見出し画像

【まるごと無料公開】『理花のおかしな実験室(1)』

お菓子×理科の超人気シリーズ💫
最終巻『理花のおかしな実験室(13) 究極のこたえ』11月13日(水)発売予定!!

シリーズの完結を記念して、 【第1巻・第2巻・第3巻がまるごと読めちゃう】スペシャルれんさいを公開するよ📢

『理花のおかしな実験室(1) お菓子づくりはナゾだらけ!?』
やまもとふみ・作 nanao・絵

わたし理花(りか)! 理科が大キライな小学5年生。
ある日、あこがれのクラスメイト・そらくんのヒミツ――パティシエを目指して修業してるって知っちゃった! 
「たのむ! おれの菓子作り、手伝ってくれ!」
課題のお菓子を上手に作らないと、そらくん家のケーキ屋さんがつぶれちゃう!? 助けられるの、じつは〈理科がトクイ〉なわたしだけ――って、そんなのムリだよ~~~!!!
ふたりだけのヒミツの実験、はじまる!?

理花のおかしな実験室(1) お菓子づくりはナゾだらけ!?


1 ため息ばかりの授業参観

「はい、はーい!」
 今日は授業参観。
 それにあわせて特別授業になっていて、いつもはちがう教室で勉強するはずの五年生と六年生が体育館で一緒に授業を受けているんだ。
 教室じゃないし、メンバーもちがうしで、キンチョウしているのか、みんなどこか恥ずかしそうにもじもじしている。
 わたしももちろんそう。だって六年生も一緒だし、さらに後ろにはたくさんの大人がずらりと並んでいて、じっと様子をうかがっているんだもん。
 季節はまだ春だというのに体育館の熱気はすごく、お父さんもお母さんも半袖を着て、暑そうにしていた。
「はい、はい、はーい!」
 だけどそんな空気を吹き飛ばすように、ひときわ元気がいい男の子が手をあげつづけている。
 指の先までピンと伸びていて目立つ。
 わたしのクラスの人気者、広瀬蒼空(ひろせ そら)くんだ。
 そらくんは名前の通りに晴れた日の青空みたいに明るくてサワヤカな男の子だ。
 そして、クラスで一番のイケメン男子。眉毛がキリッとしてて。しかも、目は大きくってキラキラしてて、すごく眼力があるんだ。
 俳優さんに似ているって、だれかが騒いでいた。
 だけど、かっこいいだけじゃなくって、だれにでもやさしくて、だれとでも仲良くしてる。
 クラスの女子はみんな、そらくんをかっこいいって言ってるし、つきあいたいって狙ってる子もいる。
 そして、実はわたしも……ひっそりとかっこいいなってあこがれてるんだ。
「元気がいいな! じゃあ、そら!」
 そらくん以外だれも手をあげないものだから、先生が苦笑いをしながらそらくんを指した。
「えーっと、答えは、石けんです!」
 ……あ、それまちがいだよ。そらくん!

 面白いまちがいにどっとみんなが笑うけれど、本人は、
「あれー? ゼッタイあってるって思ったんだけどな! だってサイダーって泡が入ってるだろ?」
 と首をかしげてケロッとしてる。
 まちがえても平気そうだ。というより、わざとまちがえて盛り上げたんじゃないかな?
 そういうところも、カラッとしてて感じがいいなって思う。そらくんがいると、みんなが笑顔になるんだ。
 わたしとは大ちがい。
 わたしなんて、答えを知っているのに手もあげずに黙ってる。弱虫だなって自分でも思っちゃうよ。
「ほかにわかる人いないかな? 今までに出た答えは、砂糖、レモンの汁。それからあと一つ! これに入っているものはなにかな!?」
 先生がビーカーを上に持ち上げて、もう一回たずねる。
 ビーカーの中には透明な液体が入っていて、中ではキラキラとした泡が躍っていた。
 そらくんがもう一回手をあげて笑いをさそうけど、先生は今度はほかの人を当てようとだれか手をあげるのを待っている。
 だけどだれも手をあげない。体育館はしーんとしずまりかえったまま。
 もしかして、わかってるのって、わたしだけ?
 そう思うと胸がドキドキしてきて、手もむずむずしたけれど、わたしはギュッとげんこつを作ってがまんした。
 後ろから期待に満ちあふれた視線が飛んできているのがわかる。
 それでもわたしはだんまりだ。
 視線を送ってくるのはわたしのパパだ。
 わたしが手をあげるのをパパは待っている。得意な理科でカツヤクしてくれるのを、待っているんだ。
 だけどわたしはやっぱりだまったまま。
 だって、わたし、理科なんて……大キライなんだもん。

2 理科がキライになったわけ

「理花。あの問題、むずかしかった? ずっと前、パパと実験しただろう?」
 家に帰るなり、パパがわたしにたずねた。
「んー……べつに? ちょっとキンチョウしただけ」
 わたしはごまかした。
 理科がキライなんて言って、パパを傷つけることはしたくない。
 パパは理学博士で、大学の先生をしている。そんな理科大好きなパパの影響で、わたしは、小さな頃から理科の実験をたくさんしていたんだ。
 虫を捕まえてきて育てたり、草や花で色水を作ったり、夜に月や星の動きを観測したり。
 だから、学校の勉強では、理科が一番好きだった。
 家の中には昆虫図鑑、動物図鑑、宇宙図鑑、恐竜図鑑や、元素図鑑……たくさんの図鑑があるけど、何回も覚えるくらいに読んだんだ。
 昆虫図鑑や動物図鑑には世界中のめずらしい虫や動物がたくさんのってて、まるで動物園に行ったみたいだったし、宇宙図鑑では星から星へと宇宙旅行をしている気分になったし、恐竜図鑑を開いては、何万年も前の地球がどんなふうだったかを想像してワクワクした。
 そして、わたしたちの住む世界を作る、目に見えないくらいに小さなものがのっているのが元素図鑑。この図鑑にのっているものが、わたしの体や、この世の中すべてを作っているんだと考えるのがとても楽しかったし、みんなそんなふうに思っているものだと信じていたんだ。
 だけど……。キラキラしていた世界が変わってしまったのは、小学校三年のとき。
 クラス替えがあったばかりで、新しいともだちと遊ぶことになって。みんなが宝物を持ってくるって言ったから、わたしもはりきって準備をした。
 宝物って言われたら、持っていくものは決まってる!
 自分で作った塩の結晶、それからお気に入りの元素図鑑、そして苦労して捕まえたタマムシの入った虫かごを並べて自信まんまんだった。
 すごいって言ってくれるかな? とワクワクしてみんなの顔を見たときだった。
「それが宝物? 理花ちゃんって変わってるよね……虫とか好きなのって男の子みたい。わたし、ちょっとムリ、かも……」
「え?」
 みんなの引きつった顔に、わたしはびっくりした。
 そしてその瞬間に、周りのことが急に目に入ってきた。
 ともだちが持ってきたのはカワイイぬいぐるみだったり、シールだったり、カワイイイラストの本だったり、ピカピカのアクセサリーだったり。
 とにかく、パステルカラーのキラキラしたカワイイものがたくさん。
『変わってる』『男の子みたい』。その言葉がざっくりと心に刺さったとたん、急にわたしの宝物は、ただのがらくたになったみたいだった。
 無色透明な塩の結晶はピンクや赤のアクセサリーの前では地味だったし、図鑑は見向きもされなかったし、タマムシなんてキモチワルイものでしかなかったし。
 それがわかると、急に自分の好きなもののことが『変』に見えて、すごく、すごく恥ずかしくなったんだ。
 ギラギラした鉱物ののっている元素図鑑は、カワイイみんなに囲まれた変なわたしみたいで、かばんの中に隠した。
 虹色にかがやく宝石みたいなタマムシの羽も、みんなに『キモい!』と言われるうちに本当にキモチワルイものに見えてきて……わたしは『そうだよね、キモいよね』と言って虫かごのフタを開けてタマムシを逃がしちゃったんだ。
 それ以来、わたしは普通の女子みたいに、虫を取らなくなった。
 家にいた虫たちもわたしの理科への思いと一緒に、外の世界に飛んでいっちゃった。
 そっと庭を見る。
 そこには満開のハナミズキに囲まれた小さなプレハブがある。
 パパが実験のために特別に作った実験室だ。
 小さい頃からずっと、わたしはあの部屋でパパとたくさんの実験をしてきたんだ。
 おたまじゃくしを観察したり、クワガタとカブトムシの力の強さを調べたり。
 塩の結晶を作ったり、石けんを作ったり、電池を作ったり。
 夏休みでもないのに、自由研究をたくさんしていたんだ。
 もう実験はやりたくないと断ったら、パパは「そっか、ムリしてやるものじゃないし……理花は理花が好きなことをすればいいんだよ」と軽く言っただけだった。
 それ以来、虫取りや実験に誘ってこなくなったけど……本当は、どんなふうに思ってるのかな。
 わたしにがっかり、してるのかも。
 だけど、もう決めたんだ、実験はしないって。だってあんな悲しい思い、もうしたくないんだもん。
 そう思ってギュッとこぶしを握っていると、パパは言った。
「元気が無いなあ。そうだ。ケーキを買いに行こう!」
「おととい食べたばっかりじゃなかった?」
「たまにはいいんだよ」
 パパは甘いものが大好きだ。
 近所のお気に入りのケーキ屋さんに、週に一回は必ず足を運ぶ。
 そのせいでお腹が少しぷよぷよしているけれど、ぜんぜん気にしていない。
 気にしてくれないと困るんだけどな。
 ママも言ってる。「やっぱりかっこいいパパが好きでしょ? だから理花からもお菓子を控えるように言って」って。
 だけど、わたしが言っても聞かないんだよね。
 パパが言うには、甘いもの──ブドウ糖は頭の栄養になるんだって。
 パパがお仕事をがんばるために必要なんだって。

3 パティシエ志望のそらくん

 てくてくと歩いていくと、十分くらいで目的のケーキ屋さんが見えてくる。
「Pâtisserie Fleur」。「パティスリー フルール」と読むんだと教えてもらった。
 フルールは花っていう意味だとパパに聞いて、ちょっと親しみを感じている。だってわたしの名前が理花だから。
 いつも季節のお花に囲まれているすてきなお店の入り口が見えてきたとき、
「何度言えばいいんだ! 適当に入れるな! 適当にまぜるな! 頭が使えないやつは出ていけ!」
 大きな声に、わたしはびっくりして足を止めた。
 すぐに白い制服を着た若い女の人が店から飛び出してきた。後ろから出てきたのはいかつい顔をしたおじいさん。
 白髪の交じった髪の毛に、太い眉毛。おでこと目の周りにしわがあって、いかにもガンコオヤジっていうフンイキ。この人はたしかフルールのご主人だ。
 えっ、なに? けんか?
 わたしとパパは顔を見合わせて、垣根の裏にかくれて様子をうかがった。
 すると女の人がご主人に向かってさけんだ。
「だ、だけど毎日毎日下ごしらえばっかりなのに、どこで頭を使えっていうんですか! わたしはすぐにでもすごいお菓子を作りたいんです! だから『幻の菓子』を作りたくてここに来たのに、ぜんぜん教えてくれないし……!」

 幻の菓子? 不思議に思っていると、
「『幻の菓子』ってなんだろう!?」
 じゅるっ。パパがよだれをたらしそうな顔でささやいた。
 パパ! 目の色が変わってる!
 呆れていると、ご主人がため息をついた。
「幻のって……おまえもか。どいつもこいつもキホンもできてないくせに、言うことばかりでっかくて困ったもんだな。そもそも『幻の菓子』なんてものはない。それが目的ならさっさとやめた方がおまえのためだな」
「ウソはやめてください。フルールの『幻の菓子』は『究極の菓子』だっていうのは有名な話ですからね! 教える気がないなら、そう言われたほうがマシです!」
 女の人は、白いベレー帽を地面に投げつけると「やってられないわ!」と言いすてて去っていった。
 大げんかにちょっとぼうぜんとしていると、足音がして帽子をだれかが拾った。
「あーあ。また、人いなくなっちゃったじゃん。何人目だよ、ほんと。じいちゃん、きびしすぎるんだって」
 あれ? どこかで聞いたような声。
 声につられて垣根から少し顔をのぞかせると、そこには見たことのある顔。
 キリリとした眉毛、そしてキラキラした大きな目。
 え、え、この顔は!
 授業参観で勢いよく手を上げていた、クラスメイトの広瀬そらくんがそこにいた。
 え、じいちゃんって。つまり、そらくん、フルールのご主人の孫ってこと!? 知らなかった!
「あいつらの根性がないだけだ」
 むすっとしたご主人。そらくんは拾ったばかりのベレー帽をかぶると、クスクスと笑いながら言った。
「じいちゃん一人じゃ大変だろ? そろそろ……なったんじゃない?」
「ははは、なんの冗談だ。この間のテストを見せてもらったが、ひどいもんだったぞ」
「そ、それは……あのときはちょっと……悪かっただけで! ……は点数よかったし!」
 テスト? 何の話だろう?
 そらくんがこちらに背中を向けたので、声が聞き取りづらいけれど、なんとなく気になって耳をすましてしまう。
「だが菓子作りに必要なものがだめじゃ、問題外だがな」
 ガッハッハと笑いながらそらくんに背を向けたご主人は、
「あぁ、だが、また人を募集しないといかんなあ…………うっ」
 いきなり苦しげに胸をおさえてしゃがみこんだ。
「……じいちゃん? じいちゃん!」
 そらくんが叫び、わたしとパパは思わず店の前に飛び出した。
「大丈夫ですか!?」とパパ。
「そ、そらくん、大丈夫!?」とわたしもかけよる。
「佐々木?」
 そらくんはびっくりした顔をしていた。けれど、すぐに心細そうにパパにうったえる。
「じいちゃん、ちょっと心臓が弱くて」
「君はたしか広瀬くんだね。家はどこ? おうちの人はいる?」
 そらくんは青い顔をしたまま必死で言った。
「となりです。かあちゃん呼んできます!」
 そらくんがとなりの家に飛び込んでいく。パパがすぐに携帯電話で電話を掛ける。するとしばらくして救急車がやってきた。
 近所の家から人が出てきてあたりが大騒ぎになる中、おじいちゃんは応急処置を受けて、救急車で病院に運ばれていく。そらくんのママが「いつもの発作よ。大丈夫だからね、おとうさんがすぐ帰ってくるからそれまで家で留守番してて」と安心させるように言うと、そらくんを置いて救急車に乗り込んだ。
 ぽつんと残されたそらくんの顔は曇っている。まるで太陽に雲がかかったみたいだった。
 なんて声をかけていいかわからなくておろおろしていると、パパが言った。
「おじいちゃん、きっと大丈夫だよ。またおいしいお菓子を食べられるの、楽しみに待ってるよ」
「……はい!」
 そらくんがいつもみたいに笑ってくれたから、わたしはすごくホッとした。

 次の日は土曜日だった。
 学校がないから、そらくんに会えない。だからおじいちゃんがどうなったのか直接聞くことができなくて、わたしは一日中、なんとなくもやもやしていた。
 そらくんの曇った顔がずっと頭から消えないんだ。
 おじいちゃん、大丈夫だったかなあ。
 心配だったけれど、様子を見に行くのはためらってしまう。
 だって偶然あんなところにいあわせただけだし。ふだんもほとんどしゃべったりしないし……って、あれっ? そういえばわたし、あのとき『そらくん』って……呼ばなかった?
 みんながそらくんって呼んでるから、とっさに名前で呼んでしまったけれど、よく考えると名前で呼ぶほど親しくないんだった! うわああ!
 わたしはいまごろになって気がついて頭を抱えた。
 ああああ……余計にどんな顔して会えばいいかわかんないよ!
 ……だけど、あんな心細そうなそらくんって初めて見たから、やっぱり気になっちゃう。
 でも、お店に行って、開いていなかったら? お家まで行ってそらくんを呼び出してってなると、う~ん! ムズカシイ! だって、女の子のともだちの家でもキンチョウするのに! 男の子──しかもあこがれの男の子の家とか……ムリ!
 いろいろ考えすぎて疲れてくる。ため息をついたとき、時計の針が三時をさした。
 とたん、リビングにパパの声がひびきわたった。
「ああ~、糖分が足りない! 頭が働かなくて仕事ができないよ!」
 おやすみだけど、忙しいパパは家でもお仕事をしているのだ。
「お菓子が食べたいなぁ! ……あ、そういえばフルールの……広瀬くんのおじいちゃん、大丈夫だったかなあ。心配だねえ、理花」
 パパがわたしをちらりと見る。そのことを考えていたところだったので、わたしはだまってうなずいた。
「元気になってて、もうお店開いてたりしてないかなあ」
 パパはぶつぶつとつぶやく。
 そんなパパに、ママが呆れたように言う。
「昨日救急車で運ばれたんでしょ? 昨日の今日で店を開けるわけないでしょ」
「そんなこと、わかんないだろう」
「大丈夫だったとしても、すぐにお菓子とか作れないわよ。スーパーで買ったのでがまんして! ほんっとお菓子のことになるとうるさいんだから!」
 ああ、けんかが始まっちゃった。だけど、いつもすぐに仲直りするから、『けんかするほど仲がいい』ってやつだと思っている。
「だってぜんぜん味がちがうだろう? あー、フルールのこと思い出したらお腹が空いてきた……もうこれ以上はお菓子がなかったら仕事ができない! ……だれか買ってきてくれないかなぁ」
 パパがちらりとわたしを見て、ぎくりとする。
 なんとなく、『様子を見に行きたい』っていう気持ちを読まれているような気がしたんだ。
 するとママがため息をつき、ふとこちらを見た。
 あ、なんだかイヤな予感がする!
「理~花~」
 にっこり笑顔で優しく呼びかけられてわたしは思わずあとずさり。
「な、なに!?」
「ちょっとフルールの様子見てきてくれる? おじいちゃんも心配だし、お店が開いてないってわかったらパパも諦めるだろうし」
 ママにまでフルール行きをお願いされてわたしはあせった。こ、これはゼッタイ行かなきゃいけなくなってきたっぽい!
「そ……それより、ママが作ったらいいのに」
 言い返すと、「ママにそれを求めるのはまちがってるわよ」とママの目がつり上がった。
 実はママは料理があんまり得意じゃないんだ。
 普通のお料理は、パパと結婚するときにすごく練習したらしくてなんとかできるけど、お菓子はぜんぜんだめ。
 昔、チャレンジしていたこともあるけれど、失敗続きでとうとうギブアップしてしまった。
 パパが言うにはママは食べるほうが得意、だそうだ。
「ママが行ってもいいけど」
 わたしがホッとしかけると、ママはニヤッと笑った。
「代わりにお掃除をやっててくれる?」
 そう言われてしまうと、行くしかない。
 家の掃除はおつかいよりずいぶんたいへんだ。それに……やっぱり、そらくんのおじいちゃんのことは気になるから。
 お菓子を買うって理由があるなら、行っても大丈夫だよね?
 わたしは「わかった」と言うと、お菓子のお金をもらって家を出た。

 フルールに着いたけれど、入り口の扉には《Fermé》と書かれた札がかけてあった。
 どうやらお店はまだ閉まっているみたいだから、閉店って意味かな。
 そらくんのおじいちゃん、大丈夫かな。
 早く良くなりますように。
 そう思いながら回れ右をしたとき、がしゃん、という音がする。店の方だ。
 つづけて「うわあああ」という聞き覚えのある叫び声。
 ぎょっとしたわたしはとっさに扉に手をかける。
 鍵はかかっていなかった。
「……そらくん?」
 声をかけると、お店の奥からそらくんが出てきた。
「え、佐々木? なんでここに──」
 わたしは目を見開いた。
 エプロンをしたそらくんがボウルと泡立て器を、それぞれの手に持って立っていた。
 そらくんははっとすると、手に持ったそれをあわてたように後ろにかくした。だけど手が滑ったのか、ボウルが落ちてガッシャンとすごい音がひびきわたる。
「な、なにしてるの、そらくん……」

 わたしはエプロン姿でボウルを拾うそらくんを見下ろして目を見開いた。おじいちゃんのこととかお店のこととかを聞こうと思ってたのに、全部頭から飛んでいってしまう。
「……え、お菓子、作ってるの?」
 そらくんのアウトドアなイメージとちがってびっくりして思わず言うと、そらくんの目がすっと冷たく尖った。
 いつもとはちがうひんやりとした表情にわたしはビクッとする。
「どうせ、佐々木も『変』だって言うんだろ」
「え……?」
 なんだか怒ってる? どうして……と、とまどっていると、そらくんはさらに言った。
「帰ってくれる? おれ、いそがしいんだ」
 背中に氷を押し付けられたような気分になる。
「ご、ごめん」
 わたしは回れ右をして店を出るものの、足がぜんぜん動かない。
 なんだかそらくんが、あまりにもいつもとちがいすぎて、ショックだったんだ。
 しょんぼりとしながらも家に向かって歩き始める。
 だけど頭の中にそらくんの冷たい表情がちらちらと浮かび上がって、気になってしかたがない。
 そらくん、怒った顔だったけれど、なんだか寂しそうだった。
 なんであんな顔してたのかな。なにか怒らせるようなことしちゃったのかな? じゃないとあのやさしいそらくんがあんなふうに言うわけない……。
 そう考えたわたしは、ふと足を止めた。

