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「学び」がわからなくなったときに読む本のアンダーラインおよびちょっとしたメモ書き
鳥羽和久さんとのトークイベントを終えて、本の読み込み(たった二回とはいえ)はあったとしても、未読者にやさしくないトークをしてしまったことを少しばかり反省している。
掘り下げることのみならず、押し広げること。
余白を持って、自由な問いを投げかけること。
そういうことを忘れてしまっていた。
というか、余白をつくったときに、それが即興として自分の想像を超えた展開になることを期待しきれなかった自分の能力不足を思う。
そんな不安ばかりだったぼくは以下のようなアンダーラインを引いた箇所を書き写したメモ書きを手元のiPhoneに持ちながら、迷子にならないためのお守りとした。そしたらお守りによってがんじがらめになった。とはいえ、そんな準備がまったくの無駄だったとも思わない。
まさにいろんな意味で「宙づり」になることができなかった。
次なる機会があったら、謎が謎としてもやもやと残る、サスペンスとしてのトークイベントを目指したい。
なにはともあれ、そんな反省ばかりのトークイベントのアーカイブは以下から見ることができるので興味ある方はご覧いただけたらうれしい。
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そんなわけで(どんなわけだ?)、ぼくが書き移したアンダーライン(と少しのメモ書き)を以下に共有しておこうと思う。読書後にゆっくりとおさらいとして見ていただくもよし、未読時に内容をざざざーっと試し読みするかのように使っていただくもよし。自分用のメモ書きにすぎないので、またメモを書き足すこともあるかもしれないのであしからず。
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第一章 何のために勉強するのか 千葉雅也
千葉:人間の持っている(苦みを含めての)複雑さ、人間がどういうふうに主体化していくかということの複雑さを書いてくれる人。
鳥羽:「学び」という言葉が使われすぎて陳腐化したいま、新鮮なワードとして響く「勉強」。
→「学び」:「勉強」は「暮らし」:「生活」に近いように感じる。『学び本』と題された本の冒頭で、これを言ってしまう鳥羽さんの素直さたるや。
千葉:計算をからだに馴染ませるような手を動かす時間、暗記トレーニングによる脳の器が大きくなった実感。倉庫がない工場などない。
千葉:勉強とは「自分専用のAIエンジンをつくること」であり、その人らしさはその先に発現する。
まずは機械になること。
機械になりきれない人間を包摂するよりもむしろ、機械の向こう側に見たい人間らしさがある。
第二章 リズムに共振する学校 矢野利裕
鳥羽:塾のミッションは、志望校合格支援であるという初期設定を忘れない。
矢野:踏み込むというリスクを引き受ける(無難なラインを一歩踏み越える)からこそできる信頼関係。
矢野:ガイドライン野郎
鳥羽:AとBの分断が語られるときに隠蔽され忘れ去られるのは、多くの人はAの範疇におさまることができずにAと同時にBを生きているような矛盾体である。
鳥羽:僕が塾をやってよかったと思うのは、「経営」を学べたことです。僕自身が学校に対して抱いてきた疑念への反抗として、塾はとても性に合っていましたが、それ以上に経営という非常に人間臭い営みを経験できたことがよかった。
鳥羽:経営は潔癖でやってはいけません。自覚的に嘘をつくことが必要です。そうやって嘘で調整していくところに人間の尊厳を感じるんです。
鳥羽:自由意志にかこつけた自主性と違って、主体性はコントロールできるような生易しいものじゃない。だからおもしろいんですよね。
第三章 家庭の学びは「観察」から 古賀及子
古賀:「感想」を持つことを避ける。何かを「思う」ことにあまり興味がないんです。...私が思うとか、思わない、にかかわらず、目の前にすでに何かがあること時代に興奮を覚えると言いますか。
鳥羽:精神分析では、感情というのは心の表面であり、むしろより深い真実性に接近しないための擬制だという認識がある。
