アーカイヴに見る1970年大阪万博のインパクト
勝見は1970年の大阪万博全体のデザインに大きく関わり、秋山は一部のパヴィリオンで現代音楽のプロデュースに深く関わった人物である。戦後日本の高度経済成長を象徴する大イベントとなった同万博の一側面を見せるこの展示では、デザインや現代音楽が当時の社会の中でどんな存在感やインパクトを持っていたのかを垣間見ることができた。
ピクトグラムの利用を推進した勝見勝
勝見勝は、第二次世界大戦後の日本で日英併記の季刊雑誌『グラフィックデザイン』を創刊するなど、日本のデザイン界を牽引する評論家だった。この展示では、勝見旧蔵のアーカイヴ資料として、1970年の大阪万博の公式ポスターやガイドマップ、会場の写真などに加えて、食堂や売店、救護室などの施設や設備を簡略化した絵で表したピクトグラムのパネルが多数展示されていた。
ピクトグラムは戦後の日本が育てたといってもいい表現形態だ。今でこそ、世界のさまざまな場所にピクトグラムがあふれているが、1964年の東京オリンピックでアートディレクターを務める中で勝見が推進したのが、世界における利用促進のきっかけだったと言われている。万博のような国際的な大規模イベントにおいて、言葉の壁を超えて意味を伝えるピクトグラムは極めて重要な役割を果たしたと推測できる。さらに、言葉の壁を超えるだけでなく、日本語がわかる日本人にも言葉を読む前に一目で認識できるサインとして機能する。ユニバーサルデザインの先駆けでもあったのだ。
そもそも、こうしたイベントでピクトグラムの利用が推進されたこと自体が、デザインの有用性を物語っている。筆者はしばしば、「日本ではデザイナーの社会的地位が低い」と多くのデザイン関係者から聞いてきた。たとえば相応の地位や報酬を与えられないといった話だ。しかし、この展示からは、半世紀以上前から、デザインにはそれなりのインパクトと力があったことを推しはかることができた。
ただし、デザイナーの身分がその当時相応に重用されていたかどうかには疑問が残る。同展の展示パネルに概要が記されていたが、勝見は1970年の万博ではデザイン懇談会の座長を務めたものの、同懇談会による指名コンペを経て選出されたシンボルマークが大阪万博の石坂泰三会長に拒否される騒動があり、デザインの主導権を誰が持つのかといったことを、改めて考えさせられた。さて、半世紀後の現在、デザイナーはどんな存在として社会の中にいるのだろうか。問う必要があるのではないか。
万博が「実験工房」の実践的な活動の場となる
秋山邦晴旧蔵のアーカイヴ資料からは、1970年の万博における音楽の扱いがクローズアップされていた点に注目したい。秋山は作曲家、そして音楽プロデューサーとして活動した人物だ。
万博は歴史的に、世界各地の文物を展示する中で、芸術を表現する場でもあった。19世紀後半にパリで開かれた万博ではインドネシアのガムランが上演され、作曲家のドビュッシーが影響を受けて新しい音楽を作曲したという話が伝わっている。
1970年の大阪万博では、現代音楽が、いわゆる演奏会とは少々異なる形で披露されている。この企画展では鉄鋼館に関連する秋山のアーカイヴ資料の展示が印象に残った。鉄鋼館では、作曲家の武満徹の音楽を上演する場で美術家の宇佐美圭司がレーザー光線を使った演出を手掛けるなど、音楽と美術を融合したイベントや展示があった。1957年に秋山が武満や山口勝弘らと結成した「実験工房」の実践的な活動の場になっていたのだ。「実験工房」の試みをこうした大きな場で発表することには、彼らの普段の地道な活動とは異なる意義があったに違いない。この企画展では、1970年8月に武満徹の『四季』などが演奏された「今日の音楽<MUSIC TODAY>」のタイムテーブルや作品解説が展示されるなど、貴重な資料を目にすることができた。「音響彫刻」という言葉が掲載された資料が展示されているのも興味深い。また、展示室では、武満徹らの音楽が会場内に流されており、彼らが醸成した時代の空気を耳でも確認することができた。
展示されたこれらのアーカイヴ資料を見て、改めて大阪万博におけるデザインと現代音楽のインパクトを知ることができたのは、なかなか意義深いことだった。
写真提供=多摩美術大学アートアーカイヴセンター