「……変……?」

『理花ちゃんって変わってるよね』

 そらくんが言った言葉が、昔わたしが言われた言葉に重なった。
 あのとき、わたし、どんな気持ちだった? 世界がひっくり返ったみたいで、すごく、びっくりして……悲しくなかった?
 ……もしかして! そらくん、わたしが変だって思ってるってゴカイしちゃった!? それで悲しくなって、あんな顔したのかも!?
 気づいたとたん、わたしは思わず店に向かって駆け出していた。
「──変とか、思ってないよ!」
 店のドアを開けると同時にそう叫んだ。
 中ではそらくんがびっくりした顔をしている。
「佐々木、帰ったんじゃ──」
 ぼうぜんとした顔を見てはっとする。
 わあ、わたし、なに言っちゃってるの!? わたしって、こういう大声出すようなキャラじゃないのに!
 恥ずかしくて逃げ出したくなったけれど、わたしはぐっとがまんしてその場でふんばった。
 だって。だって、さっきみたいな寂しそうな顔、そらくんには似合わないし! そんな顔させたままとかイヤだもん!
「ちょっとびっくりしたけど、わたし、変とか、思ってないよ!」
 ちゃんと伝わりますように。願いながらまっすぐにそらくんを見て言う。
「変だって言われるの、やだよね。だからちゃんと伝えたかったんだ。わたしは変だって思ってないって」
「佐々木……」
 そらくんは少しの間目を丸くしたままだったけれど、やがて、「はああ」と大きくため息をついた。
 そして、するどかった目の力をふんわりとゆるめて、カラッとしたいつもの笑顔を浮かべる。
「わざわざ言いに来てくれたんだ。ありがとな──ってか、ごめん! 昨日もありがとな! 佐々木のとうちゃんに救急車よんでもらったのに、おれ、サイテーだな」
 おひさまが照ったような変わりように、なんだかドギマギしてしまう。
「えっと……おじいちゃん、大丈夫だった?」
 たずねると「うん。働きすぎだって。ちょっと入院することにはなったけど、大丈夫」と言いながら、そらくんは丸椅子にどしんと腰掛けた。そして小さく息をはく。
「おれ、さ。じいちゃんみたいなパティシエになりたいって思ってるんだ」
「ぱ、ぱてぃしえ?」
 それはたしかお菓子を作る職人さん。
 そんなの初めて聞いた! わたしは少し目を丸くする。けれど、そらくんは今度はいつもの調子でやさしくうなずいた。
「この店のフルールって名前、ばあちゃんの名前からつけたんだって。ばあちゃんはもう結構前に死んじゃったんだけど、店の中にまだいるような気がしてて。じいちゃんが倒れて、店までつぶれたら、なにもかも消えちゃうんじゃないかって思ってさ……。だからおれがパティシエになって店を守るんだ」
 だから修業してたのか。そらくんの必死さの理由を知って、わたしは胸がギュッと痛くなった。
 だけど、そらくんはぱっと顔を上げると頬をふくらませる。
「でも、じいちゃんさ! いくらおれが弟子になって店を手伝いたいって言っても、ゼッタイやらせてくれないんだよ。だから働きすぎで倒れたりするんだよな。それで店がつぶれたらどうするんだよ!」
「そらくんに手伝ってもらえばいいのにね。どうしてなのかなぁ?」
 昨日また店員さんがやめちゃって、人も足りないだろうし、お手伝いとか助かると思うのに。うちのママだったらきっと大喜びだ。
「それがさ……」
 そらくんはわたしを見ると、ちょっと迷ったように口をつぐんだ。そして椅子から立ち上がるとこぶしを握りしめた。
「とにかく! おれは早くじいちゃんの弟子にしてもらって、ゼッタイに『幻の菓子』を作ってみせるんだ!」

「『幻の菓子』って?」
 おじいちゃんはないって言ってたけど……あるの?
 わたしが首をかしげると、そらくんは苦笑いをした。
「ばあちゃんの誕生日に食べてた菓子のことなんだ。小さいときだったからどんな菓子かはぼやけてるんだけど、メチャクチャうまかったのは覚えてる。じいちゃんには何回も作ってくれってたのんでるんだ。でも、『もう作れなくなった』とか言って、ゼッタイ作ってくれなくって」
「だから『幻の菓子』なんだね」
 わたしが言うと、そらくんはうなずいた。
「じいちゃんが作れないんなら、おれが自分で作ればいいだろ?」
 そう言ったそらくんの目がすごくキラキラしてて。わたしはその力強いまなざしにどきんとしてしまう。
 そしてそんな夢を持ってるのって、すてきだなって思った。
「パパ、すごく喜ぶと思う! 『幻の菓子』って聞いて、ものすごく食べたそうな顔してたもん」
 よだれをたらしそうだった顔を思い出してちょっとげんなりしていると、そらくんが笑った。
「おまえのとうちゃん、さてはそうとうな甘党だな」
 わたしはしっかりうなずく。
「だからちょっとお腹がぷよぷよなの」
「はははっ!」
 すっかり元の調子に戻ったそらくんにわたしも楽しくなる。うん。そらくんはこうでなくっちゃ。
 あぁ、戻ってきてよかった!

4 クッキー作りのお手伝い

「ところでなにを作ってるの?」
 わたしがたずねると、そらくんは頬を手の甲でぬぐった。
 だけど手に粉がついていたものだから、ほっぺが白くなってしまう。なんだかカワイイ。
クッキー作ってる。じいちゃんが一番カンタンって言ってたからさ。あ、せっかくだからおれが作ってやるよ。佐々木のとうちゃん用」
「え、いいの?」
「任せておけって」
 そらくんはどん、と胸を叩く。
 うわあ、さすがパティシエの孫。たのもしい! そう思ってわたしは見ていたんだけど……。

 ステンレスの作業台の上には、メモが置いてあって分量が書かれている。鉛筆で力強くていねいに書かれている文字は、どうやらそらくんの字のようだ。となりにはタブレットが置いてある。
「それ、レシピ?」
「うん。さっきタブレットで調べた。『一番カンタン』って書いてあるやつ」
「おじいちゃんのレシピはないの?」
 わたしはぐるりと工房を見回す。
「んー、あるとしたらこれかな」
 そらくんは壁のフックにつり下げられていた古い一冊のノートを取った。ノートとか本は他にはないし、たしかに一番怪しい。
「でもさ。じいちゃん、なにも見ずにやってんだよな。ゼッタイ、全部頭に入ってるんだ」
 それはそうだろう。
 何十年もずっと作り続けているものだ。
 いちいち見なくても覚えているんだ、きっと。
 ぱらぱらと開いてみると、ノートにはアルファベットのようなものがたくさん書いてある。
 だけど筆記体っていうのかな? 字が崩して書かれているせいで、なんて書いてあるかさっぱりわからなかった。
「これ、英語かな?」
「たぶん。だけどおれ、英語はぜんぜんだめなんだ」
「わたしも習ってないから読めそうにない」
「まあ……だから調べたってわけ」
 そう言うと、そらくんはまず材料を量り始めた。
「んーっと」
 小麦粉を取り出したそらくん。だけど、そらくんが持っているのは計量カップだ。
 あれ?
 わたしはメモをもう一度確認して、目をまたたかせる。
「ええっと、150グラムってことはこの線かな」
 そらくんは計量カップの150の線まで粉を入れた。
 あれれ?
 首をかしげていると、次は砂糖。
「50グラムってこのくらいかなあ」
 そう言って今度は計量カップに砂糖を入れる。
 んん?? グラム??? グラムって言ったよね、今。
 眉をひそめていると、そらくんは冷蔵庫からさらにバターを取り出す。
「うーん、これを100グラム……? どうやって入れるんだ? むりやり押し込む?」
 固まったままのバターを計量カップに突っ込もうとしたので、わたしはさすがに声を上げた。
「ちょっとまって!」
「え、なに?」
「そらくん、それ量る道具がちがうよ!」
 そらくんが今量っているものはグラム──つまり〝重さ〟のはずなのに、道具が〝量〟を量るものなんだ。
 きょとんとしたそらくんに、わたしはどうしたら伝わるかなって悩む。
「え、えっと、重さを量るんなら、計量カップじゃなくって秤(はかり)を使わないとダメだと思う!」
「重さ? はかり?」
 ああああ、これはもしかして!
「あの……そらくんってもしかして、算数とか理科とか、ニガテ?」
 恐る恐るたずねると、そらくんはぎくりとした顔をして黙り込んだ。
「えっと……まず、計量カップの目盛りの単位は㏄って知ってる?」
 そらくんはうなずく。
「1㏄っていうのは1mlのことだろ? で、1mlは1g!」
 そらくんは胸を張った。
 ああ、それはわかってやってたのか、とちょっとホッとする。
 たしかに授業では言ってた。だけどそれは特別な場合だけで、全部が全部そうじゃないんだ。
「1mlが1gになるのは『水』だけなんだ。重さって物によってちがうから。だから水だったら計量カップで量っても大丈夫なんだけど……他のものはダメだと思う。ほら、ええっと……文鎮と消しゴムだと同じ大きさでも重さがちがうよね?」
 そらくんはいまいちぴんとこない顔をしている。
 うん、じゃあ、実際に見てもらおう。
 わたしは秤の上に計量カップを置いて、まず水を150の目盛りまで入れた。
 秤の表示は150グラムになる。
 そしてもう一つ計量カップを出すと、今度は小麦粉を150の目盛りまで入れる。すると──。
「ほら、83グラム! 半分くらいの重さだよ! これだと小麦粉の量が足りなくなっちゃう」
「佐々木って……すげええ。そんなことよく知ってんな!」
 一気に説明を終えると、そらくんが目を丸くしていた。
「す、すごくなんかないよ!」
 だって全部授業で習ったことだ。
 ほめられてあわてていると、そらくんが急にぱん、と顔の前で手を合わせた。
「──佐々木、たのむ!」
「え? なに!?」
 思わず一歩後ずさると、そらくんはぐい、と一歩近づいた。
 え、ちょっと! なんだか顔が近い!
おれの菓子作り、手伝ってくれ! 実はおれ、算数と理科がニガテで、この間のテストもひどい点数で! じいちゃんにも『料理は科学なんだ。その頭じゃあとてもじゃないがパティシエにはなれん』っていつも言われて。分量の計算ができるようになるまで外で見てろって、手伝わせてもらえなかったんだよ!」
 ひええ! つまり見てただけ!? それじゃあほとんど初心者じゃない!?
「だからたのむ!」
「え、でも、ムリだよ、わたし、お菓子作りとかしたことないし!」
「大丈夫、おれ、分量の計算以外は自主練してるし!」
 たのむ、と間近できれいな顔に思いきり拝まれてしまって、わたしはハクリョクにおされる。
 っていうか、近い!!! 顔が近いよ、そらくん!
 キリリとした眉。くっきりとした二重まぶたの目。澄んだ瞳からは力強い光がキラキラと出ているようで、ひきつけられて目がはなせない。
 ひゃあああ! いまさらだけど、そらくんって、やっぱりすごいイケメンだよね!? 眩しすぎるよー!!
 息がかかりそうなくらい近くにある顔に、頭がグラングランとしてくる。
 この状況、早く終わらせないと! 心臓がもたないよ!
「え、ええっと、わたしでいいの……?」
 わたしなんかで。そんなひくつな考えが頭に浮かんだとき、
「佐々木がいい」
 キッパリ言われてしまってどきんと胸がはねた。
『わたしがいい』……? わたし『が』いいとか、言われたの、はじめてかも。
「わ、わかった……」
 わたしはいつの間にかそう答えていた。
 え、えっ、わたし、なにオッケーしちゃってるの!?
 あわてたけれど、もう遅かった。そらくんが太陽みたいに笑ったから、断りきれなくなっちゃったんだ。

「じゃあ、さっそく作ろう!」
 張り切ったそらくんが言う。
 お店の奥にある工房の冷蔵庫には、材料がたくさん入っていた。
 けれど、ふと不安になる。
 これ、勝手に使って怒られないのかな?
 聞くとそらくんは何でもないように言った。
「かあちゃんに聞いたら、くさらせるほうがもったいないから、大事に使って、って」
 なるほど。ホッとする。
 ステンレスの台の上には、道具もたくさん。
 秤に計量カップ、ボウルに泡立て器。
 全部ピカピカにみがかれている。
 二人で小麦粉とバターと砂糖を今度はきちんと『秤』で量る。
 そして卵と一緒にボウルに入れてまぜ合わせた。
 耳たぶくらいの柔らかさになった生地を小麦粉をふった台にのせて、めん棒で広げる。
 型抜きして天パンに並べると、そらくんがあっためてくれていたオーブンに入れる。
 レシピは『一番カンタン』なだけに、とにかく手順がシンプルなものみたいだった。
 だけど……。
「んー……なんか、じいちゃんのクッキーと味、ぜんぜんちがう……」
 バターのよい香りがただよう中、そらくんは不満そうだ。
 わたしはおいしいと思うんだけど。
 だって初めて作ったんだよ? 上出来だよ。
 だけどそらくんはさすがにパティシエの孫。おいしいお菓子を食べ慣れている。
「じいちゃんのはもうちょっとサクサクしてるっていうか……これ、なんていうか固いっていうか、重いっていうか」
「おいしいと思うけどな……」
 わたしは反論するけれど、たしかに素朴でお店の味とはだいぶんちがう。
 そもそもクッキーと言っても、スーパーに売っているのでもいろいろある。おせんべいみたいな薄くて固いのとか、逆にふっくらした柔らかいクッキーとか。だからそれぞれレシピがぜんぜんちがうのかもしれない。
 それはそっか。
 お店のクッキーが『一番カンタン』にできるのなら、だれも買いに来ないもんね。
 きっとおじいちゃんだけが知ってる、特別な技があるんじゃないかな。
「サクサクにするにはどうすればいいんだ?」
「サクサクのクッキー……かあ」
 ヒントになるようなことを、最近考えたような気がするんだけど……なんだっけ?
 思い出せずに考え込んだ。
 わからないことがあると、スッキリしなくてキモチワルイよー!
 そのとき、ふとタブレットが目に入った。
「もう一回調べてみたらいいんじゃないかな?」
 わたしが言うとそらくんは困った顔をした。
「それが……」
 タブレットを持ち上げるとロックを外す。だけどそこには『今日の使用時間を超えました』と表示されていた。
「ゲームのやりすぎで規制されてんだ。佐々木んとこは規制されてたりする?」
 そらくんの顔はどんよりとしている。
「わたしは自分用のタブレット持ってないから」
「そっか」
 残念そうにするとそらくんは外を見た。
 つられて見ると外は少し暗くなりかけている。
 時計を見るともう少しで五時だった。わたしははっとする。
「あ、もう帰らないと……! お菓子買いに行くって出かけてきたんだった!」
 そらくんはため息をついた。すごくがっかりしてるように見えたので、わたしはあわてて言う。
「あ、あの。わたし、パパのパソコン借りて調べてみるね」
「え、いいの?」
「わからないことがあると、わたしも気持ちがわるいから」
 そう言うとそらくんの顔がぱっと明るくなる。
「じゃあ、明日も一緒にやってくれないか? あ、午前中は野球があるから午後から」
 あ、そういえばそらくんって野球やってるって聞いたことがある。ドッジボールですごく速い球を投げててともだちが騒いでたんだ。たしか、ピッチャーなんだって!
 わたしはうなずく。明日は特に用事はない。
「じゃあ、明日」
「ちょっとまった。これ忘れ物」
 そらくんはさっき作った『一番カンタンクッキー』を差し出す。
「いいの?」
「おまえのとうちゃんに作ってやるって言ったろ? ……って言っても、一緒に作った、っていうかかなり手伝ってもらったな……じゃあこれもついでに!」
 そう言うと、そらくんは冷凍庫の中からクッキーを三枚取り出す。見ると形がいびつだったり少しこげていたり。
「じいちゃんが作ったやつだけど、わけありでお店には出せないやつ。おれのおやつなんだ」
「きっとパパ、よろこぶよ」
 だといいな、と言うと、そらくんはすっとマジメな顔になって言った。
「佐々木。ありがとな」
 大きな澄んだ目でまっすぐに見つめられたわたしは、
「べ、べつに大したことしてないよ?」
 そう言って、逃げるようにお店を飛び出した。

 帰り道、じわじわと実感が湧き上がってきた。
 ええと……わたし、あのそらくんとお菓子を作っちゃったんだよね!?
 急に飛び上がりそうになったわたしは、ドキドキする胸を押さえながら、スキップまじりで家に帰ったのだった。

5 足りないものは

 家に帰ると、夕食のにおいがただよっていた。だけどリビングにパパはいない。
「あれ? ママ、パパは?」
 キッチンに向かってたずねると、ママがひょいと顔を出した。
「急にお仕事で呼び出しだって。夜は遅くなるって言ってた」
「えー? せっかくおつかい行ってきたのに」
「だって理花遅いんだもん。パパ待ってたのに。なにしてたの?」
 わたしが作ったクッキーを手渡すとママはおどろいた顔をした。
「え、これどうしたの!?」
 おじいちゃんが働きすぎで入院して、フルールはしばらくお休みみたいだということ、そしてそらくんが代わりに作っていたから手伝ったことを説明する。
 ママはクッキーを食べるなり、目を丸くする。
「おいしいじゃない。パパよろこぶよ、きっと」
「おじいちゃんのクッキーにはぜんぜんかなわないけどね」
「娘の手作りクッキーにかなうクッキーなんてないと思うけどねえ」
 クッキーは十枚。五枚をパパにとっておいてママと二人で分ける。一緒に、おじいちゃんのクッキーも一枚ずつ分けた。
 ママが早速食べて「やっぱりプロはちがうわねえ」と目を輝かせると夕食の準備に戻った。
 わたしも一口かじってみる。ざくっと軽い歯応え。そしてバターのいいにおいが口の中に広がった。そらくんがぜんぜんちがうって言うの、すごくわかる。
「どうやったらこうなるのかなあ」
 お皿の上に、そらくん作クッキーとおじいちゃん作クッキー、二つの食べかけクッキーを並べてじっと見つめてみる。
 上から見たら大体同じくらいの大きさ。チガイはあんまりない。
 じゃあ、横から見たら? とクッキーの向きを変えたわたしは首をかしげた。
 あれ?
「こっちにはたくさんすきまがある」
 そらくん作クッキーは生地が詰まっている。だけどおじいちゃん作クッキーの方が小さな穴がいっぱいあったのだ。
「もしかして、サクサクの原因って、これ?」
 胸がドキドキしはじめた。
 うーん……だとしてもこの穴をどう作ったらいいかわからないよ。
 穴……空洞。つまり中に空気が入っているってこと?
 空気。ぷくぷくした泡……。
 連想を続けていたわたしは、ふとリビングにあった金魚鉢を見てひらめいた。
「泡! 泡だ!」
 わたしは思わず立ち上がると自分の部屋に行って、机の引き出しを開けた。
 一番上の引き出しの奥。小さな鍵をつかむと、庭に出る。
 そしてハナミズキの下にある小屋の前に立つ。
 ここはわたしが理科をキライになってから封印していた、パパとわたしの実験室だ。
 もう二度と入らないって、思ってた。だけど……だけど、謎を解くためには、この実験室が必要だ!
 えいっ! わたしはギュッと鍵を握りしめると、扉の鍵穴に差し込んだ。
 カチャリ、という音と一緒に、扉がひらく。
 風が吹いてわたしの背中をそっと押した。
 真ん中に大きな実験台がひとつ。そして壁際には、窓を挟んで大きな本棚と小さな冷蔵庫とオーブンレンジが一台ずつ。棚の中には実験器具がびっしりと詰まっている。
 ずっと使っていなかったはずの部屋は、きれいに整理整頓されているし、ほこりも落ちていなかった。まるで時間を止めてわたしをまっていたかのように。
 わたしは棚の中からコップみたいなビーカーと、細長くて目盛りのついた容器──メスシリンダーを出す。
 昔のことが昨日のことのようによみがえる。
『ここに魔法の粉がありまーす』
 記憶の中のパパがさらさらした白い粉を出す。
 そして秤で重さを量った。
 さらにレモン果汁をメスシリンダーで量り始める。
 ビーカーに粉を入れて、レモン果汁を加えると、シュワシュワと一気に泡が立った。
「昨日、授業参観で先生が言ってたじゃん」
 そうだ、授業参観で先生が出した問題は──
『炭酸水には何が溶けているのかな?』
 そして、最後には泡の正体をたずねたのだ。
 泡の正体は『二酸化炭素』。
 そして、二酸化炭素を作るのは〝それ〟とレモン果汁との化学変化。
 パパと夏の自由研究でサイダーを作ったことがあるから、わたしは答えを知っていたんだ。
 棚から実験ノートを取り出す。そうだ。たしか書いてあったはず。
『熱を加えることや、泡の発生を助ける成分をまぜることで、ものをふくらませるという作用があります』

 わたしはそのページを見つけて思わずガッツポーズをした。
『さあて、この魔法の粉は何でしょう?』
 記憶の中のパパがクイズを出す。
「炭酸水素ナトリウム! 重曹だ!」
 だれもいない実験室にわたしの大きな声がひびき渡った。

 次の日。
 もうお昼だというのに、ソファではパパがぐうぐう寝ている。昨日の服のまんまだ。ママが言ってたとおり、夜遅く帰ってきたんだろうな。ぜんぜん起きそうにない。
 そんなパパの前にはクッキーの包み紙。どうやら食べてくれたみたいだ。
 今日はもっとおいしいの作ってあげるからね!
「パパ、おつかれさま。ちょっと行ってきます!」
 そう言うと、わたしはダッシュでフルールへと向かった。
 店はもう開いていて、そらくんが手を洗って、エプロンと三角巾を着けて待っていた。
「かあちゃんが持ってけって」
 白いエプロンには小さな花の刺繍とフルールという文字がワンポイントで入っている。
 おじいちゃんが使っているものなのかもしれない。
 そんなふうに思っていると、そらくんは、わたしにも同じ物を「これ使って」とわたしてくれる。
 くすぐったいような気持ちになりながら、わたしはおそろいのエプロンと三角巾を身に着けようとする。
 すると間に入っていた紙が床に落ちた。
 拾おうとかがみ込むと、テーブルの下にもう一枚、黄ばんだ紙が落ちていた。
 ひとまず先に落とした方の紙を開くと、それはお手紙だった。


佐々木理花さんへ
そらがムリ言ってごめんなさいね。
そらにもよく言ってあるけど、くれぐれも火のとりあつかいややけどには気をつけて。
何かあったら、すぐに家まで言いに来てね。
どうぞよろしくおねがいします。
そらのママより


「かあちゃんも手伝うって言ったんだけどさ、それだとかあちゃんが全部一人でやりそうじゃねえ? 修業にならないから断ったんだ」
 わたしはそらくんに床に落ちていたもう一枚の紙を渡す。
「なんだろこれ……」
 開くと、そこにはアルファベットと数字がずらりと書いてある。
 どうやら、レシピのノートの切れはしのよう。文字もノートと同じ感じで書いてある。
「エルエーシーアールイーエムイー……? なんて読むんだ? エスユーシー…… 70……読み方わかんねえ! なんだろ、これ。なぞなぞ? 暗号?」
 二人してむずかしい顔をした。
 そらくんはしばらくカイドクしようとチャレンジしていたけれど、やがて「まったく、わかんねえ!」と言ってホワイトボードにくっつけた。
 だけど、わたしはじっとその文字をみつめる。気になるから、後でこっそり調べてみようと思ったのだ。

