正解がないことをそのまま受け入れる
お客さんとミーティングする中では、その事業がいま直面している課題に対して、どういうアクションを取っていくかを一緒に考え、それをアプリケーションに落としていく。
簡単な課題であればいいが、正解のない課題、適応課題も多い。事業、時代、エンドユーザー、お客さん、技術…など挙げればキリがないが、さまざまな観点でそれぞれが激しく変化している世界の中では、プログラマもお客さんも再現性のない仕事、クリエイティブな仕事をしている。「このアクションなら成果が出ます」と断言できないシーンも多く、いつもお客さんと一緒に頭を悩ませながら議論をなんとか進めていく。
先日のふりかえりでは、「正解のない課題」に対して、まずは正解がないことをそのまま受け入れることが大切だ、と上司からフィードバックをもらった。そもそも仕事は適応課題であふれているけれども、難しく悩ましい課題のときは特に、「そもそもとして、これは難しい話だよね」と、プログラマもお客さんも改めて「これは正解がない課題だ」という前提に並んで立つことが大切、ということだ。
正解がないことを受け入れることで得られるメリットはなんだろうか、ふりかえりの中で上司と一緒に考え、今回は2つ挙げることができた。
1つは、課題に対して焦らずじっくりと向き合いやすくなること。焦らずじっくり、というとどこか程度の低い話のように聞こえてしまうが、少なくとも今の自分にとっては簡単なことではないと考えている。とても難しいこととも思わないが、あまり気にせずにミーティングに臨むと危険だと考えている。
実際にお客さんや社内の他メンバーと全力で議論しているとき、さらに自分がそのミーティングの進行も兼ねているとき(ミーティングでは基本的にメイン担当が進行をする)、果たして本当にそのトピックひとつひとつを適応課題として捉えられるだろうか?どこかに正解があるものとして、何かいいアイデアを捻り出しては、それが正解ではないために没にしてしまってないだろうか?もしそうであれば、まずは正解などないことを受け入れ、正解がある前提になっている自分の頭を切り離し、冷静になるのがよいと思う。
もう1つは、限定的であっても一定の可能性がある施策を検討しやすくなること、を挙げた。ここでいう「限定的であっても一定の可能性がある施策」とは、正解がないことはつまり、課題を100%完全に解消するような施策などないと捉え、そうであれば、たとえば30%しか効果がなさそうな施策でもやる意味が十分あったりするのではないか、というような考え方のもとで検討されるものだ。
複数の施策を実施すればその分効果は大きくなるかもしれないし、何か欠点のある施策であっても、何か別でその穴を埋めることを考えればよい。適応課題への対応とは、このようにいつも泥臭いものとして経験してきた気がするし、泥臭いゆえにクリエイティブなものだと思う。
ただ、この考え方自体は正解がないことを受け入れるメリットではなく、適応課題へのアプローチのうちのひとつである。では正解がないことを受け入れることのメリットは何なのかというと、それはこの考え方に切り替えやすくなることだと思う。
つまり、課題へのアプローチを考える脳を、対「適応課題」用の脳に切り替えられる、という意味でメリットがあるということだ。対象を正しく捉えることで、初めてそれに適したアプローチを考え始められる。こう帰着すると、1つ目と同様に、書いている自分自身から見ても程度の低い話のように思えてしまうが、自分の理解として整理できたことはとてもよかった。
正解のない課題へのアプローチや施策をどう考えていくべきか、については改めて学びをまとめていきたいが、それもそもそも正解がないものだ、となってしまうかもしれない。ただ、難しい仕事に取り組み続け、その都度のふりかえりで断片的にでも学びを得ていくことで、適応課題に対峙する際の巧さ、あるいは粘り強さのようなものを得ていくのだと思う。それが成長するということだと思うし、そういったことにやっと気がつき始めたので、最近は仕事を楽しいと思える瞬間も増えてきたように思う。