おばちゃんありがとう
私は、大学3年生から結婚するまでの間、東京下町の家の一部屋を間借りしていた。
親戚のおばちゃん(私の母のいとこ)は、東京の下町気質の人で、本当に面倒見の良い人だった。母が「息子が住むところを探している」と相談したところ、直ちに自分の家の近くの間借りを見つけてくれた。
その家に引っ越したのは、大学3年生の夏だった。おばちゃんは、私の懐具合も心配してくれて、その夏におばちゃんと夫のおじちゃんのやっていたニット製品のアイロンかけ(仕上げ屋)のアルバイトをやらせてくれた。
しょっちゅうおばちゃんの家で食事もごちそうになった。
私は、当時会計士を目指している学生たちが集う研究室に毎日朝から晩まで通っており、定期的なアルバイトをすることができなかった。
おばちゃんの家は決して裕福ではなかったが、私の会計士合格という目的と、生活環境を考えて、毎日朝ご飯を食べさせてくれたし、お昼の弁当も作ってくれた。洗濯についても下着を含め全部やってもらっていた。何の見返りもないのに、親以上に尽くしてもらった。
おばちゃんは東京都墨田区生まれで、昭和20年3月の東京大空襲で九死に一生を得た。猛火の中を逃げまどい、水の入ったドラム缶の中に入ってかろうじて難を逃れたそうだ。私に対する無尽蔵の愛は、たぶん、その経験が影響しているのではないかと思う。
おばちゃんは私に対してだけでなく、周りの人たちにも優しかった。近所で火事があった時、焼け出された人たちの当面の衣類を(私を含めて)近所の人から集め、渡していた。これも東京大空襲の時の経験からの行動ではないかと思う。おばちゃんの口癖は「困ったときはお互いさま」だった。
その後、ようやく会計士試験に合格した時は、おばちゃんは自分のことのように涙を流して喜んでくれた。
おばちゃんは、失礼ながら亭主(おじちゃん)が酒飲みでグータラだったため、一生経済的には恵まれなかった。彼女はしょっちゅう亭主のことをぼやいていたが、おばちゃんが私にあれだけの力を注いでくれることを許してくれたので、私はおじちゃんにも感謝している。
私は、その後結婚しておばちゃんの家の近所から引っ越してしまい、おばちゃんと会うのは年に2~3回程度になってしまった。3月になると、彼女の確定申告をしてあげていたので、事務所まできてもらっていたが、おばちゃんは確定申告の内容よりも私に会うことが楽しみで来ているようだった。
その後、おばちゃんは亭主に先立たれ、一人娘と細々と年金暮らしをしていたが、体が弱って通常の生活をすることが困難になり、娘も身体障害者になってしまった。あんなに身を削ってまで周りの人に気遣っていた人がそのような目にあうとは、神も仏もなんてひどいことをするのだろう。
親戚の方からその状況を聞いたので、私はおばちゃんの自宅をリースバックする手続きを行い、親戚の方々と一緒に、おばちゃんを近くの老人ホームに入所させ、一人娘が自宅でそのまま住めるように手続きをとった。
その後コロナ禍になり、老人ホームに行くことができなくなったので、おばちゃんに会えたのは入所当初の頃だけだったが、3年前おばちゃんはホームで息を引き取った。朝食の後、眠るように亡くなったそうだ。
あれだけお世話になったのに、恩返しらしいことは何もしてやれなかったが、私の実務経験の知識で少しはお役に立てたのがせめてもの救いだ。
遠い記憶をたどると、私が会計士試験に合格し、監査法人に務めることになった時、スーツを買うことになったので、おばちゃんに一緒に洋服屋に付き合ってもらった。そのとき洋服屋の店員が勘違いしておばちゃんを「おかあさん」と呼んだ。そのときの彼女の照れくさそうな顔を今でも覚えている。
今は希少生物のようになったらしいが、当時の東京の下町には、おばちゃんのように何ら見返りを求めることなく、他人の面倒をみてくれる人情味あふれる人がたくさんいたそうだ。
また、おばちゃんの命日が近づいてきた。仏様にお参りに行ってこようと思う。