 手を洗ってエプロンを着け、三角巾をする。
 準備をし終わると、そらくんは「で? わかったんだろ?」とたずねる。
 わたしがウズウズしていたから、昨日の答えが出たことには気づいているみたいだ。
「あのね、この間学校でサイダーの実験やったでしょ。あれがヒントだったんだ!」
 じゃじゃーん、という音を口にしそうになる。
 そのくらいのハイテンションでわたしは魔法の粉──重曹を差し出した。
「これを入れて焼くと、中で泡──二酸化炭素っていうガスなんだけど──が発生して、中にすきまができるみたい。だからサクサクのクッキーになるんだって」
 実験ノートに書いてあったことを伝えると、そらくんは目を丸くする。
「さっそくリベンジしてみよう?」

 小麦粉と砂糖とバター、それから重曹をていねいに量る。
 分量はパパのパソコンで調べた。
 本当はおじいちゃんに聞くのが一番なんだろうけど。それはムリだろうから、『重曹を使ったサクサククッキー』で検索したレシピで再チャレンジだ。
 バター100gにグラニュー糖130gを入れて白っぽくなるまでまぜると、卵1個を溶いたものを練り込む。塩をひとつまみ。
 小麦粉170gと重曹小さじ2分の1をふるいにかけて、バターのはいっているボウルに入れてさっくりまぜる。
 うーん。なんだかベトベトしてるけど大丈夫かな?
「次は、生地を冷蔵庫で最低でも三十分休ませるって書いてある」
「休ませる?」
「置いておくってことだろうけど、なんでだろ?」
「大したことないって。早く焼きたいから、とばそう!」
「え、でも、また失敗するかもよ!」
「でも三十分かぁ……」
 そらくんはむうっと口を尖らせると、「おれちょっと素振りしてきてもいい?」と言って庭に出て行った。
 生地を休ませる理由……わかんない。
 これもあとで調べてみようと思いながら、わたしはラップに包んだ生地を冷蔵庫に入れた。
 タイマーをセットする。
 待ち時間、30分。
 最低でもって書いてあるってことは、本当はもっと休ませたほうがいいのかな。
 わたしはタイマーの残り時間を見つめたあと、道具をていねいに洗った。
 洗剤をたくさん泡立てて、隅々までしっかり洗う。
 洗い方はパパ仕込み。
 理科の実験器具はきれいに洗って乾かしていないと、正しい実験結果が出ないのだ。
 なんだか実験みたいだな……と思った瞬間、手が止まった。
 いや、いやいやいや、実験なんかじゃないよね!?
 だって、わたし、もう実験なんかしないって決めたんだもん……って、あれ? わたし、昨日実験室にも入っちゃった!?
 いや、ちがう。うん、あれは、ちょっと調べ物をしに行っただけだし。しかもお菓子作りに関することだし!
 だけど……そらくんのおじいちゃんも『料理は科学』って言ってたんだよね? 科学って、理科のことだってパパは言ってた。つまり、これって理科実験ってこと?
 わたしはあわてて首をぶんぶんと横にふる。
 ちがうよ! お菓子作り! だって、ほら、この工房はどう見ても実験室じゃないし、つかってるのも小麦粉だし、バターだし、お砂糖だし!
 うん! どう考えても、これはりっぱなお料理!
 むくむくと湧き上がってくる不安を、全部たたきつぶしてしまう。
 ようやくホッとしたけれどすぐに、あれ? とわたしは首をかしげた。
 ……わたしなんでこんなに必死で言い訳してるの?

 ぴぴぴ、とタイマーが鳴ってはっとする。
 音を聞きつけたそらくんが飛び込んできて、すばやく手を洗ってエプロンを着ける。
 頭の中のもやもやを吹き飛ばして、わたしは冷蔵庫の生地を取り出した。
 生地は冷蔵庫に入れる前と比べて、ベトベトが減っている気がした。
 あ、これなら手にくっつかないかも。
「なんかちょっと固くなってるな」
「そっか、休ませるのって丸めやすくするためなのかもね」
 生地を休ませた理由を考えながら、二人で生地を切り分けてまんまるに丸めた。
 そしてオーブンの天パンに並べると180度に温めておいたオーブンに入れて、今度は15分。
「結構かかるよなあ」
 そらくんが言い、わたしはうなずいた。
 だけど、小麦粉と砂糖とバター、重曹だけを食べてもぜんぜんおいしくない。
 それをまぜて、焼いて熱を加えると、甘くておいしいお菓子になる。
 魔法みたいだけど、そこにはちゃんと理由がある。
 仕組みを知りたいなって思うと、なんだかウズウズした。

 工房の中に甘いにおいがただよって、オーブンが焼けたと合図をする。
 そらくんが、鍋つかみをした手でそうっと天パンを出して台に置いた。
「うわああ」
 丸いクッキーがずらりと並んでいる。
 焼く前はまんまるだったのに、おせんべいみたいに平べったくなって、こんがりときつね色に焼けていた。
 ごくんとのどが鳴る。
「味見しよう」
 二人で一枚ずつ食べる。
 ドキドキしながらクッキーを口に入れ、思わず目が丸くなる。
 おじいちゃんのクッキーには届かないかもしれないけれど、サクサクと歯ざわりのいい、すごくおいしいクッキーだった。
 甘みが口の中に広がるのと同時に、鼻にバターの香りが広がった。
 うわああ、おいしい!

「おれ、病院行ってくる!」
 そらくんが大急ぎでクッキーを紙袋に詰め込む。
 きれいに二つに分けると、
「半分は佐々木のとうちゃんに!」
 そう言ってわたしに一袋をおしつけた。そらくんはエプロンを着けたままで飛び出していく。
 わたしはクッキーの袋をにぎりしめて、そっと祈る。
 このクッキーで、そらくんがおじいちゃんに認めてもらえますように、と。

 家に帰ったらパパは復活していた。
 持ち帰ったわたしとそらくんのクッキーを食べると、目をうるませて、
「昨日のもおいしかったけど、今日のはもっと、もっと、ものすごくおいしい!! 二人とも天才! お菓子屋さん開けそう!」
 と言ってくれた。
 だからきっとおじいちゃんもよろこんでくれただろうなって、わたしの心は温かくなった。

 その晩、わたしはパパのパソコンを借りて調べ物をした。
 昼間わからなかったこと──クッキーの生地を休ませる理由が知りたかったのだ。
「クッキー 生地 休ませる 理由、っと」
 つぶやきながらキーボードをぽつりぽつりと叩いて文字を打ち込んでいく。すると最初に開いたページに書いてある。

1 水分を全体になじませるため
2 生地を固くして型抜きしやすくするため
3 味を生地によくなじませるため

「そっかあ。固くするのと、味を良くするためなんだ……」
 自分で考えた理由の一つが合っていたことにニンマリしてしまう。
 予想したことと結果からいろいろと考えるのは、クイズみたいですごく楽しい。もちろん正解だと嬉しいけど、不正解でも新しいことを知ることができて、別の楽しさがあった。
 つづけてわたしは本棚から一冊の辞書を取り出した。
 背表紙には英和辞典と書かれている。
 記憶をたよりに、あのおじいちゃんのメモのカイドクに乗り出したわたしだったけれど、すぐに音を上げた。
 だって、つづりをまちがって覚えてしまったのか、それともやっぱり暗号だったのか、ぜんぜんのっていないんだもん。
 結局、あきらめてお布団に行く。
 あおむけになると、はあああ、と大きく息をついた。
 うん。メモの暗号が解けなかったのは残念だけど……なんだかすごく楽しい一日だったな。
 なんだか、ほら、昔パパと一緒に実験をしていたときみたい……。
 わたしははっとする。いや、いやいや、だから、あれは実験じゃないってば! お菓子作りだもん!
「お菓子作り……だよね?」
 天井に向かってつぶやいてみるけれど、だれも答えてくれない。
 答えが出ないのが気持ちわるくて、わたしは大きくため息をはいた。
 うん……どっちだとしても、もうそのお菓子作りも終わりなんだけどね。きっとあのクッキーでそらくんはおじいちゃんの弟子にしてもらえるだろうし。そうしたら、『幻の菓子』の作り方だって教えてもらえるはず。
 目を閉じるとそらくんのキラキラした笑顔が思い浮かぶ。そして『佐々木がいい』って言葉もよみがえる。
 それをむりやりに追い払う。
 だって、わたしみたいな地味な女子が、クラスのアイドルのそらくんとお菓子作りなんて、もう二度とないだろうし。
 うん、いい思い出になったって思おう。そうしよう。じゃないと、明日から戻ってくる普通の生活がつらいかもしれない。
 わたしは大きく深呼吸をすると、お布団の中にもぐりこんだ。

6 さあ、リベンジだ!

 そうしていつも通りの日常が戻ってきたはずの、次の日のこと。
「佐々木!」
 そらくんが教室で話しかけてきたものだから、わたしはものすごくおどろいた。
 だって、いままで学校ではほとんど話したことがないんだよ!?
 だからかもしれないけど、みんなもおどろいた顔でわたしとそらくんを見ている。
「昨日はありがとな!」
 そらくんはにっと笑うと、小さな声で言う。
「あ、えっと、うん」
 ドギマギしていると、ちょうど先生が入ってきて朝の会がはじまった。
 わたしはホッとする。
 だけど、みんなのふしぎそうな目はそのままで、とてもイゴコチが悪かった。
「理花ちゃん、そらくんとなにかあったの?」
 後ろの席の子がこそっとたずねてくる。
 ごく普通の質問だと思う。
 わたしとそらくんの組み合わせ、わたしでも不自然だと思うもん。だけど……。
『どうして理花ちゃんなんかにそらくんが?』
 そんなふうに言われているような気がしてチクチクと胸が痛かった。
 あれから言われたことはないけれど。『変わってる』、『男の子みたい』のとげはいまだに心に刺さったままだ。
「う、ううん、なんでもないよ」
 そう答えて前を向いたけれど、ずるい、って言われてるような、キモチワルイ視線が体にまとわりつく感じがした。

 その後も、そらくんは休み時間ごとに「話をしたい」っていうオーラを出したけど、わたしはなんだか気まずくて、そのたびにトイレに逃げることにした。
 するとそらくんはあきらめたのか、それともともだちと遊びたかったのか、わたしに話しかけようとするのをやめてくれた。

 その日の放課後。
 家に向かっててくてく進んでいくと、大きな桜の木が見えてきた。もう花は全部散っちゃって、黄緑色の葉っぱが力強く生えてきている。
 その角を左に行くとわたしの家だ。だけど、いつもちょっと遠回りして、もう一本先の角で曲がるんだ。
 わざと通らない道。そこには小さな公園があって、三年生までは近所の子たちとよく遊んでいた。
 宝物を見せあったのも、タマムシを逃がしたのもその公園。だからなのかな。どうしても胸がチクリと痛むんだ。
 わたしは痛みを消そうと右の道を見た。それはフルールへと続く道だ。見るとどうしても昨日のことが思い浮かんだ。
 そらくん、どうしてるかな。
 ちらりと道をのぞき込んだわたしは、目が飛び出るかと思った。
「そ、そらくん!?」
 道沿いの垣根に寄りかかってそらくんがまちぶせていたのだ。
「……なあ、佐々木。なんでおれを避けてるわけ?」
 うわあ、そらくん、避けてること、しっかり気づいてた! 意外にするどい!
「き、気のせいだよ」
 わたしは大あわてで否定する。そしてナットクしてなさそうなそらくんをごまかすために話を変える。
「えっと、な、なに? あ、おじいちゃん、退院した?」
「三日前に入院したばっかりで、そんなわけあるかよ」
 なんだかフキゲンだ。
 避けたことで怒らせちゃったのかな?
 と不安になっていると、そらくんはイライラと言った。
「じいちゃん、クッキー食べて『まだまだまーだぜんぜんだめだな!』だって! ムカつく~! あれ、メッチャクチャうまかっただろ? なっ!?」
「ええー!? あれ、ほめてもらえなかったの?」
 わたしはびっくりした。
 だって、おいしかったし、なにより初めてつくったんだよ?
 上出来だってほめてくれるものだと思ってた。
 うちのパパなんて泣きそうだったよ?
「じいちゃん、全部食べたくせにさあ、おれが『このクッキーで、店を救う!』って言ったら『こんなもの出されたら店がつぶれるから、さっさと退院するぞ』とか言うんだぜ? ムカつく~!!」
 ひどい! と一瞬思った。だけど、あれ? さっさと退院するぞ──って。
 あ、そらくん、クッキーはちゃんと役に立ってるよ!
「『退院する』って言ってるってことは……おじいちゃん、元気が出たってことじゃないのかな?」
 そう言うとそらくんははっとしたような顔になった。
「そっか! そうだな!」
 そらくんは、ぱっと顔を輝かせたあとすぐに首をかしげた。
「あれ? じゃあおれ、上手くならないほうがいいってことか?」
 わたしは笑って首を横に振った。
「それはないよ。だって、全部食べたんだよね? おじいちゃんさ……たぶん、そらくんがお菓子作ってくれたことがうれしかったんだよ。だから、元気になったんだよ」
 きっとそうに決まってるよ!
 わたしが笑うと、そらくんもうれしそうに笑った。
「じゃあ、もっと元気になってもらわないとな! 次こそは、うまいって言ってもらうんだからな!」
 そらくんのおじいちゃんへの気持ちが伝わってきて、わたしはなんだかほっこりする。
 きっとおじいちゃんも、こんなそらくんを見てたらよろこぶんじゃないかな? まだまだがんばろうって思うんじゃないかな? よかった!
 わたしがのんびり「がんばってね」と言うと、そらくんはきょとんとした。
「何言ってんだ、佐々木も手伝ってくれないと」
「え?」
 今度はわたしがきょとんとする番だった。
「佐々木がいなかったら、あのクッキー、ゼッタイ作れなかったし! 手伝ってくれよ! たのむ、この通り!」
「大げさだよ! 大したことしてないし! だ、だいたい、なんでわたし?」
 他にお料理上手な女の子がたくさんいると思うんだけど。
 手を合わせて拝まれてあわあわするわたしに、そらくんはマジメな顔になって言った。
「佐々木がおれのこと笑わなかったからだよ」
「え……?」
「おれが菓子作りしてるって知ると、だいたいのヤツが『変』って言うんだよな。『女子みたい』で似合わないって。だから面倒になってさ。だれにも言わないようにしてたんだ。だけど佐々木は否定してくれたろ? 『変』じゃないって。おれ、あのとき、メッチャクチャ嬉しかったんだよな!」
 にっと笑うそらくんにどきんとする。そして急に親しみを感じた。だって、そらくんもわたしと同じ。『女子みたい』、『変』って言われて傷ついている。わたしとはぜんぜんちがうって思ってたのに。
 それなら……力になってあげたいな。
 うなずきかけたけど、一瞬ためらった。
「で、でも……わたし」
 学校でのことを思い出したからだ。
 あんなふうに話しかけられちゃったら、みんなになんて言われるかわからないし!
「あれ? 理花?」
 その声に、わたしはぎょっとする。あわてて振り向くとパパだった。大学で授業がないときはたまに早く帰ってくるんだ。
「あ、広瀬くんも! 昨日はクッキーありがとう! いやあ、娘の手作りクッキーが食べられるなんて幸せで涙が出ちゃったよ」
 パパ! ちょっとは親ばかを隠して! 恥ずかしいってば!
 だけどそらくんは笑ったりせずに、
「手伝ってもらったお礼です。すごく助かったんです。また作ったら食べてください! 次はケーキにする予定なんです! なっ?」
 と目をキラキラさせている。
 ケーキ!? ムズカシすぎない!?
 そ、それに、いつの間にかわたしも作る予定になってる!?
「ケーキだって!? 理花? そうなのか?」
 パパの目は、期待でギラギラしている。
 う、うわあ、これは、断ったらパパがあばれちゃうかも!
「え、ええと……うん」
 わたしは二人のキラキラとギラギラの目のハクリョクに、ついうなずいてしまった。すると、二人ともにっこり笑った。
「楽しみにしてるよ! あと、広瀬くん、理花と仲良くしてくれてありがとう!」
 パパが嬉しそうに家の方に歩いていく。
 そらくんは「じゃあ、佐々木、行こうか」と右の道──フルールの方を指さした。
「今度こそ、じいちゃんに合格もらえるように、特訓だ!」

7 ホットケーキで猛特訓

「そらくん、考え直して。どう考えてもムリだよ」
 家にランドセルを置いてからフルールに行くと、そらくんは準備にとりかかっていた。そんなそらくんに、わたしは説得をはじめる。
 もちろん気持ちはわかるよ?
 早く上達して、おじいちゃんの弟子になりたいって。大事なお店を守りたいって!
 だけどね。
 だからって、急にケーキは作れないと思うんだ!
 カンタンって言われているクッキーでもあれだけ手ごわかったんだから。
「大丈夫だって! カンタンなケーキだってあるだろ?」
 そらくんは言うけれど、カンタンなケーキなんて聞いたことない!
 わたしはそらくんをどうナットクさせようかと考える。
 だけど、そらくんが自信満々で提案したのは、わたしもよく知っているケーキだった。
「ホットケーキだ!」
 そらくんは胸を張った。
「ふわふわのホットケーキ、今、専門店ができるくらいに人気だし、クリームをのせたりしたら普通のケーキくらいにおいしいんだ。じいちゃんに一回作ってもらったらメチャクチャおいしかった」
「……いいと思う!」
 ホットケーキなら、なんだかできそうな気がした。だってママがたまに作ってくれるから。
 だけど……ふと不安になった。
「たしか、ホットケーキミックスっていうのがあるよね」
 ママはいつも市販のミックスを使っている。
 卵と牛乳とそれをまぜて焼くだけというものだ。
 だから何が入っているのかはよく知らないんだけど、そんなのケーキ屋さんで使うかな?
「そんなものはここにはない。なんたってケーキ屋だからな。ミックスにはたよらない!」
 やっぱり! イヤな予感は当たってしまう。でも、そらくんは誇らしげだ。
「じゃあ、作り方は?」
「じいちゃんの頭の中」
 またか! わたしはため息をつく。
 するとそらくんは苦笑いをして「ちょっとまってて」とタブレットを取り出す。
「今日はまだ一回も使ってないから、時間はたっぷりあるんだ」
 そらくんはにっと笑うとタブレットを操作し始める。慣れた感じだった。
「えーと。ホットケーキ、ミックスなし、っと」
 検索すると、ホットケーキの作り方が出てきてホッとする。
 うん。このレシピ、ミックスは使っていない。
「小麦粉と砂糖とベーキングパウダー、それから卵と牛乳」
 材料をそらくんが探すとすぐに見つかった。だけど、
「ベーキングパウダーってなんだろ?」
 ベーキングパウダーの缶を見ながらそらくんは首をかしげた。
 もう一度タブレットを使ってベーキングパウダーを調べる。すると説明書きがあった。
 それを読みながらわたしはつぶやいた。
「重曹のことみたい」
「呼び名のちがいかな、英語だとそうとか?」
 わたしは説明を読み進める。
「えーっと、……ああ、入ってるものがちょっとちがうみたい」
 そこには泡の発生を助ける成分が入っていると書いてあった。
 それを見たわたしは、なにか役に立つかもと思って持ってきていた実験ノートを開く。
 なんだか見覚えのある言葉があった気がしたのだ。
 そうだ。たしか、サイダーの実験のページ!
『熱を加えることや、泡の発生を助ける成分をまぜることで、ものをふくらませるという作用があります』
 続きにはこう書いてある。
『泡の発生を助ける成分をまぜると、熱を加えるだけより、たくさんふくらみます』
 サイダーを作ったとき、重曹とレモン果汁をまぜると、すぐにシュワシュワとした泡がたくさん出た。つまり、レモン果汁が泡の発生を助ける成分ってことかな。
 でも、重曹を使ったクッキーの材料にはレモン果汁みたいなものは入っていなかったよね? まぜてるときに泡も出なかったし。
 ってことは、あれは『熱』でできた泡をつかったんだ。
 クッキーは『サクサク』でふんわりふくらんでないから、きっと焼いたときの『熱』で出た泡くらいでちょうどよかったんだと思う。
 でも、今度のホットケーキは『ふわふわ』でいっぱいふくらませないといけない。
 だからサイダーみたいにたくさん泡が出るように、発生を助ける成分が入ったベーキングパウダーを使うんだ、きっと。
 おんなじ重曹を使うにしても、いろんな使い道があるんだな……。
「ベーキングパウダーには泡をたくさん出すものが一緒に入ってるんだ。だからふわふわのお菓子にはこっちを使うみたい」
 考えたことをまとめて口にすると、
「へえ……なるほど……っていうか佐々木、やっぱすげえな」
 そらくんは感心したようにわたしを見る。大きな目がキラキラしていてまぶしいくらいだった。
「そ、そんなことないよ」
 なんだか恥ずかしくて、わたしは作業をしてごまかした。
 小麦粉80g、ベーキングパウダー3g、砂糖20g。
 卵が1個に牛乳60ml。
 二人で書かれている量を正確に量る。そしてボウルに入れてまぜていく。
「さあ、焼こう!」
 そらくんはさっそく言った。
 ええと──とわたしは次にどうするのかをたしかめるため、タブレットの説明に目を落とす。
「フライパンを熱して油をひいて」
 順に読むと、ふむふむとそらくんがフライパンをコンロの上にのせて、火をつけた。
 ちちちち、と音がしてぼっと青い火がつく。
「あっ、そらくん、火、大きすぎるかも」
「早く焼けたほうがいいだろ」
 そらくんってちょっとせっかちかも!
「こげちゃうよ」
「そっか」
 だけど素直なんだよね。だから憎めないなって思う。
 そういうそらくんだからみんな、そらくんを好きなんだろうな……。
 わたしもそういうところがいいなって思うし……。
 と考えかけたわたしは一瞬で真っ赤になる。
 な、なに考えてるのわたし!
 一人でドキドキしている間に、そらくんは油をたらして、すぐに生地を鉄のフライパンに広げてしまった。
 ちょっとまって! そこはまだ説明してないよ!
「そらくん! ちょっとまって! まだ油が広がってなかったよ!?」
「そっか?」
 そらくんは全く気にしない。
 わあ、そらくんっておおざっぱ!!
 たしか油って、フライパンに材料がくっつかないようにするために入れるんじゃなかったっけ!? ママがそれでよくフライパンをこがしちゃってた気がする!
 イヤな予感がするわたしの前で、さらにそらくんはホットケーキをフライ返しでひっくり返そうとする。
 ちょ、ちょっとまって! まだ入れたばっかりでドロドロだよ!?
「そ、そらくん! まだ早いと思うよ! 表面がプツプツしてきてからって書いてある!」
 そう言うとそらくんはピタッと手を止めた。
 なんとかブレーキ成功!
 だけど、そらくんはじれた様子だ。
「なかなか焼けないな……」
 じっとタイマーを見つめていたけれど、やがてがまんできないとでも言うようにそっと火を大きくした。
「これ、火が弱すぎるんじゃないかな」
「だめだよ。そらくん、弱火って書いてあるし!」
「だいじょーぶ、だいじょーぶ! ちょっとだけだし」
 そう言うとそらくんはさらに火を強める。不安だけど、どのくらいの大きさが弱火なのかとかはどこにも書いていなかった。
 見ているとだんだんぽつぽつができて表面が乾いてきた。ん……、なんだかこげくさい?
「そろそろいいかな」
 そう言うと、フライ返しでそらくんは、えいやっと思いきりひっくり返した。
 だけど生地がフライパンにこびりついていて、半分はうまくはがれなかった。上の生焼けの部分だけがフライ返しにくっついた。
 あああ、やっぱり! 油がないところに生地がくっついちゃったんだ!
「うわ、くっついた! なんで!?」
 そらくんはそれをごりごりとむりやりにはがしてひっくり返した。
 焼けた面を見ると、こげ茶色になっている。
 あ、やっぱりちょっと色がつきすぎてる!
 そらくんは「やっべえ、ちょっとこげた」と言いながらフライ返しで形を整えた。
 半分にやぶれたケーキの間からどろっと生焼けの生地がのぞいている。
 ああ、なんかこれ、どう見ても失敗っぽいんだけど……!
「あれっ、なんか焼けてない?」
 だけどそらくんはあきらめない。ドロドロの部分をフライ返しでぎゅうぎゅうとフライパンに押し付けはじめた。
 ハラハラと見守るわたしの前で、そらくんはさらに火を強めた。
 あああああ、なんかもうこれはトドメかも!
 そして。イヤな予感は見事に的中してしまう。
「ああ………」
 表面は真っ黒。中はベチョベチョで生焼けのホットケーキができてしまったんだ。

