「非器質的情報収集障害」という考え方
東北の片隅で、東京の雪害の様子をテレビで見ている。
東京は数年に一度は積雪災害に見舞われているものの、ずっと積雪に弱く、悩まされ続けている。道路も鉄道も空港も除雪体制が薄く、基本的には凍結防止剤を撒いてそれでも積もれば通行止め(あるいは運休、閉鎖)する、という消極的な姿勢である。数年に一回の災害でも、特に大きな人的被害がみられるわけではないからか、除雪などの積極的な対策はできないらしい。
積雪だけではなく、大雨や暴風などどの気象災害の時も、東京はパニックになる。交通遮断による帰宅難民はその最たる例だ。地震ならまだしも、低気圧はいきなりはやってこない。3日前には予想され、気象庁やメディアから発表される。にもかかわらず、東京はパニックになる。
東京は情報の最前線にある。ゆえに東京に住む人は常に情報の最前線にいる、というのは大きな誤りで、そのような人とそうでない人がいる。考えてみれば当たり前のことだ。そして、情報へのアクセスが確保されていながら(受動的な状態でもある程度の情報が入る状態なのに)、必要最低限の情報すらも得ようとしない人たちが一定数いる。
積雪時にノーマルタイヤで自家用車を運転したり、交通遮断が予告されている時に無闇に出かけたりするタイプの人は、職場や家庭では自らの責務をこなそうとする勤勉な人たちで、社会に対し害意は特には無く(他人にも自分にも)、しかし確実に害を為す存在である。彼らは何者なのか。
彼らは結局のところ何者でもない。あらゆる属性も、知的水準も、身体能力も関係無い。強いて言うならば、情報弱者となりやすい非日本語話者と視聴覚の障害者は情報収集に殊更の注意を払っているので、むしろ必要な情報は得られているケースが多い。
「情報へのアクセスが確保されていながら必要最低限の情報すらも得ようとしない人」は、ある精神状態にあると言える。
耳で聴こえている、目では見えている(視野には入っている)にもかかわらず、自分に必要な情報を選別できない状態というのは医学的に観察されているのだろうか。
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