つぶやき10ー記憶と感情の剥離(4)
※震災に触れますのでご注意ください
前回までの記事は、一番下にリンクを貼っています
静かに国家試験の勉強が始まったため、頭を抱えております。地頭が悪いので、勉強のやり方もわからないし、理解も出来ない……。どうしよう。
事務所で遠慮しつつ何度か電話を貸してもらい、姉と連絡を取り続けていました。姉はどうにか迎えに行くことが出来ないかと考えてくれていたようですが、救急車さえ間に合わない交通麻痺の状況なので、どうしようもなかったと思います。
私の記憶はそこから夜までありませんが、ただ一つだけ覚えていることがあります。
――生きて帰ることは出来ないかもしれない
そう思っていました。その時そう思うほど、周囲の状況は最悪だったのでしょう。身分証明書を持っていない私は、もし何かがあったとき“身元不明の遺体”になることは避けたかったので、自分の氏名、住所、連絡先、父親の名前を書いた紙を鞄に入れて持ち歩くことにしました。
夜、私は友達と避難場所に向かうことにしました。
そこに行けば……と、少しだけの安心をとでも思ったのか、二十時ころだったと思いますが、友達と避難場所を探すために、分断されている橋を渡っていました。
その時ちょうど、向こうから大人の二人組が歩いて来ました。
「あんたたちどこか行くの?」
「避難場所を探しにいこうかと……」
「今、避難場所に行かないほうがいいよ」
「なんでですか?」
「今、遺体安置所になって、次々と遺体が運ばれているから」
そう言われて私達はどうすることも出来ず、友達の会社に戻りました。
姉とのやり取りで、両親がとりあえず大阪入りをすることが分かりました。私は朝まで一睡もできず事務所に居たように思います。
その時の周囲の人の記憶はあまりありませんが、友達は仕事をしていたような気がしています。伝票整理か何か……
次で最後になりますかね。そんなに長い話ではありません。記憶している事を淡々と書いているだけなので……。
両親の後日談としては、歩いてでも私を探すつもりで、軍手や色んなものを詰めて大阪に入ったようです。そして、通常のルートではもちろん来ることが出来ないので、愛媛の松山まで電車で行き、松山から飛行機で関空に行き、そこから市内の方までやってきたようです。