「これじゃあ、とてもじゃないけど、じいちゃんのところに行けないな……っておれ、やっぱり向いてないのかも。『幻の菓子』どころじゃないよな」
 ケーキを前に、そらくんががっくりと肩を落としている。
 一緒に落ち込みたい気分だったけれど、わたしまで落ち込んじゃったら、そこで修業は終わっちゃう。
 こんな、失敗の原因もわからない中途半端な終わりは、ゼッタイ、イヤだ。
 胸の奥でメラメラと気持ちが燃え上がる。
「……失敗した理由を考えてみたらいいかも」
「理由?」
「手順、ちがったところがあったよね」
「んー? そうだっけ? 佐々木の説明のとおりだったと思うけど」
 どうも覚えがないようだ。
 わたしは思い出しながら口を開く。
「まずフライパンに油が広がる前に生地を入れたよね? だからくっついたんだと思う」
「……」
 むう、とそらくんはむずかしい顔をした。
「それから、火加減。強火だったからこげちゃったんだよ」
「……オーブンだと温度設定できるんだけどなあ」
「弱火と中火と強火があるみたいだから、気をつけよう? 弱火って書いてあるから、たぶんじっくり焼けばちゃんとできるはずだし、まだ材料は残ってるから、もう一回やってみようよ? わたしも今度は先にじっくりレシピ読んでから、前もって説明するね」
 励ますと、そらくんはにっと笑った。
「そうだな。まだ材料はあるし……今度こそうまく作ってみせる!」
 そらくんの切り替えの速さがうらやましい。
 ふと思い出した。
 そらくんが運動会のリレーで転んだときのこと。
 そらくんが起き上がったときには、他の子はずいぶん先に行ってしまってて、ゼッタイゼツメイってみんな思ってた。
 だけどそらくんだけは、負けるもんかって、顔を上げてぐいぐいと走り出して。最後には前を走る子に追いついた。
 あのときのそらくん、すごくかっこよかったんだ。
「佐々木?」
 不思議そうに呼ばれてハッとした。
 ちょっと見とれてしまっていたみたい。恥ずかしくなったわたしはあわてて言った。
「え、えっと、じゃあ最初から!」
 手順は最初に戻る。材料を量るところからだ。
 そらくんが計量カップを手に持って牛乳を量り始めたので、わたしはその間に卵を割ることにする。
 さっきそらくんがすごくカンタンにやってたから、できるかなって思ったんだ。
 でも、ドキドキだ。わたし、家でのお手伝いはあんまりしてなくって、せいぜい、野菜を洗ったりするくらいなんだ。
 真似して、コンコン、と恐る恐る卵をテーブルに打ち付けると、小さなヒビが入った。
 え、えっと。これを……半分にする感じ?
 指に力を入れると、卵の殻がぐしゃっとつぶれる。
「わっ」
 殻が入っちゃう! あわてると、そらくんがわたしの手の中のつぶれた卵をとった。
「思い切ってやるのがコツかも。ヒビを入れるときも、割るときも」
 つぶれた面を上にすると、そらくんは割れ目に両手の親指を当てる。そして殻をぱかっと左右にかるく開く。すると、ボウルの中に卵がするんと流れ落ちた。
「そ、そらくん、上手だね……」
「おれもよくつぶしてたんだけどさ。かなり練習したんだ」
 そらくんはにっと笑う。

 自主練してるってそういえば言ってた。こういう練習だったんだ。
 すごい! かっこいい……!
 感心しながら、さらに砂糖と牛乳と粉を入れてかきまぜる。
 いち、に、さん、し。
 ときどき粉が飛び散る様子を見ていると、ふと思い出した。
 昔パパに読んでもらったなあ、《しろくまちゃんのほっとけーき》っていう絵本。
 思い出しながら、10回まぜるとだんだん粉が卵と牛乳と溶け合った。
 20回で、クリームみたいになってくるけれど、まだ小麦粉のカタマリが残っている。
 あー、ボウルは重いし……なんだかうでが疲れてきちゃったよ!
 でも、あとちょっと! ……と30回まぜたら、やっとカタマリがほとんど溶けてなくなった。
「じゃあ火加減に注意して……」
 油をひいてぬれぶきんで冷ましたフライパンに、お玉を使って生地を流し込む。
 まあるいクリーム色の円ができる。
 じっくり、じっくり、とわたしとそらくんは静かにまつ。
 するとぽつぽつと泡が表面に浮かんできた。
 頭の中にまた絵本の絵が思い浮かぶ。
 あざやかなオレンジ色の表紙で、中ではしろくまの親子がホットケーキを焼いている。
「ねえ、『しろくまちゃんのほっとけーき』って本、知ってる?」
 わたしがたずねると、そらくんはうなずいた。
「じいちゃんが読んでくれたんだよな。あれと、あとは『ぐりとぐら』のカステラのおかげで、菓子を作りたくてしょうがなくってさ。けどじいちゃん、まだ早いって手伝いさせてくれなかったんだ。でも、メッチャうまかった……なんか思い出したら早く食べたくなってきたな」
 ぽつぽつがたくさんできてきたところでひっくり返すと書いてある。
 だけどまだ表面は生焼けでどろっとしている。
「これ、ひっくり返すのってむずかしいよね……」
 さっきの失敗を思い出してしまう。
 びくびくしていたけど、
「次はうまくいく。まかせとけって!」
 そう言うとそらくんはフライ返しをかまえて、ケーキの下に差し込んだ。
「たしか、じいちゃんは、こうやって……っと」
 そしてフライ返しをふわっと持ち上げるようにすると、そのままくるりと半回転。
「えいっ」
 ホットケーキはきれいに裏返って、ちゃんと焦げ目が上にきた。
「すごい! 上手!」
 思わず言うと、「じいちゃんの見てたからだな!」とそらくんは得意そうだ。
 でも、そういうのって見てただけでできるものなの!? じつはすごく才能あるんじゃないかなって思う。
「これから2分くらい弱火で焼いたらいいみたい」
 タイマーをかけるとあとはまつだけ。
 ようやくちょっと肩の力がぬけた。
 そしてタイマーが鳴り、わたしとそらくんはお皿にケーキをのせる。
 見た目は、さっきとは比べ物にならないくらいにおいしそう。
 きっと大丈夫だ!
 期待に胸をふくらませ、わたしたちは一口ずつ一緒に口に入れた。
「おいし、い?」
「おいしいよね!」

 二人で顔を見合わせる。口の中が甘いにおいでいっぱいになる。
 うん、今度はちゃんとホットケーキの味がする!
 あんまりおいしくて、あとちょうどおやつタイムでお腹が空いていたのもあって、ほとんど食べてしまったあと、
「よし! じゃあ次こそ、じいちゃんに持っていくやつ、作ろーぜ!」
 そらくんははりきって、ボウルに入れた材料をぐりぐりと勢いよくかきまぜる。わたしとちがってすごく速いし、手首を上手に使っているかんじで、なんだかプロっぽいと思った。
 100回はゼッタイ超えているのに、ぜんぜん疲れた様子がない。
 すごい。わたし20回で疲れちゃったのに! これも自主練してるってことなのかな?
 そらくんがわたしが感心するくらいたくさんまぜると、だんだん生地がもったりとしてきた。
 わたしは生地をさっきと同じようにフライパンに流し込んだ。
 同じように焼いてみる。
 弱火で表面にポツポツができるまでまって、ひっくり返す。
 だけど……あれ?
「…………ふくらまない?」
 裏を焼いていても、同じだった。
 さっきのケーキよりずいぶんぺったんこなケーキに仕上がってしまった。ケーキっていうより、おせんべいっぽい形だ。
「味はおいしいかも!」
 不安そうなそらくんを励ますように切り分ける。そしてそらくんと一緒に口に入れた。
 だけど、
「さっきとちがう……固い……もそもそしてる……え、なんで……?」
 そらくんがぼうぜんと言い、わたしも眉をひそめてだまりこむ。
 というのもケーキが固くて、のどに詰まる感じで、なかなか飲み込めなかったんだ。
「なにが、悪かった? さっきとおんなじだっただろ!? ……うわあ……さっきのじいちゃんに持っていけばよかった」
 がっくりと肩を落としたそらくんをどう励まそうと思っていると、外でチャイムが鳴った。七つの子のメロディは、日が暮れたから帰りなさいっていう合図だった。
 ああ、でも、このままのそらくんを置いて行きたくない!
「そらくん、元気だして」
 必死で励ますと、そらくんが顔を少しだけ上げる。その顔はまだ曇り空。だけど、わたしには、そらくんが上を見て、立ち上がろうとしているように見えた。
 うん。もうちょっとだ、もうちょっとでまた立ち上がってくれる気がする! 笑ってくれる気がする! あのリレーのときみたいに!
「失敗は成功の元だよ。もう一回、挑戦しよう?」
 そらくんの口元にふっ、と小さな笑みが浮かんだ。
 ああ、やっぱり!
「そうだな! ……でも──挑戦って、なにをどうやって?」
「手順にまだおかしなところがあったんだと思う。だから、もう一回《ケンショウ》だよ」
 実験が失敗するとパパはよくそう言ったのだった。
 そしてさらに言った。
 まちがいから新しい発見があるんだって。
 そらくんの笑顔をもっと大きくしたくて、思わず力が入ると、
「ケンショウって、なんかむずかしい言葉使うんだな」
 そらくんが言って、わたしははっとした。
 ああ! 変なやつって思われる!
 だけどそらくんは「はははっ」と、いつものように晴れた青空みたいに笑って言ったんだ。
「佐々木って、面白いな!」
 面白い? 初めて言われたかも。もしかしたらバカにされるかもって構えていたから、ちょっとびっくりする。
「そ、そうかな?」
 そらくんはうなずくと「あと、強いな。……ありがと」と少し照れたように笑う。
 強い? それも初めて言われたし、強いのはそらくんの方だと思ってたからおどろく。
 なんだか気恥ずかしくなりながらも、そらくんの笑顔がもどったことに、わたしはすごくホッとした。

8 ものを比べる方法

 一回目の黒こげケーキと、二回目の成功したケーキのかけら、最後の固いケーキを半分。
 それぞれ持ち帰ったわたしは、お皿の上にのせてじっと見つめてため息をついた。
「何がおかしかったのかなあ」
 一回目の失敗は、火加減がだめだったのは明らかだったけど、問題は三回目だ。
 おんなじように作ったのにどうして失敗したのか、まるでわからなかった。
「理花、どうしたの?」
 ママがふしぎそうにたずねる。
「そらくんとホットケーキを作ったんだけど、どうして失敗したのかわかんないの。ママ、わかる?」
「ママにわかるわけないわよ~!」
 ママはカラッと笑って言った。そこ、胸を張って言うところじゃないと思うんだけどな!
「パパは?」
「今日は遅くなるって」
「えぇ?」
 返ってきた言葉にがっかりする。
「メールでも書いてみたら?」
 ママに言われてノートパソコンを開いた。パパはわたしがいつでも使えるようにしてくれているのだ。
『ホットケーキが固くなるのはどうして?』
 というタイトルでメールを書き始める。
 ちゃんと説明をしないとパパも意味がわからないだろうな。そう思って、今日あった出来事をカンタンに書いてみる。
 黒こげのホットケーキ。成功したホットケーキ。そしてなぜか失敗したホットケーキ。
 手順は黒こげのケーキ以外はまちがっていないはずなのに、ぜんぜんちがうケーキができてしまったこと。
 メールを書き終わると送信する。
 ぱたん、とノートパソコンを閉じると、ママが待っていたように声をかけた。
「理花、夕ご飯は焼きそばにするから、もやし洗って! 根っこを取って!」
 ええー、メンドウクサイ──って言葉をのみこむ。今日のそらくんを見たら、もうちょっとお手伝い、がんばろうかなって思っちゃったんだ。
 だってあんなにきれいに卵を割れたら、かっこいいよね!?
「……はぁい!」
 そう返事をすると、ママは目を丸くした。
「あら、いい返事!」
 キッチンに行ってザルに入れたもやしを洗う。
 もやしの根っこを取ったほうがおいしくなるらしいけど、面倒くさがりやのママはあんまりやりたがらないのだ。
 って、わたしもそんなに好きじゃないけど……がんばらなくっちゃ!
 ぷつぷつと根っこを取っていると、ふと思い出す。
 そういえばパパともやしを育てたことがあったなって。
 暗いところと明るいところで育ててチガイを調べたんだけど、暗いところじゃないと『もやし』みたいにならなかったんだ。
 原因は太陽の光。光が当たると、葉っぱが緑色になって伸びすぎちゃう……って……あれ?
 そのときのことを思い出したわたしは、あることをひらめいた。
「そうだ! チガイを調べるためには比べるんだ!」
 わたしは超特急で残りのもやしの根っこを取ると、自分の部屋に行く。
 そして実験ノートを開いた。もやしの実験のところを開くと、表がかいてあった。
「表!」
 そうだ、比べるときには表をかく! パパが言ってた!
 わたしはそのまま勉強机の椅子に座るとノートをめくる。そして真っ白なページを見つけると、一番上に鉛筆で「ホットケーキが固くなるのはなんで?」とタイトルを書く。
 そして少し考えてから、タイトルの下に『手順』、『一回目』、『二回目』、『三回目』、『ちがい』と書いた。
 うーん、だけど一回目は明らかな失敗だったから、まぜるとわかりにくくなるかも。
 そう思ったわたしは一回目の文字を消す。今調べなければいけないのは『二回目』と『三回目』のチガイだから。
 定規を使って間に三本のたて線を引いていく。
 すると四列の表ができあがった。
 手順の欄にホットケーキの作り方を一つ一つ書き込んでいく。
 まず『分量を量る』。量ったのはそらくんだけど量はわたしもいっしょに確認した。
『二回目』、『三回目』の欄に「そらくん、理花」、『ちがい』に「なし」と書き込む。
 次は『材料をまぜる』。『二回目』には「理花」。『三回目』の欄には「そらくん」と書いたとたん、はっとした。
「あ!」

 全部おんなじだって思ってたけど、ここはちがう!
 興奮しながら、そのまま次の手順で表を埋めていく。
 だけどあとの手順にチガイはない。わたしは『そらくん』という文字を指差した。
「ってことは……ケーキが固くなったのってこれのせい?」


 次の日、わたしは少し早めに学校に行くと、そらくんの靴箱にこっそりと手紙を入れた。

『失敗の原因について気づいたことがあるんだけど、学校じゃ話しづらいから、今日の放課後、フルールに行って大丈夫かな? 佐々木理花』

 なんだかすごく大胆なことをしている気分だった。靴箱に手紙とかって、な、なんていうか、ら、ラブレターみたいだし!
 だけど直接話しかけるのはやっぱり人の目が気になってしまうんだ。
 ドキドキしながらそらくんの登校をまつ。そらくんは気づいたらしく、わたしを見ると大きくうなずいた。
 ホッとしたわたしは放課後をまってフルールへと向かった。
 そらくんはすでに準備完了していた。早く早くと急かされてわたしはエプロンを着けた。
「あのね、昨日とおんなじように作ってみようと思うんだ」
「え、答えわかったんじゃないの?」
 そらくんはじれた様子だ。だけどわたしは首を横に振った。
「まだわたしがそうじゃないかなって予想しているだけ。だからちゃんと正解かどうかたしかめたいんだ」
「《ケンショウ》ってやつか」
 そらくんは苦笑いしながらも「わかった」とうなずいた。
「じゃあやるか」
 まず道具を用意する。ボウルに泡立て器、秤に計量スプーン。それからフライパンとフライ返しをそれぞれ二つずつ。
 二つずつにしたのは、一緒にやったほうがチガイがわかりやすいからだ。
 それから昨日と同じように小麦粉、砂糖、ベーキングパウダー、牛乳を量る。
「まず、量った粉類をまぜ合わせて、ふるいにかける。そして、卵と砂糖と牛乳とまぜるんだけど……」
 わたしはそらくんに、同じ材料の入ったボウルを手渡しながら言った。
「今日は比べるために、同時にまぜてみたいんだ。昨日と同じくらいでお願いできる?」
 そらくんはうなずくと泡立て器を構えた。
「せーの!」
 そらくんはすごくきれいな手付きで、生地をまぜている。
 だけどわたしはやっぱり途中で疲れちゃって、粉が溶けて消えるくらいで手を止めた。
 昨日と同じくらいで、30回がせいいっぱい。
「おれ、200回まぜた!」
 おでこに汗をかいて、自信満々なドヤ顔をするそらくん。
 わたしの回数とそらくんの回数を次のページに書き込む。
 三列の表を作り、一番上の列には『作る人』『そら』『理花』、二列目は『まぜる回数』『200』『30』と書いた。
「じゃあ次。焼くぞ~!」
 そらくんが張り切る。
 わたしはフライパンをコンロにのせながら言った。
「火の強さも同じにしよう。昨日と同じ火加減にしないと、何が原因なのかわからなくなっちゃうから」
 そう言って同時に火をつける。そして炎の大きさを同じにそろえた。
「徹底してるな、すごい」
 わたしはちょっと恥ずかしかったけれどうれしくなる。
 こんなふうにほめられることってあんまりないから。
 一緒にフライパンに油をひく。
 温まったところで生地を流し込む。
 二回目、成功したときと同じように進めていると、やがて表面にぽつぽつが現れる。
 ふと気がつく。
 同時に二枚ひっくり返すのはムズカシイので今度はわたしもチャレンジしないといけないってこと!
「そ、そらくん、わたし、ひっくり返すのはできないかも!」
 きっと大惨事だ!
 そう言うと、そらくんはちょっと考えてフライパンのふたを二つ出してきた。
「これならいける! おれ、最初はこれでやってた」
 言われてわたしははっとした。ママがオムレツなどをひっくり返すのがニガテでやる方法だ!
 そらくんがやるのを見ながら、フライパンを斜めにする。
 ホットケーキをすべらせて、焼けた面を下にしたままふたにのせる。
 そしてホットケーキをのせたふたにフライパンをかぶせる。
 ママがやるのは見たことがある。だけどいざとなるとドキドキする。
「せーの! えいっ!」
 同時にフライパンとふたをひっくり返すと、焼けていない面がきれいに下になった。
 やった! できた!
 心の底からホッとする。あとは裏側が焼けるのを待つだけだ。
「うーん?」
 そらくんが二つのホットケーキをにらんで唸りはじめた。
「うそだろ?」
 どうやらそらくんも失敗の原因に気がついたみたいだ。
 だけど食べてみないと完全にはわからないし。
 焼けるのを待って、わたしとそらくんは二つのケーキにかぶりついた。
 一つはふっくら。
 もう一つはあんまりふくらまず、固いホットケーキだった。
「うわああ……まじで!?」
 そらくんが頭を抱えた。
「なんだよー、じゃあ、『ホットケーキが固くなる事件』の犯人って、おれじゃん!」

 チャイムが鳴り、時間切れとなる。
 そらくんはちょっとがっかりしていたけれど、「もう一回やる!」と言って材料を量りはじめた。そして、わたしにむかって、
「あとは一人で大丈夫! 今日はありがとな!」
 とガッツポーズをした。
 そんなそらくんに「頑張ってね!」と言うと、わたしは家に帰る。
 なんだか足元がふわふわとしている。気を抜くとスキップを始めてしまいそう。ケンショウが成功したからかもしれない。
 だけどそらくんがひっそりつぶやいた言葉が耳によみがえって、ふわふわした足を地面に引き戻した。

