先生

 私は小さい頃学校の先生にあこがれていた。
 
 私の小中学校時代、多くの先生が子供を育てることに対して情熱的だったからだ。
 
 小学校1・2年の担任だったN先生(女性)は、当時40代半ばだった思うが、3年生以降になって、学校で会うと「まあ、立派になったね」といつも褒めてくれた。私は小学校低学年の頃、目立たない引っ込み思案の子だったが、なぜかN先生は、いつも私に目をかけてくれていて、会うたびに褒めてもらった記憶しかない。
 
 振り返ってみると、私はいつも誰かから褒められていて、それが続くと「俺ってけっこうできるかも?」と信じ込んだような気がする。子どものころからおだてに乗りやすい性格だった。
 
 3・4年の担任だったM先生(男性)は旅行が好きで、当時のほとんどの国立公園に行ったことがある人だった。彼の北海道の摩周湖の話を聞いて、霧の中に浮かぶ幻の湖が見えるような気がしたものだ。
 
 学校で午前中遠足のような行事があり、午後から学校に戻ったが、その後授業があると聞いて、「えーっ、今日はこれで帰れないのですか?」と先生に尋ねたところ、「坪谷くんはなぜ帰りたいのですか?」と逆に質問された。
 
 私は何気なく「だって、みんな疲れているから」と答えたのだが、後日、先生が母に「みんなのことを先に考えたのは偉かった」と褒めてくれたそうだ。
 
 子どもにとって、学校の先生の言葉は重い。母から先生が褒めてくれたことを聞き、周りの人を思いやる気持ちの大切さを学んだ。
 
 6年生の担任だったO先生(女性)は、「けじめ」の大切さを教えてくれた。彼女のあだ名は「けじめばばあ」だった。そのころはよくわからなかったが、大人になって仕事と家庭、仕事と遊びのON・OFFの切り替えが重要だということがやっとわかった。
 
 彼女は合唱部の顧問をやっていて、私に入部を勧めた。合唱部の部員はほとんどが女の子だったので、尻込みしたのだが、「坪谷くんには音楽の才能がいっぱいあるので、これを埋めてしまうのはもったいない」などと、上手なことを言われたので、とうとう入ってしまった。
 
 学芸会のとき、合唱部の発表もあったのだが、私がソロで歌うパートがたくさんある曲だった。今は違うが、以前はカラオケで歌うことが好きだった。この頃の影響だと思う。
 
 O先生は、私の内申書に音楽の才能があると書いてくれたらしく、中学校に入ったら、Y先生という器楽部の顧問の先生(男性)にさかんに入部を勧められた。
 
 私は、小学校の合唱部で女の子と一緒に活動していたことが本当に恥ずかしく、やはり女の子の部員が多かった器楽部に入ることは絶対に嫌だった。
 
 私はとにかく運動がダメで、特に走ることが苦手だったのだが、何を思ったか陸上競技部に入ってしまった。自分にとって最も「向いていない」クラブだった。
 
 子ども心ながら、女の子の中に入って「なよなよ」しているイメージを払拭したかったのだろうと思う。
 
 ところが、人間の能力は奥深いところがあって、確かに私は走るのが苦手で、短距離走はいくら練習してもタイムは縮まらなかったが、長距離を走ってみたら、そこそこ走れることが分かった。
 
 陸上競技部の顧問はT先生(男性)という体育の先生だった。彼はサッカーで国体に出場していたスポーツマンで、あだ名は「いのしし」だった。
 
 T先生が担当していた体育の授業では、私は一番の「劣等生」だったが、なぜか彼からもらった最初の通知表で、私の評価は「5(最高成績)」だった。
 
 私は後にも先にも体育で5を取ったのはこの時一回だけだ。
 
 なぜ私のような運動神経が鈍い人間が5をとったのか不思議だったが、その後の彼の授業を聞いてなんとなく分かった。彼が言うには、登山をするとき9合目から頂上に上がることよりも、麓から5合目まで登ることのほうが素晴らしいということだった。つまり、私のような運動神経がない人間が、人並みに運動ができるようになったことを高く評価してくれたらしい。
 
 私は、現在金融機関などの研修講師を生業にしているが、T先生の考え方を参考にして受講生の皆さんに接するようにしている。
 
 さて、音楽のY先生は、授業で顔を合わせるとしょっちゅう「チェロを弾いてみないか?」と誘ってくれた。そのときはとんでもないと断り続けたが、今考えてみると、陸上競技部で走ったことは今ほとんど役に立っていないが、もしその時チェロを習っていたとしたら、素晴らしい老後の趣味を得ていたのかもしれない。
 
 Y先生は、穏やかで見るからに優しそうな風貌をしていた。わずか1年間だったが、あんな大人になりたいと思わせてくれた。
 
 彼が、転任で学校を離れる時に、「最後なので、歌を歌います」と言って「別れの歌(ドイツ民謡)」を歌ってくれた。
 
 私もあと数年で職を辞し現在の会社の仲間と別れなければならなくなるが、最後に別れの歌を歌ってみたいものだ。

 自分の年齢から考えて、私がお世話になった先生方は、おそらく全員がこの世の人ではないと思うが、できればお目にかかって「おかげさまで真っ当に生きております」とお礼を言いたかった。

 本当にありがとうございました。
 

いいなと思ったら応援しよう!