煮込みラーメン
私はB級グルメとジャンクフードが好きだ。これらをガツガツと食べると幸せな気分になる。ところが、奥さんはそのような食べ物を忌み嫌っている。したがって、我が家の食卓には「体に良い」「塩分少な目」「野菜中心」の料理が並ぶ。
おかげさまで、私は現在のところなんとか無事に生きていられるので、そのような料理を食べさせてくれている奥さんには感謝している。
ただ、私は、たまにはとんかつとか、焼き肉、韓国風チゲを食べてみたいのだが、我が家では望むべくもない。
それなら自分で作ろうかと思い、奥さんに提案したが、頑なに拒絶された。
たぶん、私が料理でもしようものなら、自分の口に合わないものを作ると思ったのだろう(半分当たっているが…)し、さらに、私の料理の腕前をはなから信用していないので、そもそも私に人が口にできるようなものを作る能力などないとも思っていたのだろう(これも悔しいことに半分当たっている)。
確かに、結婚して30年くらいは、仕事が忙しかったせいもあり、私が台所に立つのは、お湯を沸かす時くらいだった。
ところが、田舎で独り暮らしをしていた母が80歳を過ぎ、生活にだんだん支障が生じるようになった。
まだ、その頃は独りで近所のスーパーマーケットに買い物に出かけ、時々私が家に帰ると食事も作ってくれていたが、見ていると買い物、食事の準備、後片付けとすべてをこなすことは大変そうだった。
そこで、実家に帰った時には、スーパーでの買い物と食事の後片付けは私がやるようにした。
ただ、料理だけは今までほとんどやったことがなかったので、なかなか母に代わって作るという決断ができなかった。
しかし、いずれ母も弱って料理を作ることができなくなることは目に見えていたので、私は一念発起して、料理学校に通いだした。
料理学校に来ていた人は、ほとんどが若い女性だった。彼女たちだって料理初心者だから、私と大して差はないとタカをくくっていたが、実際には学校での経験やお母さんのお手伝いを通じて、入る前からハンデが付いていることがわかった。
中には、その料理学校のいろいろなコースに参加していて、すっかりお局様になっている人もいた。そのような人にさんざんバカにされながら、いろいろな料理の作り方を学んだ。
ただし、私が料理学校で学んだ一番大切なことは、「料理を作りながら後片付けをすること」だった。男の料理は、たぶん作りっぱなしで、料理が出来上がった後は「洗い物の山」になるケースが多いのではないだろうか?
料理学校では、鍋やフライパンを使ったらすぐ洗えと教えられた。その通りにすると、料理ができた時には調理道具はすべてきれいに片付いている。現在私は子ども食堂のボランティアで洗い物を担当しているが、このやり方は役立っている。
料理学校で自分が作った料理を食べてみると、おいしい。そのときは「自分でもいろいろな料理ができる」と自信を持ったが、家に戻ると我が家では「男子厨房に入らず」を頑なに守っている奥さんがいるため、残念ながら我が家で私の腕を試すことはできなかった。
結局、料理学校で教わった料理は時間とともにその作り方も忘れてしまった。
それでも実家の母はどんどん弱ってきて、自分で料理を作ることが辛そうだったので、「口に入ればなんだっていいだろう」と開き直って、実家に帰った時は私が料理を作るようにした。
一応、最初の頃は、料理の本を購入してそのレシピに従って慎重に作っていたが、慣れるに従って、「テキトー」になった。今思えば、作っていたのは肉野菜炒め、ほうれん草のお浸し、寄せ鍋、焼き魚など、奥さん方が聞くと「そんなのは料理じゃない」と言われるようなものばかりだった。
スーパーマーケットに行くと、そのまま温めて食卓に出せるものや冷凍食品が山のように並んでいて、料理の手を抜くことは簡単だということが分かった。
結局、私の料理はいい加減なものが多く、料理学校へ行った成果などまったく関係なかった。
ある冬の日、母に「今日は何を食べたい?」と尋ねたら、鍋とのことだった。
スーパーに行ったら、「煮込みラーメン」という商品が目についた。鍋に肉や野菜を入れて、さらにラーメンを煮込んで食べるというものだが、出汁の袋もついていて、いわば「手抜き料理」のようなものだった。
とにかく肉を炒め野菜をぶつ切りにして、鍋の中にラーメンと出汁を入れて煮込んで出した。
自分でもこんないい加減な料理を、いくら母親とはいえ人に食べさせるのは気が引けたのだが、当時食が細くなっていた母はいくらも食べられなかったくせに、「おいしい」と言ってくれた。
晩年、母は年とともに弱っていき、私に口ごたえするようなことは一切なくなった。
子供の頃は、私を頭ごなしに怒鳴りつけるようなこともあったが、あの元気さはすっかりなくなってしまった。
食事をした後も、テレビをじっと見ているだけで、会話もろくにしない。もっとも私も母とどのような会話をしてよいかわからないため、結局、食後はふたりで黙ってテレビを見ていた。そのうち、母が「おやすみ」と言って寝室へ移動する。
今から思えば、母が亡くなる2~3年前のこのふたりの時間は貴重なものだった。もっと大切にしておけばよかった。もっと母の話を聞いてあげればよかった。
私の煮込みラーメンを食べてくれた母は、「おまえの作るものはどんなものでもおいしいよ」と言いたかったのだろう。