『原因はまぜる回数だってわかったけど……どうしてそうなったんだろ?』

 家に帰るとパソコンを開く。
 いつもみたいに検索をしようとしたけれど、何をどう調べたらいいのかわからなくて、「だめだぁ」とわたしは音を上げる。
 そういえばパパからのメールの返事もない。
「ママー、パパは?」
「今日も遅いって。ほら、もうすぐ学会だから」
 学会っていうのは、日本中、世界中の研究者たちが集まって自分の研究について発表するイベントのことだ。年に何回もあるんだけど、そのたびにパパは忙しそうだ。
 あーあ。しょうがないけど困ったなあ。
 そう思いながら部屋に入ると、机の上に一冊の本が置いてあった。
 あれ? いつの間に?
 本は開かれていて、真ん中にちいさなメモ紙が挟んである。
 そこには『分子模型』という絵が描かれていた。ぐるぐる巻きのばねみたいな絵の下にはグルテンと書いてある。
 これ、なんだろう? ちゃんと読もうと椅子に腰掛ける。
 するとある一文が目に飛び込んできた。
『小麦粉には、グルテニンとグリアジンという物質が含まれている』
 小麦粉っていう言葉がなんとなく気になって続きを読む。
『その二つは、水と混ざると互いにくっつきあってグルテンという弾力のある別の物質を作る。こねればこねるほどグルテンが形成され、弾力が増し……』
 ちょっとかたくるしい説明が続く。言葉がムズカシくて頭に入ってこなくて、わたしが休憩を入れたとき、一枚の写真が目に入った。
 小麦粉をこねて作ったグルテンを、両手で左右に引っ張っているという写真だ。
 そのネバネバ具合がなにかに似てる、と思ったわたしは答えに気がついた。
「これ……ゴムみたい……って、あれ?」
 わたしははっとする。
 これ、パパからのメールの返事だ!
 わたしの質問、「ホットケーキが固くなるのはどうして?」についての答え。
 わかった。パパ、わたし、わかったかも!
 よろこびが一気にこみ上げてくるのがわかる。
「そっか。ネバネバができすぎたから、ケーキがふくらみきれなかったんだ!」
 ホットケーキに入っている小麦粉をたくさんこねると、生地はゴムみたいになっちゃう。
 ゴムって、引っ張るとその分伸びるけど、元の形に戻ろうとするよね?
 だから、ゴムみたいな生地だと、せっかくガスを発生させても元に戻るちからに負けてふくらまない。だから固くなるんだ!
 すごい、すごい!!
 やっぱりどんな失敗にもちゃんと理由があるんだ!
 自分でたどり着いた答えにわたしは興奮する。
 思わず本を持ち上げたわたしだったけれど……本の表紙に書かれている文字を見て一気にユウウツな気持ちになった。
 そこには、
『料理の科学事典』
 と書かれていたのだ。
「科学……」
 料理だからと安心しきってふくらんでいたわたしの気持ちは、急にしゅるしゅるとちぢまってしまった。
 とたんに、『変わってるよね』という言葉が浮かび上がって、耳の中でうわんうわんと鳴り始める。
「ちがうよ。これは料理だよ。お菓子作りだから!」
 自分に言い聞かせて、変という言葉を消そうとする。
「料理、料理だから」
 耳をふさいで、そう言い続けていると、声は小さくなったけれど……。
 だけど完全に消えてしまうことはなかったんだ。

9 女子の憧れ、ゆりちゃん

 寝不足で目がしぱしぱする……。
 料理と科学についていろいろ考えていたら、あんまり眠れなかったんだ。
 昇降口の靴箱の前でふわああ、とわたしが大きなあくびをしたときだった。
「理花! おはよう!」
 その声を聞いて、わたしはびっくりして一気に目が覚めた。
 だって男の子の声だ。
 今まで男の子でわたしのことを名前で呼ぶ子はいなかった。だけどたった一人だけ、思い当たる男の子がいた。
 でも……まさか……。
 恐る恐る振り向くと、そこにはそらくんがニコニコ顔で立っていた。
 ひゃっ! うそ!
 そらくん、今、わたしのこと、名前で呼んだ!? 聞き間ちがいじゃない、よね?
「お、おはよう」
 急接近したみたいに思えて、ドキドキするよ!
 わたしがあわあわと挨拶を返していると、他の子が続々と入ってきたけれど、その中のひとりを見てわたしは固まった。
『ゆりちゃん』が立っていたのだ。
 慌ただしく靴を履き替えるそらくんには、いろんな子が声をかけていく。
「そら~、今日帰ってから遊ばねー?」
「んー、用事ある!」
「なんか、この頃、用事多くねえ? 新作ゲーム買ったんだぞ! おまえタブレット規制された~って文句言ってたくせに、やりたくねえの?」
「やりたいけど……ごめん! また今度な!」
 誘いは絶えない。そらくんはやっぱり人気者だ……ってそれどころじゃなかった!
 男の子たちがみんな行ってしまったあとも、ゆりちゃんは不思議そうに……それから少し不満そうにわたしのことを見つめていた。
「今の、なあに? そらくん、どうして理花ちゃんのこと名前で呼んだの?」
「な、なんでだろー? わかんない」
 わたしは笑ってごまかすと自分も教室へ向かおうとする。だけどゆりちゃんはわたしの後ろにぴったりとついてきた。

 ゆりちゃん──金子ゆりちゃんはうちの近所の子で、よく遊んでいた子だった。
 カワイイものが大好きで、本人もお人形みたいにカワイイ。
 今日も耳の横で二つに結った柔らかそうなくせっ毛がくるくるしている。
 ゴムはお花の飾りがついている。
 パステルカラーのボーダーニットに、白いスカート。淡い紫色のハイソックス。
 とても女の子らしい女の子で、クラスの中心人物って言っていいのかな。女子はみんな憧れてる。
 女の子はかわいくないといけないって、ゆりちゃんを見てると思わされてしまうんだ。
 でも……。
『それが宝物? 理花ちゃんって変わってるよね……虫とか好きなのって男の子みたい』
 ゆりちゃんを見ていると、昔と同じことを言われている気がしてくる。
 そう。わたしを変だって言ったのはゆりちゃんだった。
 悪気はなかったんだと思う。
 だけど、それ以来、ちょっとニガテ意識があって……。
 仲が悪いわけじゃないけど……わたしのなかでは少しキョリができてしまっている。
「理花ちゃんって、そらくんとなにかあったの? このごろ仲良さそう」
 ゆりちゃんはやんわりと追及してくる。くるんとしたまつげはカワイイけれど、目がちょっと怖い気がする。
 たぶん、気のせいじゃない。
 ゆりちゃんはそらくんのこと、好きって言ってたから。
 いや、きっとほとんどの女の子がそらくんのことが好きなんだと思う。
 その気持ちはよくわかる。
 だってそらくんって、ただ顔がかっこいいだけじゃなかった。
 お菓子作りを通して、そらくんの色んな面を見てしまったけれど、一つ一つを思い出すとかあっと頬が赤らむのがわかる。
 卵を割るのが上手なところとか。
 実はちょっとおおざっぱなところとか。
 失敗したら落ち込んじゃうところとか。だけど、すぐに立ち直るところとか。
 そして……すごくおじいちゃん想いで、強くて大きな夢を持っていることとか。
 学校では見られないそらくんをいっぱい見た気がする。いいところも悪いところもいっぱい知った気がする。
 たぶん、みんながそれを知ったらずるいって言うくらいに。
 そう考えると急に怖くなってしまってウソをついた。
「な、なんにもないよ。そらくんはだれとでも仲良くするタイプだからじゃないかな……」
 とてもじゃないけど二人でケーキを作ってたなんて言えるわけがない!
 うん、このことはナイショにしておいたほうが良さそうだ。
 だってお菓子作りは偶然が重なっただけだし、もう終わったことだし。
 知られたら、どうして理花ちゃんなんかと? って言われるに決まってる。
 あ、そらくんにも名前で呼んだりしないでって言っておかないと。
 ま、万が一、つ、つきあってるとか──、変なふうにゴカイされてしまったら、そらくんにめいわくかけちゃうし!
 そんな事を考えていたら、
「理花! あのさ! ちょっと相談が──」
 戻ってきたそらくんがひょっこり顔を出した。わたしはぎゃっと飛び上がりそうになる。
「相談? 理花ちゃんに?」
 じとっとしたゆりちゃんの視線が痛すぎる!
 ピリピリした空気がただよう。
 まずい!
「そ、相談とかわたしなんかじゃムリだよ!」
 わたしは叫ぶと、たまらずトイレへとダッシュした!
「あ、おい、理花!?」
 だから、佐々木だよ~っ!
 振り返ることもせずにわたしはひたすら走った。
 ああもう! そらくんって、もしかして、空気が読めないの!?

10 おじいちゃんの課題

 休み時間をなんとか乗り切っての放課後。
 そらくんがいないのを確認してわたしは家へ向かって急ぎ足だ。
 だけどフルールへの分かれ道の桜の木を見たとたん、すごーくイヤな予感がした。
 ま、まえ、ここでまってたことあったけど……。
「──りーかー!」
 うわあああ! いた!!
 思わず後ずさりをすると、そらくんは必死な顔で言った。
「なんでおれのこと避けてるんだよ! なんかしたか、おれ!?」
「な、なんにもしてない! なんにもしてないけど……っていうかなんで名前で呼ぶの!? ご、ゴカイされちゃうよ!?」
「ゴカイって何を? だれに?」
 あの冷たい空気に全く気づかなかったらしい。
 に、にぶい……!
「だ、だから、えっと、あの」
 ゆりちゃんに、つ、つきあってるとか思われたら、たいへんだし。
 恥ずかしくてうまく口に出せず、口の中でゴニョゴニョ言っていると、じれたのか、そらくんはぶうぶうと文句を言う。
「ていうか、理花だっておれのことそらくんって呼ぶじゃん」
「いや……それはみんなが呼んでるから」
「理花だっておまえのともだちに呼ばれてんじゃん」
「それは、えっと」
「おれたちってともだちだろー? ちがうの?」
 と、ともだち!? いつの間にか、そんなポジションをゲットしてたの、わたし!?
 ただのクラスメイトだったのに。一気にともだち!? え、いいの!?
 びっくりして言葉を失っていると、
「……ちがうのか?」
 そらくんがしょんぼりと眉を下げたのでわたしはあわてて言った。
「ち、ちがわない!」
「じゃあ、なんで? ……あ」
 そらくんは急にハッと目を見開いた。
「もしかして、菓子作りとか誘ったのって……めいわくだった?」
 そらくんが寂しそうな顔をする。
「め、めいわくなんかじゃないよ!」
 あわてて否定する。
「ただ……学校で話しかけられると……」
 わたしは自分の心の中を覗いて、気がついた。
 そっか。怖いんだ。わたしはたぶん、ゆりちゃんの目が、怖い。
『そらくん、どうして「変」な理花ちゃんと仲良くしてるの?』
 そう言われるのが怖いんだ。
 だけどゆりちゃんが悪いわけじゃない。ゆりちゃんは悪気があるわけじゃない。
 実際にわたしは『変』な女の子なんだろうし、それを正直に言っただけ。
 もやもやした気持ちを言葉にするのがむずかしくて、わたしはだまってうつむいた。
「学校で話すとなにかまずいわけ?」
 そらくんが一歩足を進めた。顔が近づいて胸がどくんと大きな音をたてる。
 一歩後ずさりをすると、そらくんは一歩近づく。きれいな顔が、眼力の強い目がすぐそばにやってきた。
 ひ、ひえっ、まただ! ちかい!
 どうしても顔が熱くなる。ひょっとしたら真っ赤になってるかもしれない。
 逃げ出したくなったけれど、体がカナシバリにあったみたいに動かなかった。
 そのとき、
「──おとうさん! 止まって!」
 大きな声が道にひびいた。そらくんがすごい勢いで振り向き、やっと解放されたわたしはほっと息をついた。
 だけど、
「じいちゃん!?」
 そらくんが大声を出しておどろく。
 え、おじいちゃん!?
 見ると道の向こうから、そらくんのおじいちゃんが片足を引きずるようにして歩いてきていた。
 きれいな女の人が、後ろからおじいちゃんの腕を引っ張っている。
「かあちゃん!?」
 よく見るとその女の人はそらくんのママだ。そらくんのママはわたしに気づくと、ふんわりとした笑顔を浮かべた。わあ、きれい! そらくんそっくり!
「あら、あなた──もしかして、佐々木理花ちゃん?」
「え、あ、ここここんにちは!」
 く、口が動かない~! しっかりして、わたし!
「いつもそらにつきあってくれてありがとう──っておとうさん!」
 挨拶をさえぎるようにおじいちゃんが歩き出す。
「そら! ちょっとおじいちゃんを止めて! 病院からダッソウしちゃったの!」
 おじいちゃんはそらくんのママを引きずるようにしてお店の方へと歩いていく。
 だ、ダッソウ!?
 わたしは目をむいた。
「だれもいないんだから、わしがやらんと店がつぶれるだろうが」
「だからといって、今ムリしたらまた倒れちゃうでしょ!? 心臓に負担がかかってるから、じっくり休んでからってお医者さんも言ってたじゃない!」
「店ってのは、な。休んだら、よどむ。さびれる。そして……つぶれるんだよ!」
「もう、ガンコなんだから~!! そらもおじいちゃんに言ってやって!」
 そらくんのママが言うと、そらくんはおじいちゃんの前に立ちふさがってとおせんぼをした。
 そして力強い声で言いはなった。
「だから、おれがいるって言ってんじゃん!」
 おじいちゃんは「そら、おまえ……」と一瞬目を見開く。
「おれ、おれ、パティシエになってみせるから! じいちゃんとばあちゃんの店はつぶさせないから! ──だから、じいちゃん、病院に戻ってくれよ!」
 おじいちゃんはびっくりしていたけれど、すぐに首を横に振った。
「そら、おまえ本気だったのか? 中途半端な覚悟じゃあやっていけない世界だぞ? わしだって何年もフランスで修業してようやくなれたんだ」
「覚悟ならある」
「クッキーもホットケーキもまだまだだったし」
「そ、それはこれから修業して……」
「算数も理科もできないくせにか?」
 うっとそらくんは言葉に詰まる。だけどすぐに顔を上げて、おじいちゃんをまっすぐに見つめた。
「算数と理科は、これから勉強するし! おれは……ゼッタイ、じいちゃんみたいなパティシエになるし、じいちゃんの力になってみせる。だから……じいちゃんは早く体を治してくれ! そしておれを弟子にしてくれ! おれ、ゼッタイ役に立つから!」
 そらくんは見たことがないくらいに真剣な顔だった。
 それを見ているとなんとかしないといけない気になった。
 だって、だって、そらくんはゼッタイに本気だし、すごくがんばってる!
「わたしからもお願いです! そらくん、おじいちゃんが倒れてから、毎日、すごくがんばってお菓子作りの練習してるんです!」
 思わずうったえると、おじいちゃんはびっくりしたようにわたしを見た。
 そして、ううむ、と小さくうなる。そして目をぐるりと回したあと、そらくんに向かって言った。
「じゃあ、本気かどうか証明してみろ」
「どうやって?」
 おじいちゃんは右手の指を四本立てた。
「四日後にテストをする。課題は、そうだな。カスタードコロネ。うちの一番人気の商品だ。それが作れないようなら、見込みなしだから諦めろ」

 テストというひびきに、そらくんはあからさまに顔をしかめた。
「でも、諦めろって、おれが諦めたら店を継ぐ人がいなくなるってことじゃん!」
「そんときは潔く店を畳むかな」
 おじいちゃんはひょうひょうと言った。
「え!?」
 そらくんのママとわたしは思わず声を上げた。だ、だって! 店を畳むって……やめちゃうってこと!?
「ちょっとおとうさん、そんなこと今決めてしまわなくっても……。お店やめたら、おかあさんが悲しむでしょう!?」
「フルールが悲しむもんか。あいつだって、中途半端なものを出すくらいなら、いっそやめたほうがマシだって言うに決まってる」
 ん? フルール? と気になりつつも、な、なんだか、大事になってきた! とわたしはドキドキする。
 つ、つまり、そらくんのテストの出来に、店の存続がかかってるってことだ!
 すごいプレッシャー! わたしだったらとてもたえられないよ……!
 だけどそらくんはおじいちゃんの目を見たまま力強くうなずいた。
「わかった。なにがなんでも作ってみせる!」
 おじいちゃんはふう、とため息をつくと、くるりとそらくんに背を向けて、
「ひとまず病院に戻る。あー、つかれた。もう歩けんぞ!」
 と言った。
「あーもう……タクシー捕まえるから大通りまでがんばって。そらもいらっしゃい」
 そらくんのママがぶうぶう言いながら、おじいちゃんを支えて歩き出した。
「理花、ごめん。また明日な」
 そう言うと、そらくんもついていく。
 騒ぎのせいか、そらくんはすっかりいつも通りだ。おじいちゃんが来るまでの話はなかったみたいなフンイキだった。
 答えにくいことだったからちょっとホッとする……けど、え、名前呼びはそのままなんだ!?
 でも呼び方に話を戻したらまた蒸し返すことになってしまう。
 うーん、それは困る……! と思っていると、そらくんが、ダッシュで戻ってきた。
 わ、なんだろ!?
 構えたわたしにそらくんは言った。
「理花、ごめんな。おれ、一方的に理花にたよりっぱなしでさ。そりゃ、話したくないって思うよな」
「え」
 ち、ちがうよ! そらくんのゴカイにわたしは大あわてだ。
「そ、そんなんじゃないよ! た、ただ、ちょっと恥ずかしかったっていうか」
 そう言うと、そらくんはちょっとだけホッとしたみたいだった。
「あのさ。おれのカンチガイじゃなかったら、菓子作ってるとき、理花、すごく楽しそうに見えたんだけど……ちがった?」
「ち、ちがわない!」
 とっさにそう答えてわたしは気がついた。
 ここ数日、わたし、そらくんとお菓子が作れて、すごく、すごく楽しかった!
 わたしがぶんぶんと首を横に振ると、そらくんは「よかった!」と嬉しそうに笑った。
「じゃあさ、カスタードコロネも一緒に作らないか? おれ、理花とやりたい。……理花となら、『幻の菓子』だって作れる気がするんだ」
 真剣な顔でじっと目の中をのぞき込まれて、わたしはうなずく。
「そらー、行くわよお!」
 そらくんのママがそらくんを呼ぶ。
「じゃ、また明日! 放課後フルールに来てくれ!」
 そう言うと、そらくんはおじいちゃんたちの方へと駆け出した。
 そらくんが見えなくなったとたん、わたしははっと我に返った。
 あぁああ、わたし、またうなずいちゃった!
「だけど、あんなこと言われちゃったら、断れないよ!」
 わたしは小さくつぶやくと家の方へと歩き始める。だけどなんだか体がふわふわして、途中から走り出す。
 それに、あのドキドキワクワクをもう一回、あじわってみたかった。
 成功してももちろん楽しいけど、失敗しても楽しかった。だって失敗には必ず理由があって、それをじっくりとケンショウして確かめれば、新しい発見があった。
 世の中の仕組みを一つ一つ解き明かしていくみたいで、実験とおんなじくらいに楽しくて──。
 わたしの足がぴたりと止まる。
 え、……実験? おん、なじ?
 お菓子作りの楽しさと実験の楽しさ。二つの楽しさがしっかり『=』で結びついて、がん、と頭を打ったような気分になった。
 そっか。お菓子作りが楽しいって思ったのって……実験と似ているからなんだ……。
 なんだ、わたし、ぜんぜん変われてない。ぜんぜん普通になれてない。『変』なわたしのまま。
 もう自分に言い訳できないくらいにはっきりと気づいてしまって、わたしはぼうぜんとその場に立ちすくんだ。

11 固まらないクリーム

 ショックは家に帰っても続いていた。
「わたしは実験が好き……なんだ……」
 もう認めるしかない。だけど……それはだれにも知られたくない。だってきっとまた変だって言われちゃう。
 でも……。もしそうだったとしても、「お菓子作りが好き」って言えば、変だって言われたりしないよね? お菓子作りなら、女の子らしい趣味だもん。それなら、みんなも『変』って言わないよ、きっと。
「うん、大丈夫!」
 もう一回、大丈夫だと自分に言い聞かせると、やっと胸の中のザワザワしたものが消えていった。
 だけど、ホッとすると、急に別の大問題が頭に浮かび上がってきた。
 あぁあああ、そうだ! それより、どうしよう!
 そらくん、また明日って言ってたけど、それってつまりカスタードコロネを作るってことなんだよね?
 そして、うまく作れなかったら、そらくんの大事なお店がなくなっちゃうんだよね!? 思わずひきうけちゃったけど、責任重大だ!
 フルールのカスタードコロネはわたしも食べたことがあった。パパの大好物だ。
 とろりとした冷たいクリームがパリッとしたパイ生地に包んであって、サクッとした食感のあとに、フワッと甘さが口に広がるのがたまらない。
 レシピってわかるのかなあ。レシピがわかればまだいいと思うんだけど。
 そらくんは全部おじいちゃんの頭の中って言ってたけど、じゃあおじいちゃんに聞くしかないってことだよね?
 おじいちゃん、教えてくれないかな。でもテストなのに、答えを教えてもらうみたいなことになるから……ムリかな……。
 そんなことを考えていたら、ママが「あああ! お酒の量まちがえた!!」と大きな声を出した。
 キッチンをのぞくと、ママは大きな鍋でじゃがいもと玉ねぎと人参とお肉を炒めている。
「今日の夕飯はなに?」
「肉じゃが!」
 ママはお料理の本とにらめっこをしている。
 ふと不思議に思った。
「ママ、肉じゃがって何回も作ってるよね? 覚えられないものなの?」
 ママは目を吊り上げた。
「玉ねぎ3個にじゃがいも5個、人参1本、牛肉200グラム、お醤油が大さじ3杯、お酒が100㏄、お砂糖が大さじ5杯、みりんが大さじ3杯! さあ覚えた!?」
 あ、ムリだ!

