見出し画像

【動画にしたら10分間のストーリー】彼女の自分再生物語

1 悩みといえば悩みのこのごろ

 ふうっ。
 ヒトミは、キッチンのテーブルの前に座って、盛大なため息をついた。
 ため息の大きさに、彼女自身がびっくりして口を手でおさえた。

 午前9時。
 夫はすでに出社している。
 娘の和香(わか)は、あと1時間くらいしないと起きてこない。
 夫のお弁当を作って、送り出して、キッチンを片付けて。
 いつもなら洗濯して掃除して、と、動き回っているところ。
 今日は、思わず椅子に座ってしまった。
 体がだるい。
 これは、更年期障害というものなのだろうか。最近、横になりたくてたまらないときが出てきた。そういえば、毎月来ていた生理も、3か月に1回くらいになってきたっけ。

 今日の掃除は、床だけ簡単に掃くだけにしよう。
 
 ふう。
 こういうのを、悩んでいるというのかな。
 ヒトミは、今日何回目になるのか、ため息をついて考えた。
 夫と結婚して以来、専業主婦として生きてきた。
 金銭的に苦労したことはない。
 娘は同居しているけれど、もう手はかからない。
 夫のお弁当を毎朝作るのは、楽しい。
 ご近所さんには「悩みがなくていいわねえ」なんて言われる。

 わたし、恵まれているのに、悩んでるなんて言ったらバチが当たっちゃうよね。
 
 もし、今、娘が完全に独立して家から出て、夫のお弁当を作る必要がなくなったら、自分自身の価値ってどこにあるんだろう。

 そんなことを、ヒトミは、つい、毎日考えてしまう。
 新聞の折り込み広告の中から裏が白い紙を選んだ。娘のおさがりのシャープペンを使って、目の前のマグカップをスケッチしてみる。


2 娘と母の会話

 午前10時過ぎ。
 娘の和香が起きてキッチンにやってきた。
「お母さん、おはよう」
「おはよう。何か食べる?」
「うん。あ、自分でやるからいいよ」

 そう言うと、和香はホットケーキミックスと牛乳と卵を混ぜて、フライパンで焼いた。
 手際よくホットケーキを1枚ずつ仕上げていく。
 上手に作るなあと、ヒトミはわが娘を眺めていた。

「ホットケーキ、余分に焼いたからおかあさんのお昼かおやつね」
 ムーミンのワンポイントイラストが描かれている皿を2枚出して、和香はそれぞれにホットケーキを乗せた。
 ホットケーキは、上手に均等に焼けている。
「おかあさん」
 自分のホットケーキにマーガリンを乗せて、和香が言った。
「わたし、ファミレスのバイト、向いていると思うの」
「そう。よかったわ」
「就活に失敗して内定はとれなかったけど、ファミレスのバイトをみつけてよかった。わたし、社員の中途採用試験を受けてみようかと思って」
「すごいわね」
 和香は、メイプルシロップをたらりとホットケーキに垂らす。
「わたしは、大丈夫」
「うん」
「だから、次は、お母さんよ」
「え?」

「お母さんが、夢をみつけるの」

 そういうと、和香は「バイト行ってくるね」と、キッチンから出ていった。
 和香が出て行った後も、ヒトミはキッチンで呆然としている。
 


3 昔は夢があったんだっけ
 

 夢、ってなんだろう。
 わたしは、何になりたいんだろう。

 娘の和香の言葉が、ヒトミの頭の中でぐるぐるまわっていた。

 夢。

 娘は自分の道を見つけたという。
 次は「お母さんが夢を見つける」のだという。

 イラストレーターになりたい、と、ヒトミは子供のころから思っていた。
 絵を描くのは好きだったし、図工や美術も、絵を描く授業は好きだった。
 立体の作品を作るのは苦手だった。

