引越履歴-その4

 私は、神保町近くの大学に通っていたので、学生時代から神保町にはなじみがあった。
 
 会計士を目指して勉強していた頃、神保町のすずらん通りにスヰートポーヅという餃子屋があった。戦前からやっていた店だそうで、にんにくを使わない独特の形をした餃子は、絶品だった。しかし、資格浪人の身分としては、めったに行くことができず、試験に合格したら、餃子定食を頼んで昼からビールを飲むことが夢だった。
 
 ちょうど、その店の近くに小さいオフィスビルがあり、たまたまその7階が空いていたので借りることにした。面積は確か10坪ほどだったと思う。そこに私と事務員2名で引っ越した。
 
 辞めた会社では、そこそこの年収をもらっていたが、多くの研修業務を会社に置いてきたので、私の収入は激減した。神田神保町に事務所を構えたことで、受験生時代の気持ちに立ち返ってもう一度ゼロからやり直そうと決意した。
 
 辞めた会社では、大した努力もせず仕事が向こうからやってきた。しかし、会社を離れて再独立した身になると、当たり前だが自ら仕事を探さなければならなくなった。
 
 節約するために、毎日妻に弁当を作ってもらった。ときどき、外回りの途中公園のベンチでその弁当を食べることがあった。弁当を食べながら、少しだけ惨めな気持ちになったが、すぐ、今までが夢で、これが現実なんだと自分に言い聞かせた。何とか健康に生きているだけでも儲けものだと思うことにした。
 
 当時、私は税務・研修・コンサルティングの仕事をやっていたが、とにかく仕事の内容にこだわらず、何でも引き受けようと決意した。私は自分を売り込むことが最も苦手というか恥ずかしい。しかし、そんなことも言っていられないので、少しでも仕事につながる可能性があればお願いに出かけて行き頭を下げた。
 
 ただし、私の人生はいつもそうなのだが、不思議と困ったときに必ず誰かが助けてくれる。
 
 税務では、今までのお客様の紹介で新しい仕事が舞い込んだ。また、研修は、従来から私に仕事を発注していた金融機関向けの研修会社が、私の状況変化をみて、どんどん仕事を入れてくれるようになった。コンサルティングについては、以前からお世話になっていたKさんのご紹介で、ゲーム業界や運送業界、自動車業界などの仕事を次々に引き受けることになった。Kさんには足を向けて寝ることができない。
 
 そのKさんの関係で、ある上場会社(甲社)を紹介してもらった。Y社長は関西人で、話が面白く、考えていることも大きかった。
 
 すっかり、Y社長に惚れ込んだ私は、結局Kさんまで甲社に引きずり込んでしまった。
 
 Kさんは甲社のNo.2に就任し、その後私にコンサルティングの仕事を依頼してくれた。
 
 私はその話がくる以前に、会社を設立し、社長になっていた。今度は「社長を替われ」と言われる心配はなかった。
 
 甲社の仕事が来た時点で人を採用した。最終的には社員は3人になったが、今考えても私ごときの会社には似合つかわしくない優秀な人たちだった。よりによって私の会社に入ってくれたことが、今でも不思議だ。彼らは現在それぞれの世界で大活躍している。
 
 甲社のコンサルティングの仕事はやりがいがあったし、楽しかった。わが社は、甲社の経営企画的な仕事を請け負っていたが、具体的には、予算の作成、買収先のデューデリジェンス、株式評価、関係会社管理、社員研修などできることは何でもやった。甲社は若い社員が多く、活気にあふれていた。
 
 Kさんの計らいもあって、甲社からの報酬はわが社全体の売上高の6割以上を占めるまでになった。
 
 「金は人を変える」というが、上場に伴って大金を手に入れたY社長は、それを使っていろいろな会社の買収に走った。会社には毎日のように買収案件が飛び込んできた。
 
 100万円を1割増やして110万円にすることは簡単かもしれないが、10億円を11億円にすることは難しい。
 
 あちこちの会社を買収したものの、順調な会社はほんの一握りで、残りははっきり言って「カス」だった。「カスだから安く手に入れることができる。これを優良企業に育て上げればよい」というのがY社長の考え方だった。
 
 しかし、ダメ会社を優良企業に育てることはそんなに生易しいことではない。結局、Y社長の考えとはうらはらに、甲社はカスに足を引っ張られて、本体の屋台骨まで傾いてしまった。 
 
 まるでデジャブのようだったが、甲社も業績が下降線をたどり出したとたんに役員間の人間関係がおかしくなった。
 
 外から見ている人にはわからないと思うが、会社が危機的状況に陥ると、中にいる当事者は常識では考えられないような判断をするものだ。甲社も外野からの声にいろいろ振り回された挙句、最終的には破綻してしまった。
 
 私も結果的にまた同じ過ちを繰り返してしまった。甲社の仕事がなくなったことにより、わが社の経営も立ち行かなくなり、優秀な人材はわが社を去っていった。
 
 その後私は経営していた会社を清算し、個人で税務と研修業務を行うことになった。
 
 私の人生はジェットコースターのように登ったり下ったりの繰り返しだ。
 
 また、「生きているだけで儲けもの」と自分に言い聞かせる人生が始まった。

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