「……ごめんなさい」
 わたしがしおらしくあやまるとママはため息をついた。
「ママは味付けがニガテなのよねえ。細かいし、どうしても覚えきれないのよ」
 そういえばこの間、砂糖の量の小さじと大さじをまちがえて、みょうに甘い麻婆豆腐が出来上がっていた。
 そうだよねえ。やっぱり細かい分量は忘れちゃう……。
 わたしははっとする。
 あれ? おかしいよね? あれだけフクザツなお菓子の作り方なのに、全部頭の中って。
 作り方は覚えたとしても、分量まではむずかしいと思う。
 ふと、ホワイトボードに貼り付けたままのおじいちゃんのメモを思い出した。
 カイドクしようとしてむずかしくてやめたままだった暗号のこと。
「うーん、でも、分量をわざわざ暗号にするかなあ……」
 キッチンからはくつくつと煮える音がしはじめる。どうやら煮込みに入ったらしい。
 やれやれ今日も失敗だわ~、とのんきに言いながらママがテレビをつけた。
 あー……失敗したんだ。
 がっかりしていると、テレビから音楽が流れ始めた。何気なくテレビを見る。
 ちょうど映っていたのは遊園地のコマーシャル。
 花畑の映像と一緒にあるフレーズが読み上げられた。
『フラワーフェスティバル、開催中!』
 ん? 花畑? フラワー?
 なにかひっかかる。
「ねえ、ママ。フラワーって花っていう意味だよね?」
「そうよぉ。英語で花っていう意味。それがどうしたの?」
 フラワーが花なら、どうしてパパはフルールが花だと言ったのだろう?
 フルール……って、そういえば……。
 ふとさっきのおじいちゃんとそらくんのママのやり取りが思いうかんだ。
 フルールが悲しむもんか? その言い方だと、まるでフルールが人みたいだよね……?
 ん? あれ!? そらくん、店の名前はおばあちゃんの名前からとったって……!
「あああああ! そうだ! ってことは、フルールはおばあちゃんの名前!?」
 ひょっとして日本人じゃない!? じゃあ、どこの国の人!?
「なっ、どうしたの!?」
 ママがびっくりしている。だけどわたしは興奮をおさえきれずに叫んだ。
「今日、おじいちゃん、フランスで修業したって言ってたよね!?」


「じゃあ、やるぞ」
 次の日、約束どおりにフルールに行ったわたしは、そらくんのタブレットを前にごくんとのどを鳴らした。
 昨日、おじいちゃんがフランスで修業したことを聞いて思いついたんだ。
 だとしたら、材料をフランス語で書いていてもおかしくない。
 それからもう一つの大発見。
「そらくんのおばあちゃんって……フランス人なの?」
 わたしはしみじみと言った。
「あれ、言わなかったっけ? 店の名前、ばあちゃんの名前って」
 そらくんはあっさりうなずく。
「言ってたけど、フランスとは結びつかなかった……」
 花っていう意味って知ってたから、『花』がつく名前の人だと思い込んでたんだ。
 知らなかったことばっかりでびっくりしていると、そらくんが翻訳サイトにメモに書かれたアルファベットを入力する。そしてフランス語→日本語を選択する。
 ぱっと表示された言葉にそらくんは声を上げた。
「La crèmeはクリームだ!」
 や、やった! 当たりだ!
 そらくんは次々に入力していく。
「Farine de bléは小麦粉。で、Sucreは砂糖……これはクリームの材料だ!!」
 全部訳し終えたころには、わたしとそらくんは興奮で顔を真っ赤にしていた。
 だって、これにはおじいちゃんが作っているクリームの材料、小麦粉と砂糖と卵と牛乳の量が書かれていたのだ。
 ってことは、やっぱりあのノート!
 わたしと同じことを考えてたのか、そらくんが壁にかかっていたノートを持ってきた。
「フランス語ってわかったから、これもカイドクできる!」
 うん! これがあれば鬼に金棒だよ!
 だけど……。

「ぜんぜん固まらないなあ」
 ぐーるぐる。
 メモに書いてあったカスタードクリームの材料、卵黄3つと砂糖70gと小麦粉30gと牛乳200ml。
 全部を泡立て器でかきまぜた。
 色はクリーム色になったけど、いくらかきまぜても、サラサラのままでちっとも固まらなかった。
 イメージとしては、生クリームを泡立て器でかきまぜるのと同じ感じだった。
 テレビのお料理番組では、ハンドミキサーのスイッチをいれたら、牛乳みたいな液がすぐにもったりとしてきていた。
 何がちがうんだろう?
「腕が疲れた~。おかしいなあ……じいちゃん、ただまぜてたように見えたけどな」
 メモには材料しか書いてなかったから、それ以上の作り方はわからない。
 作り方はたぶん……。
 そらくんはうらめしそうにノートと、それからタブレットを見た。
 ノートのレシピは全部がフランス語で書いてあって、クリームの作り方がどのページに書いてあるか、さっぱりわからない。
 さらに、こつこつ翻訳をしているうちに使用制限が来てしまって、タブレットにはロックが掛かっている。
 だからこれ以上はカスタードクリームの作り方を調べられないのだ。
「……30分ってさあ、さすがに短すぎると思わないか?」
 わたしもしょんぼりとうなずいた。
「延ばしてもらえないの?」
「ゲームしすぎたのがなあ……かあちゃん激オコだったから……。ま、大丈夫か。おれには理花がいるし」
 そらくんはカラッと笑って言うけれど、あんまり信頼しないでほしい!
 わかるかな……わたしは自信がなくて小さくなってしまう。
 五時のチャイムが鳴りひびき、クリームになりそこねた液を見つめながらため息をつく。
「時間だな。また明日がんばるか……」
 そらくんはちょっとあせった感じだった。だって期限は三日後だ。間に合うかどうか不安なんだろう。
「一応、家でも調べてみるね」
 パソコンがあれば大抵のことが調べられるはず。そう思ったら少しだけ気が楽になる。
「頼んだ」
 そらくんは笑うけれど、いつもみたいな元気がないのが気になってしまった。

12 ヒントはゆでたまご

 帰ってから一応ママにも作り方を聞いてみたけれど、あっさり「ママが知るわけないでしょ!」と言われた。予想通りだけれどがっくりする。
 パパにメールしようかな……と思ったわたしは、いつもの場所にパソコンがないことに気がついて青ざめた。
「ま、ママ! ノートパソコンがない!」
「パパが持っていったみたいよ。ほら出張だから」
「え、出張なの!? どこに!?」
「ギリシャよ」
「はあああ!? うそ!」
 ヨーロッパ!?
「知らなかったの? ずっと学会で忙しいって言ってたじゃない」
「し、知らないし!」
 言ってた!? いや、そもそもこのところパパとは会ってないよ!
「い、いつ帰ってくる?」
「んー、日曜日かな?」
 それじゃあおじいちゃんのテストに間に合わない!
 どうしよう。パソコンさえあればなんとかなると思ってたのに……。
 あ、……そうだ!
 わたしは部屋に戻ると、藁にもすがる思いで前にパパが置いておいてくれた本を探す。『料理の科学事典』だ。
 だけどいつの間にか本は片付けられてしまっていて、見つからない。
 こうなったら……!
 ママに見つからないように、とパパの部屋にこっそり入る。
 しょ、しょうがない……よね。キンキュウジタイだし……!
 そこはわたしにとって立ち入り禁止区域。本が山のように積んであって、危ないから入っちゃだめと言われているのだ。
 久しぶりに入ったパパの部屋のにおいは図書室のにおいに似ていた。
 窓のところ以外、壁いっぱいに天井までの高さの本棚が置かれていて、それ全部に本がぎっしりと詰まっている。もしかしたら学校の図書室よりも本があるんじゃないかって思う。
 しかもほとんどがむずかしそうな科学の本なのだ。
 わたしはぐるりと見回してクラクラとする。こ、ここから見つけるの!?
 だけどやるしかない。そう思ったときだった。
「りーかー! 危ないから入っちゃだめって何度言ったらいいのかなあ!?」
 恐る恐る振り向くと、ママがこわい顔で部屋の入り口に立っていた。
 うわああ……だめだ。これは自分で考えるしかない。

 その夜、わたしはあまり眠れなかった。
 おまけに明け方には本棚に押しつぶされるというひどい夢まで見て、サンザンだった。
 今朝の朝食メニューはゆで卵とホットケーキとフルーツとヨーグルト。
 ぼうっとしたまま朝ごはんを食べる。
 ゆで卵をかじると黄色い卵黄がとろりとあふれた。
 半熟卵より、黄身が固まっているほうが実は好きだったりする。
 ホットケーキを口に入れる。ママにコツを教えてあげたからか、いつもよりふんわりしている。甘いケーキの味に、そらくんとの実験を思い出した。
 あのときも大変で。ぐるぐるまぜて、まぜすぎて失敗した。
 だけど、今度はまぜてもまぜても固まらない。
 なんだか毎回おんなじようなことしているなあ……。ん、おんなじ???
 わたしははっとする。
 ケーキの生地とクリーム。おんなじクリーム色だ。
 そして、ホットケーキも材料は卵と牛乳と砂糖と小麦粉だった。なのにクリームの方だけ固まらない。
「あれ? いや、重曹も入れたっけ」
 だけど、ちがうのは重曹だけ。それでホットケーキはちゃんと固まった。
「じゃあ、重曹を入れれば固まる?」
 ためしにやってみようかと思ったけれど、なにかちがう気がして部屋から実験ノートを持ってくる。
 朝ごはんが途中のままノートを読み始める。
「りーかー、学校チコクするよ? って、お行儀ワルイわね! 食べながら読むのはだめっていつも言ってるでしょ!」
 ママが言うけれど、いつも言われるのは新聞を読みながら食べるパパで、わたしじゃない。
 でも今、パパの気持ちがよくわかった。なんだか、食べてる場合じゃないんだもん!
 わたしは「わかってる!」と返してホットケーキを口に入れる。
 そしてまたこっそりとノートに目を落とした。
 重曹を使ったのはクッキーとホットケーキ。
 クッキーに重曹を入れたのは、二酸化炭素を発生させて、クッキーをサクサクにさせるため。
 そして次のホットケーキで重曹を入れたのは、ケーキをふんわりふくらませるため。
 ガスで、ものをふくらませるのが重曹だ。
「でも、クリームはサクサクでもないしふくらんでもいないよね……?」
 それなら、重曹はきっと関係ない。原因は他にある。
「じゃあ、ホットケーキが固まったのは、どうして?」
 つぶやいたわたしは、なにげなくゆで卵を見てハッとした。
「──わかった! そっか。冷たいからって、生クリームとおんなじように考えてたからだめだったんだ!」
 わたしが叫んで顔を上げると、ママが怖い顔で時計を指差していた。
「理花! チコクするって言ってるでしょ!」
 時計を見るともう八時だった。わあ! あと十分しかない! チコクだ!
「ほんともう、なんだかパパが二人いるみたい……」
 ママがぼやくのを聞きながら、わたしはランドセルをつかんで家を飛び出した。

13 ゆりちゃんにバレちゃった!

 その日わたしはずっとじれじれしたままだった。
 ギリギリセーフで教室に飛び込んだせいで、朝はそらくんとはタイミングが合わなかったのだ。
 休み時間に教室で話しかけるのは、ゆりちゃんがいたからムリだったし。
 っていうか、自分から学校で話しかけられると困るって言ったんだもん。できないよ!
 だけど、どうしてもウズウズが止まらなかった。どうしても今朝の発見を伝えたかった。
 だから昼休みに校庭に出ようとしたとき、昇降口でそらくんを見かけたわたしは思わず叫んでしまったんだ。
「そらくん!」
 だけど呼んでしまってからわたしははっとした。わああ、ここ学校なのに!? どうして放課後までがまんできなかったの!?
 そらくんは少し意外そうな顔をしたけれど、「どうした?」と近づいてきた。
 いまさら逃げるわけにいかない。ラッキーなことに周りにはクラスの子はいなかった。
 声をひそめる。
「えっと、クリームの失敗の原因、わかったんだ! ゆで卵だよ!」
「え、なに? ゆで卵?」
 人に見られる前にと大急ぎでわたしは言った。
「えっと、ホットケーキとクリームって材料似てるよね? だから、えっと、固まらないわけがないなって思って……それなら温めればいいんじゃないかなって、朝ごはんのゆで卵を見てたら思いついて」
 ああ、早く言わないとだれかに見られちゃう!
「ゆで卵?」
「ほら、卵って、熱くなると固まるよね?」
 あわててるせいで説明がうまくいかない。余計にあせってしまう。
「熱……あっ、そっか! そういやじいちゃん、ボウルじゃなくて鍋でかきまぜてたかも! よく覚えてなかったけど、あのとき、コンロの上だったのかも!」
 伝わってホッとしたときだった。
「ねえねえ……二人でなんの話してるの?」
 わたしはぎくりとする。
 後ろから声をかけたのは、よりによって今一番声をかけてほしくなかったゆりちゃんだった。
「なんにもないって言ってたけど、ウソでしょ? やっぱりなにかあるんでしょ、理花ちゃんとそらくんって」

 ゆりちゃんはなんだか怒っているように見えた。
 ゆりちゃんの周りの空気だけ冬の朝みたいに、チクチクしてる。寒くもないのにゾワゾワと鳥肌が立った。
「あーそれおれも思ってた! ってかそら、この頃付き合い悪いし、変だもんな!」
 通りかかったクラスの男子が、ひょっこりと話の輪に割り込んできた。
「そらって、どうして最近佐々木と仲良くしてるんだぁ?」
 からかうような口調だ。だけど、ゆりちゃんの目は「どうして理花ちゃんなんかと?」って言っているように見えた。
 だけどそれに気が付かないのか、そらくんはサラッと言った。
「だって、理花はメッチャクチャ理科が得意なんだ。ほんと、いろいろ知っててすげーんだよ。きっと将来は博士だぞ?」
 なんで、そらくん、みんなの前でそんな事言うの!
 ゼッタイに隠しておきたかった秘密だった。目の前が真っ暗になる。
 せっかく、『変なわたし』を卒業しようと思ってたのに。『普通』で『カワイイ』女の子になりたかったのに!!
 頭の中がぐしゃぐしゃだ。
『変』『変』『変』『変』『変』『変』『変!!!』
 だれかが耳元で叫んでいる。ぐわんぐわん、と目の前のそらくんたちがゆがんだ気がした。体の中の血が足の先からどんどん抜けていくような。
「理科が得意……あ、そっか。理花ちゃん、虫とか大好きだったっけ」
 ゆりちゃんがぽつりと言った。
「そうだ。ほら、タマムシとかいう虫を宝物って言って──」
 もういや。もうやめて。もう、タマムシは捨てたもん! もう……好きじゃない!

「理科なんか、好きじゃないし!」

 大声で叫んで顔を上げると、そらくんと目が合う。そらくんはすごくびっくりしていた。他のみんなもいっせいにわたしを見ている。
 かあっと顔が赤くなっていくのがわかる。
 ああ、なんてみっともないんだろう。そらくんにも『変』って思われちゃったかもしれない。
 泣きそうで逃げたくなる。だけどいつの間にか人垣ができていて逃げ道がなかった。
 なになに? とみんながキョウミシンシンな顔でのぞきこんでいる。
「で、理科が好きな佐々木とそらくんが仲がいいのはなんでなのかなあ?」
 男子がにやにやと笑っていた。ひやかしの口調に、そらくんは少しムッとした様子だった。
「何か問題あるわけ?」
 そらくんがうんざりした様子でため息をつくと、いつもとちがうひんやりしたフンイキに、みんなビクリと顔をこわばらせた。
 それでもみんな答えを待っている様子だった。
 そらくんは少しだけ迷った様子で黙り込んだけれど、やがて顔を上げてキッパリと言った。
「理花には、おれのケーキづくり手伝ってもらってんだよ。おれが理科ができないから」
「え、そらくん、ケーキ作ったりするの? ウソ」
 ゆりちゃんが目を見開いてつぶやいた。その顔からは、『なんでそんな女の子みたいなこと』──そんな声が聞こえてきそうだった。
 わたしはぎくりとする。
 だけど、そらくんは、力強い目でまっすぐにゆりちゃんを見ていた。
「うん。だって、おれ、パティシエになりたいから」
「えええええ!?」
 取り囲んでいた女子が一気に叫んだあと、
「知らなかったぁ。意外!」
「てっきりスポーツ選手とかかと思ってた! だって足速いし!」
 そんな声が聞こえて、わたしはひやりとする。
「まじ、まじ? じゃあ、このところゲームしなかったのって、菓子作ってたからってこと?」
「そらが菓子作りとか、ぜんぜん想像できねえ!」
「食べるの専門の間ちがいじゃねえの?」
 みんなが思い思いに声を上げ、ざわざわが大きくなる。それにつられて人がどんどん集まってくる。
「なになに? 何の話?」
「それがさあ、広瀬くんがパティシエになりたいんだって!」
「ええっ、広瀬くんが!?」
 有名人のそらくんの新情報に、他のクラスの子達まで集まりだした。
 話がどんどん広がっていくのがわかって、ドキドキがひどくなってくる。息が苦しくなってくる。
『そらくんって「変」!』
 今にもだれかがそう口にしそうな気がして、わたしは怖くてたまらなくなる。
 もしそうなったら、きっとそらくんは悲しそうな顔をしちゃうよ。わたしが前にさせたみたいに。
 そんなの、がまんできない!
 なんとかしなきゃ。そらくんを守らなきゃ!
 わたしは思わず叫んだ。
「ちがうよ! ケーキ屋さんやってるおじいちゃんが入院してるから、お手伝いさせてもらってるだけ! だって、そらくんがそんな……」
 どうしたらそらくんを守ることができる? わたし、どうやって「変」って言葉から自分を守ってた? そうだ、「変」って言われること、男子みたいなこと、全部やってないよってごまかした。それなら──
 ぐちゃぐちゃの頭の中からわたしは必死で言葉を探し、見つけたそれに思わず飛びついた。

「女子みたいなことするわけないじゃん!」

 ね? そうだよね? いつもみたいに明るく否定して! 今ならまだ冗談ってことにできるから、そうやってごまかしちゃおう? ──そう思ってそらくんを見る。
 だけど。
「はぁ?」
 そらくんの冷たい声が廊下に落ちて、わたしははっとした。
 そらくんは見たこともないくらい悲しそうな顔でわたしを見ていた。

「『女子みたい』って……理花、おまえも……おれのこと『変』って思ってたのかよ」

 その言葉と同時に、そらくんとの間に見えない壁ができた気がした。
 そらくんは人をかき分けて外に出ていく。それにつられるようにしてみんなも気まずそうに散り散りになっていった。
 あ……。
 ぽつんと残されたわたしは気がついた。
『男の子みたい』
 わたしを傷つけ続けた言葉を、わたし自身が言ってしまったことに。
 さっき、そらくんを一番傷つけたのは、まちがいなくわたしだった。

14 嫌われちゃった!?

 学校が終わると、そらくんはあっという間に教室を飛び出してしまった。そらくんがどれだけ怒ってるのかわかってしまって、わたしはユウウツなきもちで校門を出た。
 日差しは強く、アスファルトはジリジリと焼けている。うつむいて足元の濃い影を見つめると大きくため息をついた。とにかくそらくんのことで頭がいっぱいだった。
 あやまらないと。
 あやまっても許してもらえないと思う。
 それでもあやまらないとと思った。
 そらくんにあんな顔させたままなんて、ゼッタイダメだから。
 フルールに行かないと。
 ぐっと手をにぎり、桜の木の方を向いたときだった。
 目の前に見慣れた男の子がいて、わたしは目を見ひらく。
 そらくん!
 思わずそらくんに駆け寄ろうとしたけれど、直後、
「金子、ちょっといいか?」
 とそらくんが口を開いて、足が止まった。そらくんの前には、ゆりちゃんがいた。
 ゆりちゃんが振り向いたので、思わず電柱の陰に隠れてしまう。ゆりちゃんへのニガテ意識はさっきのことでさらに強くなっていたのだ。
 息をひそめて、耳を澄ます。するとそらくんが言った。
「相談があるんだけど、いまからつきあってくれない? おれんち知ってる? フルールってケーキ屋」
 相談? フルールで……?
 ゆりちゃんが目を丸くしたあと、頬を一気に赤らめた。
「もちろんいいよ! わたし、そらくんの役に立てるのうれしい!」
 高い声がわたしの体中につきささってくるような気がした。
 わたしはぼうぜんとしてしまう。
 だって、それって。
 今までたくさんの時間を過ごしたフルール。その場所にそらくんはゆりちゃんを呼んだ。
 きっと、わたしの代わりだ。わたしの手伝いはもういらないって、そらくんは言ってるんだ。
 そっか。そうだよね。
 そらくんには、わたしなんか、もういらないよね。

