孫
孫は無条件に可愛い。
気分が落ち込んでいるときでも、孫の声を聴くと一発でご機嫌になる。
一昔前、「孫」という歌が流行した。
なんでこんなに可愛いのかよ 孫という名の宝もの(作詞:荒木良治)
その通り、「宝もの」だ。
よく、「子どもと孫のどちらが可愛いか」と尋ねられるが、この答えは男女で異なることが多いようだ。
女性の場合、子どもは痛い思いをして自分のおなかから生まれているので、まさに自分の「分身」であり、そうではない孫と比べて子どものほうが可愛いという人がかなりいる。
無責任のようで申し訳ないが、男の場合には子どもも孫も自分のおなかから生まれているわけではないので、その意味では分身という認識は少ないだろう。
一方で、子どもの将来に対しては、親としての責任がある。それは母親も同様だと思うが、時代錯誤的なことを言わせてもらえば、父親の場合は子どもを飢えさせずに一人前に育てなければならないという意識がより強いのではないだろうか?
この一人前に育てるという使命があると、子どもに対して「教育的指導」をする必要性が生じる。
この教育的指導においては、子どもに対して甘い顔をしてばかりはいられず、時には厳しい声で叱ることも必要になる。
要するに、子どもを育てることは親にとっては相当な責任感と覚悟が必要になるのだ。
ところが、孫の場合にはこの「教育的指導」を行う必要はない。それは親に任せればよいことだ。
したがって、孫はただ単に可愛がっていればよい存在になる。
孫のほうも、親は時々厳しいことを言うが、ジジババはそんなことは決して言わず、ほとんどの要望は叶えてくれる存在になっている。
私には、息子の子どもが2人おり、上は小学校5年生、下は3年生の男の子だ。
上の子はさすがに5年生にもなるとジジババに甘えることは少なくなったが、下の子は、久しぶりに会うと「ジージ!」と抱きついてくる。そして、すぐ私におんぶするように迫る。
人間は「相思相愛」の相手に対して最も幸福感を感じるということが実感として分かる。
私はこの子を小さい頃からおんぶしているので、だんだん重くなっていることをひしひしと感じる。最近は、おんぶして50mも進むと、手がしびれてくる。
孫は大きくなる一方だが、ジージは齢とともに体力が衰えてくる。どこかでおんぶから卒業しなければならなくなると思うが、孫は「ジージの体力維持のためにおんぶさせてやっている」と言って憚らない。
私の今までの人生は順風満帆だったわけではない。苦しいこと、悲しいことや後悔の連続だったこともあった。
しかし、人生の最後に「孫という名の宝もの」に出会えた。
終わり良ければすべて良し。孫は人生最後のご褒美だ。