私はずっとたぬきのままでいたかったんだ
いつもお世話になっている「書く部」のことばと広告さんがこんなnoteを投稿されていた。
共感が過ぎる。
私は今までXによくいる方だったんだけど、最近はどちらかというとnoteの出没率の方が高い、気がする。Xが嫌いになったわけじゃないけど、なんとなくあまり足が向かなくなっている。なんでかなあと自分でも思っているところだったから、これを機にちょっとnoteの距離感について自分でも考えてみよう。
ことばと広告さんはnoteの距離感がちょうどいいと感じる理由についてこんなふうに表現されていた。
確かに。
私がZoomをずっと怖いと感じていたのはことばと広告さんがいう「モロ」な感じが強いからだと言葉にされて腑に落ちた。Zoomって参加者のエネルギーが強いし、直にそれを感じられるのが魅力のひとつでもあると思う。
でももし「書く部」の活動がZoomで集まって「みなさん、どもー!」みたいなのだったら……考えただけで恐ろしい。たぶん参加すらできなかっただろう。
これまでもオンライン講座で、何度もZoomを使用することはあったし、Xで仲良くしてもらってる人とZoomで話すこともあった。
ただ、仲良くならないとZoomで話す勇気は出ないし、ましてや不特定多数の参加するオンライン講座ではどうしても必要なとき以外は顔出しで参加したことない。
要は、自分のリアルな姿を見られたくなかった。
姿を表すというのはそれまで「文章の中だけに存在する私」から「モロ現実に存在している私」になることだから。
これまで散々Xでもフォロワーさんとやり取りをしていて「なんとなく人柄を感じる瞬間」というのはあった。不思議なことに顔をまったく知らなくても、ずっとつぶやきを読んでいると「この人はこんな感じの人かな?」と人物像のようなものができてくる。
それが、顔出しでリアルな姿を知ってしまうと一気に「本当に存在している感」が出てくる。今までやり取りしていた人は、実在する人間だったんだ、と当たり前すぎることを実感させられる。
別にそれを知ったからといって、誰かに失望することはないのに自分のこととなると怖い。
私はできることならずっとアイコンのたぬきのままでいたかった。
ずっとXにいると、それがだんだんと難しくなってくるような気がする。
やり取りをすればするほど、人柄は現れてしまうし人間になってくる。
noteでも毎日、毎日記事を書いていたら、だんだん裸に近くなっていくような感覚に陥ってくるし。
書くことは裸になるのと同じことだし、そうじゃないと人の心を動かせないと思うんだけどそれは同時にすごく怖いことでもあって。
「この人、いい人ぶってるくせに本当はこんなこと考えてたんだ」
「うわ〜〜いい歳して痛いヤツだ」
なんて思われてるかもしれない。
でもいい歳してたって、いつまでたっても自分が思う理想の大人にはなれないし、現実では聖人じゃないんだから悪いこと言ったり考えたりしてしまう。せめて文章の中でくらいは、理想の自分に近づきたい。
そういう青臭い願望も含め、noteはふんわり「許されてる感」があるんだよね。
普段、ちゃんとした大人を演じてる人たちが実はこんなこと考えてるんだ、っていうのを受け止めてくれる土台があるというか。
Xみたいな拡散力がないから、それが逆にゆるくて居心地がいい。そういうところが継続にもつながってるのかもしれない。
今もnote毎日更新を続けているけど、なーんにも思いつかないときはつぶやきでおしまい!ってこともある。そういうのも全然アリじゃない、って思わせてくれるところが好き。
と思ったら、普段面と向かって話すことないような心の奥底に突き刺さる記事をぶっ込んできたりする。「人間の本質について考えてみた」みたいな。
他人の考えていることって、普段普通に生活していたらそうそう知ることはできないからそういうところも面白い。
noteなら長文でそういうのも読めるし、へぇ〜!!とおお〜〜!!!の連続。
その振り幅の大きさもnoteの懐の深さを感じて好き。
私にとってnoteは、ファンタジーと現実が混在する場所。