15 そらくんがやってきた

 すっかり自信をなくしてしまったわたしは、ぬけがらのようになってしまった。
 土曜日だというのに、どこにも出かけずにテレビをつけてソファでゴロゴロ。
 朝のアニメが終わり、やがてお料理番組がはじまった。
 タイミングは最悪で、お菓子作りの回。調理台の上にはボウルに泡立て器に計量カップが並んでいる。
 それがフルールの光景と重なると、なんだか見るのが辛くなってぽちっと消した。
 すると、ママの声がキッチンからひびいた。
「りーかー? なにか悩んでるんならママに言ってみな?」
 さすがに落ち込んでるのがわかってしまったみたい。
 でも、この悩みだけはママにも言えないと思った。
 今まで何でも相談してきたけど、あんな情けなくて恥ずかしい失敗、だれにも──ママにだって知られたくない。
「んー……なんでもないよ」
 ママはむーとうなったあと、ちいさくため息をついた。
「そう? それならいいんだけど……じゃあ、庭の草でも抜いてきて! もうこの頃すごいのよ、ぼうぼうよ!」
「……はあい」
 このままゴロゴロしてたらまたいろいろ聞かれるだろうな。それもいやだな。わたしはのろのろと立ち上がる。
「道具は庭の小屋にあるから」
 実験室の鍵を渡されて庭に出る。ママの言ったとおりに庭の草は伸び放題だった。
 たんぽぽはぎざぎざの葉っぱを大きく広げているし、ハルジオンの茎は伸び切っていて、たくさんのつぼみを付けている。種になるとやっかいなのよ、とママが言っていた。どちらもふわふわの綿毛を遠くに飛ばしたがる花だからだ。
 だけど葉っぱがやわらかいものばっかりだし、別に道具はいらないかな?
 そのまましばらくしゃがみこんで草を抜いていると、がちゃん、と玄関のドアが開く音がした。門の方を見たわたしは目を見開く。
 そこにはそらくんが立っていたのだ。
 う、うそ!
「理花なら庭に──」
 ママの声に誘われるように、そらくんがこちらを向いた。
 うわあ、顔なんて見れないよ!
 わたしは思わず逃げ場を求めてぐるりと庭を見回して──ちょうどよいところを見つけた。
 そうだ、実験室!
「あ! ──まてよ、理花」
 そらくんの声が庭にひびく。だけどわたしはダッシュで実験室に駆け込むと、中から鍵をかける。
 もし、もう手伝いはいらないとか、ゆりちゃんと交代するとか……そらくんの口から聞いちゃったら、立ち直れないもん!
「理花、開けろよ!」
「理花、いったいどうしたっていうのよ? 出てきなさい!」
 そらくんとママの声がひびく。どん、どんと実験室のドアが叩かれる。わたしはしゃがみこむとギュッと目を閉じて耳をふさいでやり過ごした。
 こんなふうに逃げててもしょうがないって思う。だけど、ドアを叩く音がわたしを責めているようで。怖くてしかたがなくて、わたしはどうしても鍵を開けられない。
 しばらくするとドアを叩く音が止んだ。ああ、諦めてくれたんだ。わたしがホッとしたときだった。
 がらり、と音がしてぎょっとする。顔を上げると窓からそらくんの顔が現れた。
 えっ!?
 その窓は地面から二メートルくらいの高さのところにある換気用の窓だ。まさかそんなところから入ってくるとは思いもしなかった!
 固まるわたしの前で、そらくんは小さな窓から侵入してくる。
 窓枠を器用にくぐり抜けて軽やかに着地した。
 そしてわたしの正面に立ったそらくんの顔は怒っていた。
「……ごめんなさ、い」
 思わずうつむいてあやまる。
「なんであやまるんだ?」
 そらくんの声はやっぱり冷たい。顔を上げられない。わたしは泣きたくなった。
「わたし、あんなこと、ほんとは思ってない、よ」
 言い訳みたいで恥ずかしい。いくら本心じゃなかったって言っても、一度出てしまった言葉は取り消せない。
 そらくんは黙っていた。何度あやまっても、全部跳ね返されちゃうんじゃないかって思って、苦しい。
「わたし、そらくんが『変』って言われるのがいやだったんだよ。だから冗談にしてごまかしてほしいって思って……だけど、そらくんがゆりちゃんがいいって言うんなら、もうしょうがないって思う」
 泣きそうになりながら言うと、そらくんがとまどったような声を上げた。
「ゆり? 金子がどうしたって?」
「そらくん、わたしの代わりにゆりちゃんにお手伝いたのむんじゃないの?」
「いや? なんで?」
「なんでって……だってわたし、そらくんにひどいこと言ったし」
「だけど、おれも、言ったんだろ? 理花を傷つけるようなこと」
 顔を上げると、そらくんはじっとわたしの目を見た。
「おれが『理科が得意』って言ったの、やだったんだろ? あのあと理花、おかしかった。だから金子に聞いた。なんか知ってそうだったから。そしたら、前に宝物だった虫、捨てたって聞いて……」
 とそらくんは言う。
 ああ。あのときのこと、ゆりちゃんに聞いちゃったんだ。元素図鑑や塩の結晶、それからタマムシのこと。
 だとしたら、そらくんも思ったよね、きっと。わたしのこと、変だって。
「理花さあ、理科がキライとか、ウソだろ?」
 追及されてわたしはギュッと目をつぶった。そらくんの目は見られなかった。
「ウソじゃ……ない」
「ウソつけ。あんだけ楽しそうに実験してて、何がキライだよ」
「……あれは、実験じゃないよ。お菓子作りだもん。虫取りとちがって、女の子がやってもおかしくない。だから」
 そらくんはそっか、と大きなため息をついた。
「菓子作りって女がやるもの? じゃあ、理花はさ、菓子作りしてるじいちゃんのことも、女みたいだって思う? かっこ悪いって思う?」
「え?」
「おれはいいよ、サンザン言われて慣れてるし。だけど、もし……じいちゃんをばかにするんだったら、おれは許さない」
 じっと挑むように見つめられて、わたしは胸がぐっとつまるのがわかった。
 そうか。虫取りは男子がするもの。料理は女子がするもの──この考え方自体、そらくんやおじいちゃんのことを否定してるようなものなんだ。
 この間、おんなじことでそらくんを傷つけたばっかりなのに。またやっちゃった……!
 気づいて顔をこわばらせていると、そらくんはそのままくるりと背を向ける。
「わかった。じゃーな」
 呆れられた。嫌われちゃった!
 ぎゅううと胸が痛くなって、わたしはがまんできなくて叫ぶ。
「まって。そらくん! わたし、かっこ悪いとか思ってない!! そらくんのことも、おじいちゃんのことも、かっこいいって思ってる!」
 叫んだ直後、わたしは一気に顔が赤くなる。
 ちょっとまって! わ、わたし、今、そらくんにかっこいいって言っちゃった!?
「え、えっと、わたし」
 まるで告白みたいじゃない!?
 え、え、取り消したほうがいい!? 深い意味はないよって。
 あわあわとするわたしだったけれど、そらくんはこちらを振り返ると、いたずらが成功したような顔で笑ったんだ。
 あ、そらくん、怒ってるのって、もしかして演技!?
「ひ、ひどい! からかったの!?」
 わたしがそう言うとそらくんはハハッと笑った。
理花。堂々としてろよ。笑うやつなんか、気にすることない。そんなやつのせいで自分の好きなことあきらめるの、メチャクチャもったいない」
 そらくんのしゃんと伸ばした背筋と、まっすぐなまなざしに、どきん、と胸が音をたてる。
「──ってのは、じいちゃんが言ってたんだけどな? おれも、昔ケーキ屋やりたいって言って、『女の子みたい』って笑われたときに落ち込んだんだよ。そしたら、『変』だって笑いたいやつは笑わせとけって。『普通』からはみ出る勇気を出さないと、だれもやっていないことはやれっこないんだって」
「え、そらくんも……?」
「だから、おれは、『変』って言われるのは『すげえ』って言われてると思うことにしてるんだ」
 わたしはへへっと笑うそらくんを見上げた。
 部屋に差し込む光がちょうどそらくんを照らしていた。いつもより力強い光をたたえた目が、まっすぐにわたしを見つめている。そのまなざしにはやさしさと、つよさと、明るさの全部がつまっていた。
 ああ、そらくんって、晴れた日の青空みたい。見ていると、自然と心が上を向いて、力が湧いてくる。
 そうだ。そうだよね。そらくんはお菓子作りしててもちゃんとかっこいい。ってことは、好きなことと男子とか女子とかは関係ないんだ、きっと。
 そう思ってぼうっと見つめていると、そらくんはちょっと照れくさそうに手を差し出した。
「ほら」
 目の前の手をとまどいながら握ると、そらくんはしゃがんだままのわたしを引っ張り上げる。
「理花、一緒に菓子作りやろう。実験をやろう! そして博士の理花と、パティシエのおれで、いつか『幻の菓子』──いや、それを超える究極の菓子を作ろうぜ! おまえのこと傷つけるやつがいたら、ゼッタイ、守ってやるからさ!
 仲直り、とでも言うように一瞬だけ強くわたしの手を握る。
 真剣なそらくんの目から目がはなせなかった。
 わたしは自然とうなずいてしまう。
 そらくんはおひさまみたいに笑うと、「じゃ、行こうぜ!」と言って扉を開けた。

16 「好き」への一歩

 外で待っていたママは、わたしが「ごめんなさい。でも解決したから」と言うと、「そう? それならいいんだけど」と、それ以上の追及はしてこなかった。
 だけど、ケーキ作りに行くって言ったら嬉しそうだったから、たぶん、外で聞いてたんじゃないかな。そしてわたしが何に悩んでいたのかわかったんだと思う。

 わたしとそらくんはそのままフルールへと向かう。
 だけど、途中、そらくんが角を曲がったところで足が止まった。
 いつもは避けている公園のあるあの道。だけど、わたしはぐっとこぶしを握りしめる。大丈夫。もう逃げなくても大丈夫!
 わたしは思い切って足を踏み出す。
 公園の前に差し掛かると、いつもどおりにそこにはゆりちゃんがいた。周りにはゆりちゃんと仲がいいクラスメイトが二人。みぃちゃん、ななちゃん。カワイイものが大好きな女子たちで、お洋服もカワイくて、なんだか花が咲いたみたい。
 いつも遊んでるって知ってたけれど、本当に会うとやっぱりドキドキする。足がすくむ。
 おしゃべりをしていたゆりちゃんは、わたしとそらくんを見つけると、びっくりしたように目を見開いた。
 ゆりちゃんは一人で近寄ってくる。
「二人でどこに行くの?」
 そらくんがちらりとわたしを見た。大丈夫か? と言われているような気がしたわたしは、大丈夫だよって言うかわりに一歩前に出た。
「そらくんのおじいちゃんのお店。お菓子作りに行くの」
 するとゆりちゃんはそらくんをちらりと見て、少しだけ顔をしかめた。
「ふうん。やっぱりお菓子、作ってるんだ」
 わたしに男の子みたいって言ったときとおんなじ顔。不思議でしょうがないって顔だった。
 あぁ、ゆりちゃん、たぶん、男の子がお菓子作りをするなんて、『変』だって思ってる。
 だけど昨日わたしが、『女子みたい』って言ってそらくんが怒ったから。だからはっきりと言えないんだと思った。
 それがわかってわたしはひやりとした。そらくんもおんなじように感じてたら、きっとイヤな気持ちになるって思ったんだ。
 でも、そらくんは少しだけ肩をすくめて「そうだよ」と一言。
 そっか。『すごい』って言われてるって思ってるんだ。
 気にしてない様子にわたしはホッとする。そしてそんなそらくんをすごくかっこいいなって思った。
 ゆりちゃんはちょっと不満そうに口を尖らせると、わたしを見た。
「理花ちゃんも、行くの?」
 どうしてそらくんと一緒にいるの? 昨日言ってたよね、理科がキライなんでしょ?
 そんなふうに聞こえた。
 そらくんがわたしを見た。心配そうな目。さっき言ったみたいに守ってやるって思ってくれているのかもしれない。
 だけど。
 わたしはギュッとこぶしを握りしめる。
 ここまできて、逃げたらだめだって思ったんだ。そして、守ってもらってもだめだと思ったんだ!
 だってわたしが勝たないといけないのは、今までの、弱いわたしだったから。
「そらくん、ちょっと先に行ってて!」
 そらくんはちょっとびっくりしたように目を見開いたけれど、うなずいて先へと進んだ。
 静かな公園でゆりちゃんと二人。向き合っていると時間が巻き戻されていく。
 やがて、ゆりちゃんの顔が三年生のあのときの顔に重なった。同時に声も聞こえた。
『理花ちゃんって変わってるよね……虫とか好きなのって男の子みたい。わたし、ちょっとムリ、かも……』
 ずきんと胸が痛くなり、ゆりちゃんから目をそらすと足元を見つめた。
 ──普通の、カワイイ女の子になりたいんじゃなかったの?
 消えたはずの弱虫なわたしがひょこっと顔を出して、やっぱり逃げようってうったえる。
 ほら、適当にごまかしちゃえばいいんだ。ちがうよ、理科じゃなくって、お菓子作りが好きなんだよって言えばいいんだ。
「わたし」
 やっぱりムリだ。押しつぶされそうになったとき。
『理花。堂々としてろよ』
 心の中のそらくんの声が、弱虫なわたしを追い出した。
 わたしは顔を上げる。
 うん。もうさっきまでのわたしじゃない。だから怖くない。もう、怖くない。
「ゆりちゃんは虫がムリかもしれない。キモいって思うかもしれない。──だけどわたしは好き。ゆりちゃんがカワイイものが好きなのとおんなじくらいに、好き」
 そう切り出すと、ゆりちゃんはびっくりした顔をした。
「わたし、あれから自分にずっと言い聞かせてたんだ。虫がキライだって。星も、石も、実験も、全部キライだって。だけどずっと苦しかった。そうやってウソついて、好きなこと隠してたら、自分で自分のことどんどんキライになっちゃいそうだった。だから、ウソつくの、もうやめるね」
 わたしは大きく息を吸う。胸いっぱいに勇気を溜め込むと、口を開いた。

「わたし、理科が好き」


 口にしたとたん、言葉が胸の中にじんわりと広がっていく。そして体中をめぐり始めると、どんどん力が湧いてきた。
「あのね。お菓子作りするのって、理科の実験みたいですごく楽しいんだ! だから──わたし、そらくんと一緒に行くね」
 誰がなんと言おうと、好きなことはあきらめない。あきらめたらゼッタイもったいない。
 うつむいたら弱い気持ちに負けてしまう気がして、わたしはお腹に力を入れて顔を上げ続けた。
 ゆりちゃんは、ちょっとぽかんとしていた。だけどぷい、と目をそらす。そして「い、いきなりなに? 理花ちゃん……変なの」と言った。
「『変』、かな?」
 変だって言われたのにぜんぜん平気で、不思議だった。
 思わずへらりと頬がゆるむ。ゆりちゃんはびっくりしたように叫んだ。
「へ、変だよ!」
 ゆりちゃんはみぃちゃん、ななちゃんのいる公園の奥へと走り出した。
「つまり『すごいよ』かぁ」
 そう言い換えてみるとなんだか笑えてきた。
 ふと気がつくと、すごくスッキリした気分だった。三年生のときから胸につっかえていたものが全部流れていったみたい。
 あぁ、わたし、やっとちゃんと言えた。好きだって言えた!
 三年生のわたしとハイタッチしたい気分!
 わたしは大きく一つ深呼吸をする。そしてフルールの方向へと足を踏み出した。

17 最後のミッション

「さーてーと! いっちょやるか!」
 フルールの工房に着くと、そらくんは手を洗ってエプロンと三角巾を着けて準備万端だった。
「カスタードクリーム、今度こそ作ってみせるぞ!」
「でも、火にかけることしかわかんないかも……」
 わたしがそう言うと、そらくんは「じゃじゃーん」と言いながら紙の束を出した。
「実は、じいちゃんのノートを訳してきたんだ!」
「え、すごい……!」
 それって、ものすごく時間かかったんじゃないの!?
「タブレット、五日分、一度に使わせてもらえるようにかあちゃんと交渉したんだ」
 そらくんは「どんなもんだ」って笑う。
「あと、これも」
 そらくんが小さなお皿を指さした。
 お皿の上には黒くて細い、さやいんげんみたいな形のものが置いてある。
 一瞬虫かと思ってぎょっとする。
 虫は好きだけど、クリームに入れるのはいやかも!
「え、これなに?」
「バニラビーンズ。材料のメモには書いてなかったけど、作り方のところに書いてあったんだ」
 ああ、聞いたことある! 甘くていいにおいがするスパイスだ!
「……すごい、本格的だね!」
「ケーキ屋だからな」
 そらくんは胸を張った。
 そして卵を割って黄身と白身を分けていく。
 そらくんは卵を割るのもだけど、殻を使って分けるのもやっぱりすごく上手で、思わず見とれてしまう。
 そらくんが分けてくれた黄身と砂糖をよくまぜる。
 その後に小麦粉を入れて粉が消えるまでかきまぜる。
「『熱』が必要かあ」
 そらくんが感心したように言うと、鍋で沸かしていた、香り付けのバニラビーンズを入れた牛乳を見た。
 そらくんは、これを冷たい牛乳だと思っていたんだ。確かに部屋の外から見てるだけじゃ、温度まではわかんないかも。
「で、次は卵の液と牛乳をまぜるんだよな?」
 レシピをちらりと見てわたしはうなずく。
 そらくんが鍋の中に、卵と砂糖と小麦粉をまぜたものを少しずついれる。
 そしてぐるぐると中身をまぜていく。
 ん? なんか、カタマリが……。
 黄色いカタマリがところどころできている。これ、大丈夫なのかな?
 だけどそらくんは気にせずに、鍋をコンロの上に置いた。
 次は、さらに火にかけて熱を加える。そらくんが火をつけながら聞いた。
「火の強さは?」
「中火だって」
 ぐるぐるとカタマリだらけの液をまぜながらじっと見ていると、鍋の周りがふつふつと煮立った。
 これからなめらかになるのかな……と思った瞬間。
 そらくんがまぜる手を止めた。
「なんだか……これ、変じゃないか? ……かきたまスープみたい……」
 薄いクリーム色の水の中に黄色い炒り卵が浮いているような感じ。
 とてもじゃないけれど、クリームとは言えない物だった。
「火、強すぎた……? え、でも中火って書いてあったんだったよな?」
 わたしはうなずく。ちゃんと手順通りにやったはずなのに。
「理花、どうしてかわかるか?」
 すがるように見られてわたしはひるんだ。
 パパはたよれない。パソコンもない。時間もない。
 どうしよう──と心細くなる。
 だけど、店をつぶすわけにはいかない。諦めるわけにはいかないんだ!
「手順を確認してみよう。レシピとちがうところがきっとあるはず」
 わたしは実験ノートを取り出した。
「失敗にヒントがあるよ、きっと」
 今までの実験でもそうだった。
 まちがったら、どこがまちがっているか確かめればいい。同じまちがいをしなければ、いつかきっと正解にたどり着くんだ。
「レシピをもう一回読むから、一緒にまちがい探ししよう?」
 そらくんはうなずいた。
 その目にはもう不安はない。
「1 材料を量ります──って書いてあるけど……」
 見直してみると、材料はあってるみたい。次を読む。
「2 卵黄と砂糖をよくまぜます
 3 小麦粉を入れて軽くまぜます
 4 温めた牛乳を少しずつ入れてまぜます
 5……」
 と言いかけたときだった。
 そらくんが「あっ」と声を上げた。
「え、あれ? 温めた牛乳を? おれ、牛乳の入ってる鍋に、まぜたもの入れなかったっけ?」
「それが原因? え、でも、まぜることには変わりないよね?」
「だよなあ」
「でも、一応メモしておくね」
 わたしはレシピの続きを読んだ。
「5 小鍋に入れて中火にかけてまぜます。とろりとなったら強くまぜます」
「ここまでしかできなかったんだよな。かきたまスープのでき上がりで、ゲームオーバー。怪しいのは、牛乳を入れるか、牛乳に入れるか、かあ。国語のテストみたい」
 そらくんがため息をついた。
 ほんとだ、と思いながらわたしは言う。
「最初にレシピをよく読んでおくのって、すごく大事なのかもしれないね」
「だなあ。訳してるときにも『よく』とか『軽く』とか『少しずつ』とかよくでてきたし。じいちゃん、いつも料理は科学だって言ってた。だから繊細なんだって。たぶん順番とか、たいしたことないって見逃してしまう手順がすごく大事ってことなんだろうな」
 わたしはうなずく。
 料理は科学って言葉が耳にじわっと広がった。
 目には見えない小さなものが──そうだ、元素図鑑にのってた小さなものたちが、きっとすごい勢いで動いているんだ。
 だから、小さなチガイが大きなチガイになってしまう。
 この失敗したクリームだって、そう。
 卵と牛乳と砂糖と小麦粉が、わたしたちの予想とはちがう化学反応をしている!
 想像すると、なんだかドキドキワクワクしてくる。
「よーし、最後まで頭に入れておくぞ。今度は失敗しねえぞ!」
 そらくんがこぶしを握りしめている。
 わたしはうなずいてレシピの続きを読んだ。
「6 なめらかになったら、こげる前にコンロから下ろします
 7 バットに移し替えて、氷で一気に冷やします」
 そこでわたしは首をひねった。
「バットって……?」
 野球のじゃないよね?
 と思った瞬間、そらくんがにっとわらった。
「野球のじゃないぞ」
 そして金属でできたトレイみたいなのを指さした。わあ、心を読まれた!
「わ、わかってるよ! え、えっと、でも、どうやって冷やしたらいいのかな」
 恥ずかしいのでごまかすように言うと、そらくんはにやにや笑いを引っ込める。
「そのまま入れるはずはないし……あ、ひと回り大きいバットに氷入れて、そこにつければいいかな?」
 レシピはここで終わりだった。
『強く』、『こげる前』、『一気に』。あいまいでわかりにくいけれど、それがたぶんとても大事。
 わたしは頭に刻み込む。
「うん……覚えた! じゃあ、4番のとこ、気をつけてやるぞ……!」
 力強く言うと、そらくんは腕まくりをする。

 卵と砂糖をよくまぜる。
 そこに小麦粉を入れて軽くまぜる。
 そして、4番のところ。温めていた牛乳を少しずつボウルに入れて、そのたびにていねいにまぜる。
「あ、今度はカタマリがないかも」
 さっきはここで黄色いカタマリができていた。
 そらくんと顔を見合わせてうなずく。ここがまちがいだったんじゃ? と期待がふくらむ。
「中火だよな? 弱火じゃなくて?」
「うん」
 まぜたものを鍋にうつしかえる。
 こわごわと火をつけるとぐるぐるとまぜる。
 交代しながらしばらくまぜているととろりとしてくる。
「きた! ここから強くまぜる!」
 わたしはあせりながらもぐるぐるとまぜる回数を増やした。
 でもすぐに腕が疲れてしまう。わたしの手が止まるとすぐに、
「交代!」
 そらくんが木べらをつかむと、真剣な顔でかきまぜた。
 そしてクリームがもったりとしたのを確認したあと、
「こげる前に!」
 とコンロから下ろした。
「バット! 氷!」
 用意していた氷漬けのバットに、鍋の中身をうつしかえる。
 とろりとしたクリームがバットに広がるとわたしはラップをかける。
 ホッとしたと同時にじんわりとよろこびが湧き上がってくる。
「……できた?」
「できた、かも!」
 ラップの下のカスタードクリームは、その名の通りきれいなクリーム色だ。
 お月さまの色。
 さっきみたいな《カタマリ》のない、カスタードコロネにかぶりついたときにとろっとはみ出してくる、あのなめらかなクリームそのものだった。
「ちょっとだけ食べてみる?」
 うなずいてラップを少しずらすと、スプーンでそれぞれひとくちずつすくった。
 ふんわりと湯気が上がる。
 甘いバニラのにおいに頬がゆるんだ。
「まだあったかい」
 せーので口に入れたわたしは目を丸くした。
「おいしい!」
 甘さはひかえめだけれど、その分卵の味がしっかりした。
 やさしい、やわらかい、あったかい味。フルールの味だ!
「やべえ……あったかいクリームとか初めて食べたけど、めちゃくちゃうまいな!」
 そらくんも顔を輝かせている。
「これならじいちゃんを、ギャフンと言わせられる!」
「そらくん……ギャフンって、テストなんだよ?」
「あ、そうだった」
 照れ笑いをしながら、そらくんはもうひとくちとクリームを口に運ぶ。
 そしてにっこりとおひさまのように笑ったんだ。

18 おじいちゃんのテスト

 そしてテスト当日の日曜日がやってきた。
 わたしは落ち着かずにソワソワしっぱなしだった。
 だって、おじいちゃんのお見舞いについてきてって言われたんだ!
 入院先は、街で一番大きな病院。広いロビーを歩きながら、わたしはそらくんにたずねる。病院だから、小さな声で。
「ね、ねえ、ほんとにわたしがここにいていいの?」
 ひそひそと話しかけると、そらくんもささやき返した。
「っていうかおれと理花で作ったんだから、理花も来てくれないと、なんだかずるしてるみたいだろ?」

 たどり着いた病室は七階の部屋で、窓からは街が見わたせた。学校はすぐに見つかったけれど、わたしの家やフルールは小さすぎてなかなか見つけられそうになかった。
 ドキドキしながら一番奥のベッドを見る。おじいちゃんは、いつもどおりの怖い顔だった。
 おじいちゃんはそらくんとわたしを見つけると、低い声で言った。
「できたのか?」
 そらくんもだけれど、眼力が強いって言うのかな。
 見つめられてわたしはすくんでしまう。
 だけど慣れているそらくんは、挑発的な言葉にも自信満々だった。
 さっき作ってきたばかりのカスタードコロネを出す。
 袋から出すと、バニラの甘い香りが部屋に広がって、自分で言うのもなんだけど、すごくおいしそうだった。
 おじいちゃんはしばらくコロネを観察したあと、ぱくり、と口に入れた。
 おじいちゃんの口がもぐもぐと動くのを祈るような気持ちで見つめる。
 ごくん。おじいちゃんののどが大きく動き、わたしとそらくんは息をのんだ。
「……まあ、最初のクッキーに比べればずいぶんと上達したもんだ」
 おじいちゃんがほめたので、「じゃあ──」とそらくんが期待で顔を輝かせる。
 だけど──おじいちゃんはひひひ、と笑った。
「──だが、これじゃあ合格はやれん!」
「ええええええええ……まじで、これでもだめなわけ!?」
「なにがこれでも、だ! パイは冷凍パイシートだろうが!」
「げっ、バレた!」
 わたしもあせった。パイ生地までは翻訳も作るのも時間が足りなくて、おじいちゃんの言う通り、パイシートを使っちゃったんだ……。
 そらくんは大丈夫だって言ったけど、さすがおじいちゃん。ごまかせなかった!