古賀:「気づく」のとき、人は比喩的になりますよね。「この感じ○○みたいだな」と。
「学びがわからなくなったときに読む本」第3章における、思うんじゃなくて気づく、において語られる古賀及子さんの、「気づく」のとき、人は比喩的になりますよね。「この感じ◯◯みたいだな」と。(92頁)このメタファーが修辞としてではなく、自分ごとの抽象化を経て本当の理解に至るこの経路、腑に落… pic.twitter.com/OEwWn39nBR
— ツバメコーヒー (@tsubame_coffee_) October 17, 2024
家族の絆とか言われたらゾッとするし、いちばんの嘘って感じがする。
古賀:私はお母さんらしさを模倣・トレースでやってるな、というのは子どもを持ってからずっと思ってる。
鳥羽:人生の主人公になるというイメージよりも、ドラマトゥルギー的にかりそめの役をこなしてる感じはあります。
鳥羽:自分を役柄にしておくことで、キツくなったら一時的に降りることもできるし、誰かに預けることもできる。
鳥羽:学歴社会の効力を認めることは、受験に向いていない子はあらかじめヒエラルキーの下位にいると認めることと同義です。だから、学歴社会の価値観を信じる人ほど「誰にでも可能性はあるんだ」と苦し紛れに言いがちだけど、そうじゃない。それは虚偽です。
鳥羽:親はもっと適当でよくて、子どもだって親は自分勝手に生きてる一人の人間なんだと体得することで、子どもも自分勝手に生きられるようになるんです。
古賀:よく「日記を書くコツはなんですか?」と聞かれるんですが、自分の生活のユニークネスを、使い古した言葉を使わずに自分で見つけた言葉で書く、これに尽きると思っています。(116頁)
第四章 世界が変わって見える授業を 井本陽久
井本:学んだ解法に沿って正解を導くのではなく、いまある自分の手持ちでなんとかする。そうして自分なりの道をたどっていくなかで、気づかぬうちにいろんなことが身についていく。それこそが本当の学び。
ブリコラージュ的ななにか
井本:いまの授業のデザインは、僕が考えた結果じゃなくて、教室で子どもたちとやりあって、生まれていったものです。僕がやったことがあるとすれば、目の前の子どもたちがもっとおもしろがれるように「整える」ことだけ。
井本:「正解」を出すためには自分を消さなきゃいけない。でも本当に大事なのは考えるプロセスです。プロセスにこそ、自分自身がある。子どもたちは、誤答であっても、それが他の子たちの心を動かせば嬉しい。僕はそのためだったら、いくらでも準備をがんばることができる。
井本:例えば不登校の子はそこ(良い学校に進める保証・学歴)から離れてしまっている分、社会的な価値をすでに手放しているから、ある種、自立しているんです。
井本:塾は受験に特化していると思われているけれど、そういうところばかりではない。覚悟さえ持てば、学校よりも自由度の高い、思い切った学びができる。だからこそ、塾の先生が子どもを救える可能性はかなりあると思っています。
→学校よりも自由度の高い、思い切った学びができる「塾」という「擬制」
井本:いもいもは「結果を保証します」という契約じゃなくて、思いに共感してもらってるから、うまくいっているのかもしれません。
井本:森の教室の良さは、スケジュールがないこと。...暇でしょうがないから、自分で暇つぶしをする。...「森」という空間と、「ふんだんな時間」がもたらす学びは本当にすごい。
「将来への備え」「先回り」の弊害
井本:僕は「できる/できないはどうだっていいんだ」という話をいつもするんですけど、「それって極論ですよね?」というニュアンスで受け取る人が本当に多くて。みんなをひきつけるためのに極端な方法論を提示していると誤解されちゃう。子ども自身、正解なんて知りたいと思っていないんです。それもなかなかわかってもらえない。
「その欲望、どこから借りてきたん?」
井本:不登校の子が「逃げてる」という見立ては違うんじゃないかなと思うんです。「いもいも」に来る不登校の子も、逃げているようにはまったく見えない。いや、むしろ、「社会」になってしまった学校から距離を置いて、自分だけの頭で考えるのはすごいことだと。鳥羽:不登校の子と喋っていると、ちゃんと自分の欲望で生きている感じがして、本当におもしろいんですよ。学校が社会への従属を強めているいま、そういう逆転現象が起こってしまっていると感じます。
