いやり方だと思うかもしれんが、万が一その兵隊さんたちが捕まってしまった場合、彼らはそいつがチクったとみなす―死ぬ。物分かりがいい、とはどういうことか?物分かりがいい者はそのバナナの木のところに静かに座っている。兵隊さんたちが安全に森に帰るのを確認してから自分も家に帰る。兵隊さんたちが二日そこにいたら、自分もそこに二日座っているんだ。分ったかい?
ラムおじさんは、まるでそこに現れたホーおばさんを前にしているかのように話す。
ここは紛争地域なんだ。白い服を着ているだけで、敵の内通者だと疑われる。夜は外に出ない。夜は森にいる人が戻ってきて活動する時間だから、外に出るということは革命のために働いているということを意味する。家の中の明かりは灯してはいけない。明かりを灯して、ベトコンに合図を送っているんだろう、と言われる。連行。尋問。死にゃしないが穏やかに暮らせない。
そのころのわしの田舎はそんなだった。物分かりよく生きねばならなかった。
夜十時にチンおじさんの家から帰る。小道に入る曲がり角で、フォーおじさんが私に道沿いにある家を指さし、かつてのホーおばさんの家だと教えてくれた。
私は、横になったまま全然眠れなかった。ホーおばさんという女性の死についての物語のせいか、今日緑茶を飲みすぎたせいか。ここでは、私の田舎と同じようにどの家庭も緑茶を好む。今日会った人たちは誰もかれもファン・カック(Phan Khắc)という名字だった。チンおじさんは、この村にはファン・カックが多いんだ、と言う。ここのファン・カック家は、我が故郷ハティン省フオンケー県フックドン社(Xã Phúc Đồng, Huyện Hương Khê)のファン・カック家と何か関係があるのだろうか。
私は起き上がって、戸を開けた。フォーおじさんは眠っているが、電話はまだ手の中にある。Youtubeからは南ラオスでの戦闘についての動画が流れている。チンおじさんが語っていた話のためか、それとも、今もなお戦争ドキュメンタリーものを観る習慣があるからか。眠りやすいからさ、と翌朝フォーおじさんはあいまいに答えた。
フォーおじさんは、今日の午後話を聞かせてくれたラムおじさんの兄だ。フォーおじさんは、私がFacebookで知り合った、顔を知らない友人の父親だ。ハーさん、うちに来た方がいいよ、父は楽しい人だから。父と祖父の話はそれほどでも無いけど、村にはハーさんが書いたらすごく面白そうな話がたくさんあるよ。
フォーおじさんは私をラヴァン(La Vang)の三叉路で出迎えてくれた。そして私は、かつて、赤ん坊が死んだ母親のおっぱいを求めて這いまわっていたという通りに足を踏み入れた。インターネット上に漂う記憶の断片を通じて知った、恐ろしい通り。
私はラヴァンの聖地(訳注:クアンチ省ハイラン県にあるカトリックの聖地。聖母教会があった所)に入り、壁によりかかり、聖母の足元でひざまずく兵士の姿を思い浮かべた。荒れ果て、倒壊した中で、兵士は祈る。戦場から戻ったのか。それとも、これから赴くのか。
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霞む月。高くそびえるビンロウの木々。フォーおじさんの家は、田んぼの真ん中にある。私は田んぼ何枚か向こうにある家に目を向ける。その家には、戦争が終わって三十年の時、爆弾で死んだ父親と二歳の子どもがいた。家に爆弾を持ち帰ったのだ。何度もその仕事をしていたという。
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不発弾のために死んだ人は、ここには大勢いる。足を失ったり、腕を失ったり、失明も多い。食事中、妻が席を立った時、フォーおじさんが小声で言う。妻の兄と子も家に運んだ爆弾が暴発して死んだんだ。
でもおじさん、ここにも爆弾探知を専門としている団体があるでしょう。
わしが言っているのは昔の話だ、今はもう村びとが不発弾を探すことは禁じられている。禁じてはいるが、時には探しに行く者もいる。あちらの村には、戦時中工兵だったが、平和になってから不発弾拾いをして、手と足を失った人がいる。それでもまだ行く。夢中になっちまうんだ。
もの凄まじい「夢中」。
今日の午後、田んぼの中に地雷に注意するよう書かれた看板を見た。今日に至るまで、ハイラン県では、地雷警告の看板が残っている。
月の光が薄まっていく。ふいにバナナ畑の方から、ざわめきのような一陣の風が吹いた。寒気が走る。私は家に入り、戸をしっかりと締めた。眠らなければ。もう何も考えたくない。
私はぎゅっと目を閉じた。
人生に、美しいものを一つも持たない人がいる。
ここでは、九十パーセントの家庭が苦悩している。カムトゥイ県に住む「カムロの母」の息子、コンおじさんは、私が家に着くなりそう言った。
なぜ、九十パーセントなんですか。中には苦悩していない人びともいるからだよ。苦悩していないだけで、幸せなわけじゃない、とコンおじさんははっきりと付け加えた。
それなら、私のふるさとフォンケ―の方がまだ幸せですね。空腹に耐え爆撃を受けるだけで、拷問は無いですもの。
ここでは、戦争で死人が出なかった家などない。
ここでは、どの家も革命に貢献している。わしは母のために烈士(訳注:革命のために死亡した兵士のこと)制度の給付金を受け取りに行くんだが、長い列ができる。
ここの人たちは、自分の村について、そうやって話す。
ここの人たちは、そうやって話す。あたかも、普通であるかのように。
ここの人たちは、手を広げ、数える。家族の中で、死んだ人の数を。
〈了〉
私の恩師、今井昭夫先生がクアンチ省で行った聞き取り調査についてnoteにまとめていらっしゃいますので、まだご覧になっていない方は是非ご一読ください。