「プロをなめるんじゃない!」
 そらくんはがっかりしてうなだれた。けれど、次の瞬間、わたしは見てしまった。
 おじいちゃんが残りのコロネを嬉しそうに食べてしまったところを!
 はみ出てお皿に落ちたクリームまで、全部。
 うわああ! きっと、おいしかったんだ!
 え、それで合格じゃないってことは……。
 わたしはちらりとそらくんを見る。そらくんは悔しそうにコロネを見つめて、なんでだよ~! 早く一人前になって『幻の菓子』を作りたいのに! と文句を言っている。
 それを見てなんとなくわかってしまった。
 もしかして。おじいちゃんって、そらくんがマジメに修業できるように、ほめないことにしてるんじゃないかな?
 だって、ほめちゃったら、満足して修業やめちゃいそうじゃない?
 これって、当たりでしょう?
 と問いかけるように見ていると、おじいちゃんは、ニヤッと笑った。そして落ち込みつづけるそらくんに言った。
「クリームはまあまあだったがな」
「そ、そうだろ!」
「まぁ……だから、弟子はムリだが、あのフランス語のレシピを解読したことに免じて弟子候補くらいにはしてやろうか」
「弟子と弟子候補ってどうちがうんだよ」
「まだまだぜんぜんだめだってことだ。作ってみて『料理は科学』だって身にしみただろう。算数と理科をなんとかしないとな!」
 むむむとそらくんが不満げに口をとがらせると、おじいちゃんはわたしを見た。
「ところで、そら。そこのおじょうさんを紹介してくれないのか?」
「あ、そうだった。同じクラスの佐々木理花。テスト、理花のおかげでできたんだ!」
「あ、えっと、さ、佐々木理花です」
 あ、かんじゃった!
 かあっと赤くなっていると、
「この間はもめ事を見せてしまって、すまなかったね。……りか、ちゃん? どんな字を書くのかな」
「理科室の理に、フルールの花で、りかです」
「よい名前だなあ」
 にっこりわらったおじいちゃんが言う。笑ったおじいちゃんは、怖そうなおじいちゃんから、やさしいおじいちゃんに変身していた。
 わたしは、控えめに、だけどしっかりとうなずいた。
 わたしが大好きな、わたしの名前だ。
「子供の名前には親の願いがこもっている。うちのそらは青空のような明るい子になって欲しかったから『蒼空』。その通りに育ってうれしいかぎりだが……理花ちゃんのご両親はどんな願いを込めたんだろうな」
 はっはっはと笑うおじいちゃんの前で、わたしはなんだか泣きたくなった。
 わたしの名前をつけたのはパパだ。パパは一度も言わないけど、名前に込められた願いくらい、わかる。
「うちのパパは、理科が好きだから……」
 科学者のパパは理科が好きだから、きっと、わたしにも理科を好きになって欲しかったんだ。
 だけどわたしが実験をしたくないって言ったから、わたしの気持ちを優先してくれたんだ。
 自分が好きなものを否定されるのって、つらいのに。
「……わたし、パパに実験したくないって、言っちゃった」
 本当は好きなのに、怖くて、ウソをついた。パパを悲しませちゃった。
 ぽろり、と涙がこぼれると、そらくんがたずねた。
「……理花んとこのとうちゃん、いつ帰ってくるの?」
「今日。三時には帰るって、言ってた」
 時計を見ると、時刻は二時半だ。
「じゃあ帰ろう、いますぐ。理花のとうちゃんに会いに行こう! そして理科が好きだってちゃんと言おう!」
 ぐい、と強引に手首を引っ張られてびっくりする。つかまれた部分がカッと熱くなり、顔まで赤くなっていくのがわかる。
「ほら、クリームの謎、一つ解けてないのがあったろ? だから、また一緒に実験したいって言おうぜ! 大丈夫、ゼッタイ喜んでくれるって!」
 一生懸命うったえるそらくんから目がそらせない。
 ああ、そらくんって、すごいな。
 転んでも立ち上がらせてくれる。くじけた心をはげまして、前を向かせてくれる。強さとやさしさを持ってる。
 ……ヒーローって、そらくんみたいな人のことを言うんじゃないのかな?
 わたしは力強くうなずく。
「ありがとう……そらくん!」
 わたしはおじいちゃんに挨拶をすると、家に向かって駆け出した。

19 牛乳と卵の謎

 家に帰ると、予定通りパパが出張から帰ってきていた。
「パパ! おかえりなさい!」
 なんとなく飛びつきたい気分だったけれど、後ろにはそらくんがいるからぐっとこらえた。
「ただいま。たくさんおみやげがあるんだよ!」
 おみやげが机の上にのっている。
 けれど、全部お菓子だった!
 チョコレートにクッキー、キャラメルにキャンディ。
 大量の海外のおやつの山には苦笑いだ。
「こんにちは」
 そらくんが挨拶をすると、パパは「おや、いらっしゃい。めずらしいお客さんだな!」と目をぱちぱちと瞬かせた。
 そんなパパにそらくんは「これ、おみやげです!」とカスタードコロネを差し出した。
「え、なにこれ、なにこれ!」
 パパは目を丸くして叫ぶ。
カスタードコロネ。そらくんが作ったんだよ!」
「理花、さんに手伝ってもらいました」
 ちょっとキンチョウしているのか、呼びすてが気まずかったのか、そらくんはギクシャクと言う。
 理花さん、だって。思わずくすりと笑うと、そらくんは赤くなる。
「理花と二人で? すごいな! お店にあるのと変わらないじゃないか」
 パパはがまんできないといった様子で、コロネをほおばった。そして目を丸くして「おいひい!」と叫んで涙ぐむ。
 そらくんは楽しそうにハハッと笑った。
「でも、どうしてもわからないことがあって。あのね……」
 わたしが実験ノートを開いて説明をすると、
「牛乳を入れるか、牛乳に入れるか、かあ」
 パパはふむふむと聞いた後、ナットクしたようにうなずく。
「それはね」
 パパはカンタンに答えにたどり着いたみたいだった。
 だけど、わたしは思わずパパをさえぎった。
「ま、まって! 答えは、まって!」
「どうした、理花?」
 そらくんが不思議そうに聞く。
「だ、だって、こんな面白い問題、自分で考えないなんて、もったいないよ、やっぱり!」
 実験して、答えを導きだしたときのあの感動を捨てちゃうなんて、ゼッタイもったいない!
「実験しよう、そらくん」

 そう言うと、そらくんとパパが目を丸くした。
 そして二人同時に笑いだした。
 え、なにか変なこと言った、わたし!?
 ドキドキしていると、
「理花ってほんとに理科が好きなんだな」
 そらくんは笑いながら言い、
「小さな科学者の誕生だなあ」
 パパはしみじみとほめてくれた。


 実験室のすみっこでは、椅子に腰かけたパパが興味深そうに見守っている。
 わたしが答えはゼッタイ言わないで! って言ったから、実験室ではお客様あつかい。だまって見ているだけだ。なんとなくウズウズしてるし、丸椅子はキュウクツそうだった。
 真ん中の実験台には実験ノートが広げてある。
「問題は牛乳を、と牛乳に、のちがいだよな」
 そらくんは頭をかきながら、う~んと唸った。
「おんなじだと思うんだけど、なんでだめなんだろ?」
「……ひとまずノートに問題になってることを書いてみるね」
 悩んだときは書くと頭が整理されるってパパはよく言ってた。パパを見ると嬉しそうにうなずいた。
「『牛乳に』」
 そらくんが口に出すのをノートに書く。
「『卵と砂糖と小麦粉』……って、いちいち長いな」
「『卵液』って言うことにしようか。『卵液を入れるのと、卵液に牛乳を入れるのでは何がちがうんだろう?』」
 わたしは書き写す。
 なんだか頭の中でもやもやと引っかかるものがあった。答えを知っているのに、あと少しで出てこない。そんな感じ。
 そのとき、パパが遠慮がちに言った。
「ためしにもう一回やってみようか。材料ならうちにもあるだろう?」
 やってみようか。
 昔とおんなじように誘われて。
 わたしがぱっと顔を上げると、パパはニッコリと嬉しそうに笑ったんだ。

 実験室の台の上には、二つのボウルがある。
 一つにはカセットコンロで温めた牛乳が入っている。
 ふわふわとまだ湯気が立っていて、見るからに熱そうだ。
 そしてもう一つのボウルには『卵液』──卵と砂糖と小麦粉をまぜたもの。クリームを作るのと同じ量だった。
 卵液はどろっとしてて、なんだかホットケーキのタネに似ていた。
「じゃあやるぞ。理花はよく見てて」
 わたしが、うん、とうなずくと、そらくんが牛乳にスプーンですくった卵液を入れる。
 するとそれはすぐにカタマリになってしまった。入れたものがそのまま同じ形で固まる感じ。
 昨日と同じ。やっぱりここでカタマリができてしまう。……あれ?
 わたしはふと首を傾げた。
 カタマリ?
 その言葉がなんだか気になる。なんでだろう? そう思いながらわたしはそらくんの作業をぼんやり見つめた。
「あれ?」
 ふとそらくんが手を止めた。
「そらくん、どうしたの?」
「見て」
 そらくんがボウルを指差す。わたしがのぞき込むと、そらくんは卵液をぽちゃん、と牛乳に入れる。だけどもうカタマリにはならず、牛乳にじわりと黄色い卵液が溶けていく。
 あれ? え? なんでだろう? さっきと何がちがう?
「最後、なんか、カタマリにならなかった気がする。溶けたよな?」
「うん。そうかも」
 うーんと二人で唸っていると、パパがうしろから声をかけた。
「そらくん、ちょっとおじさんにも見せてくれるかい?」
 そらくんがうなずいてボウルを持ち上げようとする。わたしはあわてた。
「あ、熱いからだめだよ!」
 忠告は一瞬間に合わない。そらくんの手がボウルにふれる。だけどそらくんは平気そうだった。
「いや、もうかなりぬるいから大丈夫」
 そらくんが言ったとき、頭の中でぱっと何かがはじけた。
 ぬるい──そうか!
「ああああ! そうだよ! 熱いからだ!
 お湯に入れたらゆで卵になるのとおんなじだ!
 最初、牛乳はアツアツ。
 そこに入れた卵液は熱くて固まってしまう!
「もしかして、牛乳の温度が原因かも!」
 わたしがそう叫ぶとそらくんは「そうか!」と言った後、「あれ? でも……」と首を横に振った。
「レシピには温めた牛乳って書いてあったし。だいたい、牛乳を卵液に入れても熱いことに変わりはないだろ?」
「あ、そっか。そうだね……うーん、やっぱり『牛乳を』と『牛乳に』かあ……」
 やっぱりそこで行き止まりになってしまう。
 わかりかけている気がしたけれど、もやもやスッキリとしない気分だった。
 そのとき、とんとん、と扉がノックされる。
「おっじゃましまーす!」
 ママが元気よく言いながら入ってくる。手にはティーカップが三つのったトレイがある。
「みんなむずかしい顔ねえ。ちょっと休憩したら?」
 ママはお茶菓子を実験台の上にのせて、そしてカップを置いた。ぷうん、といい香り。中に入っているのはどうやら紅茶みたいだ。
「熱いから気をつけてね」
 なんだかソワソワした様子でそらくんに微笑みかけると、ママは出ていく。
 ともだちを家につれてきたことがほとんどないから、キンチョウしてるのかもしれないな。
 わたしはカップにふれて、ひゃっと手を引っ込めた。
「そらくん、これ、ほんとに熱いかも! ごめんね、ママ、お料理とかニガテなんだ……」
「それなら氷を入れたらいい」
 パパが言って、冷蔵庫からたくさんの氷を取り出した。
 するとそらくんが感動したように言う。
「すげえな、この実験室! なんでもある! 菓子も作れそうだし、むしろ住めそう!」
 わたしは笑いながら氷を一つだけカップに入れる。すると氷はしゅるしゅると小さな音を立ててみるみるうちに小さくなっていく。
「そらくん、熱いのニガテならアイスティーにしてもいいよ。氷はいくらでもあるからね」
 パパのアイスティーという言葉にそらくんは顔を輝かせる。たしかに部屋はちょっと蒸し暑いかもしれない。おでこのあたりがしっとりしている。
 わたしが窓を大きく開けている間に、そらくんは氷をカップに一気に五つ入れた。
 たくさんあった氷が、少しずつ同じ速さでじわじわと溶けていく。
 それを横目で見ながら、もう冷めたかな? とわたしはカップに口をつけた。
「あつっ……!」
「理花は猫舌?」
「うん、ちょっとだけ。だけどホットが好きなんだ」
 だってアイスティーにしたら味が薄くなっちゃうから。いつも、氷を入れるとしてもひかえめだ。
 ぽちゃん、ぽちゃん、と追加していく。飲める温度に下がるまでと、一つずつ。
 氷はさっきよりもじんわりとゆっくり溶けていく。口をつけるけどまだ熱い。
 じゃあ、あと一個だけ。
 次の氷を入れる。うーん、だんだん溶けなくなってきた……って、え? あれ? あれ!?
「あああああ! わかった……かも!?」
「え、なにが?」
 そらくんがキョトンとしている。わたしは頭の中を必死で整理する。
「一つ目の氷はあっという間に溶けたの。だけど、次の氷はちょっとだけゆっくり。三つ目の氷はそれよりもっとゆっくりと溶けた!」
「そんなのあたりまえ──」
 そう言いかけたそらくんもハッとした。
 わたしは力強くうなずく。
 どうしてそうなるかっていうと、最初はまだ紅茶が熱いから。
 最後の方は、先に入れた氷で紅茶が冷えているから。
 つまり──。
「卵液を牛乳に入れると、熱すぎるから、最初の卵液はあっという間に固まってしまうんだ!
 で、卵液に牛乳を入れたら、卵液で牛乳が一気に冷える! だから卵液はすぐには固まらない!」
「それだ! さすが理花!」
 そらくんはうわああ! と大きな声で叫び、思わずハイタッチをしてきた。
 ほんとうにあってる!?
 パパを見ると、ぱちぱちぱちと大きな拍手をする。
「大正解!!!! さすが理花~!!」
 みんなで、すごいすごいと大声を上げ、なにかで優勝したみたいなテンションだった。
 大興奮のわたしとそらくんに、パパはたずねた。
「説明、少しだけさせてもらってもいいかな?」
 わたしがうなずくと、パパは嬉しそうに説明を追加した。
「卵の黄身が固まる温度はね、65度から70度なんだけど、温めた牛乳の温度は90度くらい。だから理花が言ったように、最初に入れたものはすぐに固まっちゃうんだ。それがカタマリの正体。牛乳を卵液に少しずつ入れるとそれと逆のことが起きる。最初に入った牛乳はすぐに卵液に冷やされるんだ。だから熱くなりすぎない。どっちにどっちを入れるのかがとても大事なんだ」
 ああ、あってた! うれしい~~!!
 自分で考えて答えにたどり着くのは、やっぱりただ教えてもらうよりずっと面白かった。
「うん。やっぱり面白いなあ。料理って科学だなぁ」
 パパが楽しそうに言い、わたしははっとする。
 科学者のパパもパティシエのそらくんのおじいちゃんも同じことを言ったのだ。
 ああ、そっか。料理って、実験に似ているんじゃなくて、実は科学実験そのものなんだ。
 それなら、もしかして。
 そらくんが言った『究極の菓子を作る』ってことは、『究極の実験をする』ってことなんじゃないかな?
 究極の実験──そのひびきにドキドキとワクワクが止まらなくなってきて、わたしは大きく深呼吸をした。

 その日の夕方のこと。
 わたしは腕の中に抱えた本を頭上にかかげる。
 それは実験室から持ってきた元素図鑑だ。
 表紙の原石は、夕日に照らされ、昔と同じようにキラキラと輝いている。
 他にも昆虫図鑑、宇宙図鑑、恐竜図鑑──実験室にしまってあった本は全部持ってきた。
 久しぶりに手にした図鑑たちはずっしりと重かった。
 全部ゆっくり読み直そうかなと思って机の上に図鑑を並べてみる。ふと、図鑑の上を横切っていく小さな影をみつけて、わたしは思わず窓を見た。
 影の正体──網戸についていたのは、まるまる、つやつやな赤いてんとうむし。
「うわあ。ナナホシテントウ!」
 おいで、と言いながら指を差し出すと、てんとうむしはわたしの指にのぼってきた。
 もぞもぞというひさびさの感触に、わたしはじんわりと感動する。
 ああ、わたし、やっぱり虫が好きだなあ。
「わたし──理科が好きだなあ!」
 好きなことを好きって言えるって、なんて幸せなんだろう。
 人差し指を夕日に向かってピンと伸ばすと、てんとうむしは上を目指して登り始める。そしててっぺんまで来ると羽をふるりとうごかした。
「さあ、飛ぼう!」
 わたしがささやくと、てんとうむしは夕焼け空に向かって元気に飛びたった。

 それから数日たったある日のこと。
「そらくん。これから病院?」
 放課後の昇降口でわたしが聞くと、そらくんはニコニコ顔でうなずいた。
 今日はおじいちゃんの退院の日。
 つまり今日から本格的な弟子修業がはじまると、そらくんはすごくはりきっているんだ。
 そのせいか、朝からそらくんはウズウズしていて、先生に何回も注意されていた。
「修業、頑張ってね!」
「ああ!」
 そらくんはガッツポーズをするとすごい勢いで駆け出した。
 それを見て、わたしはちょっとだけ寂しくなった。
 おじいちゃんは本物のパティシエなんだから、きっともうわたしをたよらなくてもすむ。
 そらくんは『幻の菓子』を作るのが目標なんだし、それを目指して忙しくなる。
 だから、今までみたいに毎日のように実験はできないだろうなって思ったんだ。
 だけど──。

「理花、たのみがある!!」
 次の日の放課後、そらくんがあの桜の木の下でまちぶせてたもんだから、すごくびっくりしちゃった!
 どこかしょんぼりした顔のそらくんにわたしはあわてる。そらくんがここでまちぶせていたときには、たいていトラブルが発生しているのだ。
「ど、どうしたの、そらくん」
「それが……新しいスタッフが来ちゃったんだよ!
「ええええ!?」
 くわしく聞くと、スタッフ募集のはり紙を見て応募してきた人を、おじいちゃんが気に入ってしまったとのこと。
 そしておじいちゃんと新しいスタッフさんの二人でお店の営業を再開するから、まだ弟子候補のそらくんは、工房への立ち入りが禁止になっちゃったんだって。
 え、それって大ピンチなんじゃ……!?
「それ、で……えっと、たのみって?」
 ハハハ、と少し照れくさそうに笑うそらくんがしたたのみごとというのは──。

「おじゃましまーす! うわっ、やっぱすげえ! 冷蔵庫も、オーブンレンジもカセットコンロもあるし、何でも作れるじゃん!」
 そらくんのたのみごと。
 それはなんと、『わたしの実験室で一緒にお菓子を作りたい』だったのだ!
 わたしの答えは「いいよ!」だ。むしろ、ばんざいって言いたいくらい!
「この実験室で作った菓子で、こんどこそじいちゃんをギャフンと言わせてみせる! めざせ、究極の菓子職人!」
 そらくんがビーカーを両手にかかげて言ったので、わたしは思わずふきだした。
 そして、そらくんが究極の菓子職人なら……。
「じゃあ、わたしは……めざせ、究極の科学者!」
 思い切って真似すると、今度はそらくんが楽しそうにふきだした。
 笑い声が実験室からあふれていく。
 わたしたち、このおかしな実験室で、究極の実験、はじめちゃいます!

🍀本の情報はコチラ!

『理花のおかしな実験室(1) お菓子づくりはナゾだらけ!?』
作・やまもとふみ 絵・nanao
ISBN:9784046320421
定価: 814円 (本体740円+税)

★作品情報ページ
https://www.kadokawa.co.jp/product/322005000344/

🍀第2巻・第3巻のスペシャル連載はコチラから↓

第2巻『理花のおかしな実験室(2) 難問、友情ゼリーにいどめ!』

第3巻『理花のおかしな実験室(3) 自由研究はあまくない!?』