鳥羽:抽象化思考は大事なんだけど、それだけが頭のよさを測る基準になるとダメですね。抽象化とは他にはない唯一の個別性を捨象すること。そのいびつさ、恐ろしさを知らないのはとても危ういことです。(147頁)
第五章 「言葉」が生まれる教室 甲斐利恵子
甲斐:東京の公立中学校とまったく違うこの環境に来たら、いつまで蓄積してきた力で自分はどんなことができるんだろうか。これまでつくりあげてきた枠組みが全部、壊れるんじゃないか。
甲斐:私の役割は、その言葉を血肉化する手助けをしてあげること。
甲斐:大村の話で恐縮ですけど、子どもに「どう思ってますか?」と聞くのは「ちょっと品がないですね」と、彼女は言っていました。つまり?/根底には/そもそも、は本質に立ち返っていく言葉。
甲斐:知らない言葉であっても自分の頭やからだを一度通すと、それは血となり肉となると思います。(164頁)
鳥羽:大学、殊に人文学は「言ってはいけないこと」を抜きにして、無条件に「本当の言葉」をぶつけ合う場にならなければならない。
第六章 からだが作り変えられる学び 平倉圭
鳥羽:日本では多様性という言葉が実質をともなっていません。...多様性というのは混沌とした収まりがつかないものなのに、それが単なるイマどきの言葉として消費されている。それに比べて、この地でダイバーシティ教育が根づいていることは羨ましいし、子どもたちにとってはシンプルに刺激的だろうなと思います。
鳥羽:『かたちは思考する』における「からだを作り変える」という話が、僕にとっては一種の解放であり、福音のように響きました。自分が幼少時代からとらわれていた。からだの「こわばり」を解除するためのヒントがたくさん含まれていると感じて、切実に読んだんです。
鳥羽:いまとなって考えてみると。教会で辛かったのは、告解です。自分の犯した罪を、神父に定期的に告白しなくちゃいけない。...反省は言動だけではなく内面にまで及びます。この時期に「罪深い自己」というものを徹底的に内面化したのだと思います。
平倉:私の研究の中心的関心は、見る人のからだと芸術作品が互いを巻き込み合うときに、そこから生まれてくる新たなパターンを記述することです。
鳥羽:自分自身を振り返ると、告解とは、罪という曖昧な概念を言葉によって恣意的に立ち上げていく行為でした。ということは、僕は正座だけではなく言葉による内省によって自分のからだをこわばらせてしまったのかもしれない。...言葉の獲得についての正の面と負の面が浮かび上がったときに、子どもの前で立ちすくんでしまう自分がいることを感じます。
平倉:整備されていない山道では、斜面に対するからだの動かし方は即興的に決まっていく。...斜面という「問題」をからだで「解いて」います。(203頁)
平倉:絵のなかで、いまどれほど特別な感覚を得ていたとしても、それを言葉にしないと、持ち帰ることも共有することはできないからです。感覚は、絵の前を離れたそばからどんどん消えていきます。だから私は授業で「概念化」を重視しています。...自分のからだがつかまえた一度きりの特殊な感覚が、何度も思い出すことができ、他者と共有しうるものに変わるんです。
鳥羽:「トンネルを掘ることは、複数の時間で動き続ける大地の内部に、一貫した時間と空間を得ようとすることだ」(『かたちは思考する』「断層帯を貫く」)...そこに一貫した時間や空間を通すのは、彼らの言葉でいうと「無理ゲー」に近い。かといって一貫性を通すのは「悪」だから諦めるのも違う。そんなことを考えながら、自分の問題に引き寄せてこの論考を読みました。
平倉:(東日本大震災が起きて)「知覚の変化が世界を変える」という自分の芸術論はなんて弱いものだったのか、と痛感したんです。知覚の撹乱だけでは世界は変わらない。私の研究はこの世界の物質に根ざしていなかった、と。それから一年、研究もできなくなりました。...自分にとっての「書くこと」を物質に根ざした仕方で再発明できないか。そういう実存的な動機で書いたのがこの文章だったんです。
