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神籬

「ふと、なぜか思い浮かんで」という時に何気なく口にしている「ふと」という言葉は漢字だと「仏図」と書く。

「仏図=仏様の意図」つまり、"神様や仏様の意図で私たちにしてほしいこと" を本人が感じ受け取った時に「ふと」という言葉を無意識に使う。

そんなことをへとも思わない人もいるかもしれないけれども、僕はこの「ふと」という一瞬のひらめきを大事にしたい派なので、先日ふと思い浮かんだ「神籬」という言葉をなぜ、感じ受け取ったのかについて思考をめぐらせてみた。

絵を描く時もそうなのだけれども、その一瞬のひらめきを逃してしまうと、それはすぐに水のように流れてしまうからだ。「ふと、ここに行きたいと思って」「ふと、これがやりたいと思って」という瞬間にその「ふと」に意識を向けなければすぐにそれは煙のように消えてしまう。水のように流れてしまったり、煙のように消えてしまったり、瞬間に生きるこの「ふと」という感覚はどうやら一瞬一瞬を今に生きている人に敏感に察知できるようになっているように思う。

おそらくこの「神籬」という言葉がふと思い浮かんだ時に「え、これってなんの意味があるの?」「これについて考えたところでそれって人生の+になる?」みたいな考え方が前提の場合はおそらく全スルーだろう。マッハでそれは通り過ぎる。バッハだったらそれを見逃しはしない。そんな僕も前者の考え方が前提だったら、絵を描き始めていなかっただろう。アルコールインクアートを見て、「これって何を描いているんですか?」と聞かれるのとおなじだ。


ここでひとつ、読んで下さっている皆さんに質問です。



「神籬」という言葉を見て、
どんな印象やイメージがありますか?どう感じますか?

すでにこの言葉の意味を知っていたりわかるよ!という方に関してはすぐに思い浮かんだものがあるかもしれません。


そうじゃない方にとっては未知の生物と出逢うような感覚で、あらゆる経験や知識や想像を総動員して考えを巡らせてもらったかもしれません。

いや、そんなのいいから、はやく答えが知りたい、という方はおそらく考えを巡らさずに指を上へ上へとスクロールしているかもしれません。

前置きが長くなってしまったけれども、「神籬」は「ひもろぎ」と読む。この言葉の語源は、「ひ」は「神霊」、「もろ」は「天下る」の意味の「あもる」が転じたもの。「き」は「木」とされ、繋げて直訳すると「神霊が天下る木」「神の依り代となる木」の意味になる。

新居を建てたりなどをした方は見たことあると思うけれども、建築工事や土木工事が始まる前に行う「地鎮祭」の時に祭壇の中央に祀られたりするやつだ。ハウスメーカーの営業職で働いていたその頃はまだ「神籬」という言葉を知らずになんとなくボーッと見ていたと思う。

個人的に感じ受け取った感覚だと、「神様とつながるための聖地、聖域」のようなイメージだった。「神様」って言うとなんだか雲の上の自分とは一切関係ないような存在、みたいに思う人も中にはいるかもしれないが、ここで言う神様は「自分自身(自分自神)」つまり、「自分自身とつながるための聖地、聖域」という言葉がふと思い浮かんだわけだ。


こういうメッセージがふと思い浮かんだ時に大事なことは、いかに固定概念の囚われから自由になれるか。その言葉やシンボルが定義する「〇〇とは、こういうものです」というものから離れて、「自分自身がどう感じるのか」という点。

どういうことかと言うと、これまでにアートセラピーを土台にした個別のアートセッションだったり、アルコールインクアートのワークショップなどをさせていただく中で、

例えば「青」の色を見た時に「どう感じますか?」という問いかけをすると「海」や「空」を思い浮かべる人は多いと思う。これは集合的無意識、人類共通の普遍的なイメージを持っているから。「赤」の色を見た時に「炎」や「情熱」や燃え上がるイメージが浮かびやすいのとおなじで。

ただそれはその人個人の体験や価値観とは異なる、いわゆる「みんなにとっての共通の感覚のシンボル」であるため、より「自分自身がどう感じるか?」ということに関しては、いかに固定概念の囚われから自由になれるか、が大事だったりする。

本題に戻すと、「神籬」である「自分自神とつながるための聖地・聖域」と聴いて、その空間をイメージしたらどんな空間が思い浮かぶだろうか?言い換えれば、「魂に刻まれている聖地」とも言える。それはどこか遠く?それとも、今住んでいる場所だろうか?心の中に思い浮かぶ心象風景かもしれない。もしくはアネモイア?その時代を経験していなくても、どこか懐かしい故郷のような場所のことをアネモイアと言う。

僕は絵を描いている時。こうして何も考えずに無我夢中に溢れ出てくる言葉を綴っている時。瞑想中に深呼吸を繰り返して、だんだんと意識が深くぼやけてきて、無意識と意識のあいだでゆらいでいるような時。深く深くつながりのある人と自然に流れるような会話をしている時。何も語らずとも語ってくれる自然の中を歩いたり、一人静けさに包み込まれた神社やお寺の空気を無心で感じている時。

自分の心地よい人間・空間・時間の「間」を感じれば感じるほど、今がその「間」へと変わってゆくのがわかる。自分自身が居る間、うまり「居間(今)」が「自分自身とつながるための聖地・聖域」だと気づいてゆく。


だからこそ、その「間」を感じるためには、日々の中で「余白」が必要になってくる。頭の中が常にギュウギュウであれば、感じられるものも感じられず、出るものも出ない。自分自身の違和感センサーが働くもので心地よくないものは手放すべきであるし、手放さなければならない出来事が起こる。


明るいだけでは落ち着かなくて、暗いだけでは消え入ってしまいそうで、暗さの中にある明るさをその絶妙なバランスをずっとずっと探している。世界が美しく感じられる自分の心の中の照準を真ん中に合わせるように。

「自然のうつろい」「いのちのつながり」の中で、風や呼吸を通して、今日も絵を描いている。


古代ギリシアでは、風が命を吹き込む力を持つと信じられ、呼吸と風のつながりから、風は魂や生命の象徴とされた。


人間は本来、自然の一部であった。人間と自然を分離されるのではなく、自然の中にもいのちがあり、自分のいのちのなかにも自然がある。大切なことを忘れてしまわないようにと。カタチにのこしていきたい。生きていることを忘れないように。

【水鏡の華 #1】



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