 小学生の頃、近所で見た猫の絵、道の脇に咲いてるホトケノザ、お母さんの横顔、おじいちゃんがお酒を飲む姿、テレビ、夕飯の食卓、机に積み上げた問題集の山。積み上げて絵を描いてないで問題集やろうよ、と思いながらなんでも目に入るものを描いた。

 ある日、描いていたスケッチブックを母親にみられた。
 怒られるかと思ったら、自分よりうまいと母親は意外にもほめてくれたのだ。次の日曜日には、電車で5つも先までいって画材屋で36色のクーピーペンシルを買ってくれたのだった。

 描いた絵を母親にみせると喜んだ。
 父親は、一目見て「やるならプロになれ」と言った。
 絵画教室に通うことも考えてくれたらしいが、講師の趣味やへんな癖がつくと個性がなくなる、と、父親は反対した。そのかわり、絵に関する本を読んだ。
 
 美術大学に行くか、専門学校に行くか、ヒトミは考えて、専門学校を選んだ。
 就職につなげたいと思ったから。
 実際は、2年制の専門学校に入学したものの、2年にあがってから妊娠がわかり、学校を辞めた。9つ年上の夫と結婚をすることで安定を選んだのだと、周りから言われた。親は「それでいいのね」とだけ言って、ヒトミがうなずくと結婚と妊娠をとても喜んでくれた。

 和香が幼稚園に通っているとき、小学校に通っているとき、中学校に通っているとき、高校生になってから、ときどき、ヒトミは学校のニュースなどにイラストを描いた。
 ママ友にほめられると悪い気はしなかった。
「イラストのプロ?」と聞かれると、プロとして仕事をしているわけではないと答えた。ちょっとだけ、残念に思う自分とプロではない自分をくやしいなあと思うこともあった。
 けど、これでいい、と、ずっとずっと思ってきたのだった。

 ヒトミは、娘の和香に「お母さんが夢を見つけるの」と言われてはじめて気がついた。

「これでいい」って心のどこかであきらめていたと。
 本当は、プロのイラストレーターとして活躍する人生が自分にはあったのかもしれない、と。


4 夫と妻の会話

「俺のこと、恨んでるんだろう」
 ヒトミがイラストレーターを目指したい、と告げた夫の第一声はこれだった。
「はあ?」
「だってそうだろ。あの時、専門学校を2年で卒業してたら、イラストレーターとしての人生があったはずなのに。俺が学校辞めさせて、夢をあきらめさせたんだから」
 夫の話を聞いて、ヒトミはちょっと頬をふくらませた。ぷん、と、頬に空気を入れた。
 どう言おう。
「あのね」
 夫は、ヒトミが話し出すと改めてキッチンの椅子にまっすぐ座った。
「わたしは、和香を生んで育てて、あなたといっしょに過ごしてきました。あなたは会社に、わたしは主婦業に。それは、あなたがみて幸せじゃなかったって思ってたの?」
「そういうわけじゃないけど」
「せっかく結婚して子供の父親になった人を、なんで20年以上も恨んで暮らさなきゃいけないのよ。わたしの人生、そんなに悲しい?」
「……どうしたらいいんだよ。明日、離婚届とってくればいいのか?」
「ばか! そんなんじゃないわよ。あなたの会社でいちばんたくさん色が入ってる色鉛筆は、何色?」
 夫は、ずっと色鉛筆を作っている会社の営業職だった。ヒトミが通っていた専門学校でも販売していたから、二人は出会ったのだ。
「えっと、72色かな」
「じゃあ、わたしが改めてイラストレーターを目指すはなむけに、社員割引で72色の色鉛筆、買って」
「わかった」

 夫は、今日、はじめて、ヒトミに笑いかけた。
 ヒトミも、夫に笑顔で応えた。

 今夜は、YouTubeで技術を紹介している動画をたくさん観よう、と、ヒトミは決めた。


サポートしていただいた金額は、次の活動の準備や資料購入に使います。