平倉:自分のからだを抑制できて、学校の勉強もかなりできてしまった。しかし同時にそのことの「耐えがたい」と感じる感覚もあって、ときどき爆発してしまうんです。...不登校という挫折を味わいながらも、高校生ながらに、「この爆発したからだのほうが本当なんだ」ということははっきりわかったですよね。それでこのとき得た感覚を生かせるのは芸術や哲学だと、しだいに知っていくわけです。
平倉:「解読」(子どもを解像度高く見る)について言うと、...謎をかたちづくっている作品の襞や起伏に、そのまま「からだを沿わせる」ということに関心があります。育児で言えば、私自身、子どもと接するときに気をつけているのは「子どもの秘密を暴きすぎない」ということです。
第七章 子どもの心からアプローチする 尾久守侑
鳥羽:尾久さんのように、優等生としての自覚を持ちながら、一方で詩を書くような営みを同時にする子は見たことがない...社会性を身につけることが、どこか自分の言葉を捨てることだと感じているのだと思います。
尾久:思春期を通じて、自分の中心に固い芯のようなものがつくられた人は、それが思考や行動の基盤になると思うのですが、芯にならず半熟だったり液体だったり空隙だったりする人もいまは多いですよね。そうなると、芯以外の何かで自分を確立させないといけない。僕は芯がない分、外部に引っ張られやすい自覚があるのですが、その外部を増やしたり、引っ張る外部同士を調整することで、一見、確立した人間を装っているような気がしています。
→思春期を実演しながら俯瞰している(鳥羽)
・擬態(≒過剰適応)と憑依
周りをみていると、学生時代に勉強をしてこなくても、何歳になっても勉強で覚醒することはできるんだなということはわかります。覚醒というのは、つまり自分が通ってきた道を再開通させること。自分らしく生きるという感じです。
鳥羽:学びとは、自分の欲望の所在を明らかにしつつ、その風通しをよくするような行為だと思うんです。
鳥羽:パーソナリティというのは固定的な個性ですよね。一方でライフサイクルという見方をすると、人柄や個性みたいなものは、流動的で、可塑性のあるものだととらえることができる。
→動的平衡みたいなイメージ
尾久:「『別れるために新しい人に会う』という刺激に中毒性を感じる」(「人間関係リセット)出会いの刺激より、別れのエモさがアディクトしている自分を発見しました。
尾久:精神科医は病気を見抜くのは得意なので、そこを判断してもらうという点では有益なんです。でも、普通の子が抱えているトラブルや学校での悩みは、医者が解決できるものではないと思います。その子が生活している空間での人間関係の調整だから、医者の手には負えない。
尾久:来院した子どもの話を聞いていると「精神病じゃなくて、家庭の問題ではないか」というケースばかりです。......「親に問題があります」「学校でトラブルがあるのでは?」とは、とても言えない。だから何度受診してもらっても、打ち解けてきたタイミングで、マイルドに直面させていく方法を取るしかありません。
鳥羽:小学校で僕の本を読むというのは言葉を与えすぎなんです。「僕の本に興味がある人は、十五になったら読んで」と伝えています。読解力のある小学生の子が言葉を獲得しすぎると、現実を受け止める感度がむしろ鈍くなってしまう。
尾久:境界知能ぐらいの人の一部は、受診時に難しい医学用語を多用しがちです。相手に見くびられないための防御反応なんです。そうやって生き延びてきた人が、必死に用語をつなぎ合わせて、取り繕っている。そういうときは本人が持っている言葉は奪わないほうがいい。
尾久:対人の仕事はどれだけ地獄をくぐったか、その経験値がすべてだと言っていい。
尾久:九割の精神科医は心なんて興味ないんですよ。彼らの関心は「病気」であって、「心」ではない。
尾久:医者が「病気」だけを見て、治せたつもりになってしまうのでは、患者さんが心の問題を自力で解決していくからなんです。薬を飲みながら、自分自身でトラブルと向き合って、少しずつ解決していくからなんです。薬を飲みながら、自分自身でトラブルと向き合って、少しずつ回復していく。だけど、その回復は医者や薬のおかげだったと、患者も医者も勘違いしてしまう。鳥羽:確かに塾や学校でも、成績は子どもたちが勝手にがんばった結果、上がっていくものなのに、「先生のおかげ」と勘違いする指導者は後を絶ちません。