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農家の自分が来た道 ④ 震災ボランティア編~あの日から今~

10年前のあの日

3月11日、多くの方が震災が起きた日のことを今でも覚えていると思います。
ただやっぱり、記憶から薄れて来ているのを感じます。
自分もそう。
だからちゃんともう一度心に留めてないといけない。
この日が来る度に思います。

東日本大震災の日は私はまだ奥日光にいました。
夜に余震が何度も起こり、当時住んでいた社員寮は古かったこともあり、その度にガタガタと大きく揺れ、眠れなかったのを覚えています。
ニュースでは信じられない光景が連日報道されていました。
埼玉に戻り、名栗げんきプラザでの新しい仕事でいっぱいいっぱいだった私は、遠いところから見ているだけでした。
名栗げんきプラザを辞めた後、2か月ほど自由な時間ができました。
震災から10か月経っていましたが、しっかり自分の目で見て、現場の声を聞きたいと思いました。
何かの役に立ちたい!というよりは、時間がある自分は、今行っておかないといけない、そんな気持ちでした。

南三陸町へ

私がボランティアとして入ったのは宮城県南三陸町。
現地で活動していた「NPO法人ユナイテッド・アース」という団体に応募しました。
私が現地に行ったときは、すでにいろんな活動を展開されていたし、17歳から60歳代の方まで多くのボランティアが日々活動していました。
当時はボランティアの拠点が2つあり、一軒家で皆で寝食を共にしていました。
そこで私は2週間ほど滞在し、活動させてもらいました。

ボランティア生活

10か月経っていたこともあり、活動内容も復旧と同時に復興に向けたものも始まっていました。
その内容も様々でしたが、私が最初にやったのはボランティア活動のためのボランティア活動?でした。
毎日いろんなボランティアが出入りしていた拠点は維持管理するだけでも大変です。
日々の掃除、洗濯、食事作り、その業務だけでも半日は過ぎます。
驚いたのは寄付された物資の量。
世界各地から届けられた物資があふれていました。
食料品はもちろん、日用品、衣服、中には古いパソコンがたくさん!
快適な拠点環境をつくるはとても大事で、そのために物資を整理し、使えるものを分けていき、使えないものは処分していきました。
膨大な量でした。
今はもう当たり前の認識になりつつありますが、被災した現場のニーズにあったものちゃんと聞いて届けないと、かえって迷惑なることを身をもって感じました。

子どもたち

子どもたちが学校から帰ってきた後の放課後サポートのお手伝いもしました。
仮設住宅での生活では、子どもたちの放課後の居場所確保が難しい中で、短い時間でしたが、学校の宿題を見たり、一緒に遊んだりして過ごしました。
あのときの子どもたちは今は高校生や大人になっています。
子どもたちはどんな日々を歩んでいるのかと、ふと考えます。
あの時の子どもたちが希望を持って生きられる日本になっているだろうか…。
普段は狭い視野で考えがちですが、たまには大きな視野に立って未来を考える。
大人として何ができるか、世の中の情報を精査獲得にしながら自分の活動に落とし込んでみる。
そうしていこう思ったのは、間違いなくこのときの経験があったからです。

非力と力

子どもたちの放課後サポートに加え、仮設住宅に住まわれいる方々のサポート活動もお手伝いさせて頂きました。
その中ではじめて、被災された方の声を直接伺うことがありました。
辛い気持ちとボランティアの方々への感謝の気持ち。
その両方を聞いて、どちらもどう反応して良いかわからなかったのが正直なところでした。
限られた時間でしかサポートできない私は、自分の非力さで現地の方の気持ちをどう受けっていいかわかりませんでした。
当然かける言葉も。

その中で印象に残っているシーンがあります。
ボランティアの中に似顔絵作家の方いて、仮設住宅に住んでいる方の似顔絵を描いていました。
似顔絵を描くところなんて見たことなかった自分は、その描いてく過程を見て、その技術にまずびっくりしました。
そして、似顔絵を描かくと笑顔になる方、涙を流す方、いろんな感情が自然に出てくる姿を見て、なんだろうこれは、と衝撃をうけたのを覚えています。
中には被災してパートナーを失った方が、携帯に残ったパートナーの写真をもとに、絵の中で夫婦が一緒に並んで描かれた場面は今でも忘れられません。
(このときが奥さんとの最初の出会いです)
絵の力はすごい。

声が出ない

津波の被害が大きかった南三陸町。
海岸に近づくにつれ、波に流されて、大きな建物以外何もない風景がそこにありました。
一番衝撃だったのは、山の木が上のほうだけ葉が緑で、途中から茶色に枯れている風景でした。
木が並んでいるとみんな同じ堺から色が変わっていて、線を引いたようになっていました。
「あの茶色くなっているところまで津波が来たんだよ」
そう教えてもらいました。
自分が想像していたよりはるかに上をいく津波の高さに、声が出ませんでした。
海の塩の影響で茶色く枯れしまったとのことでした。
あの時に見た映像は鮮明に脳裏に焼き付いています。

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仲間

ボランティアの方々は経歴も年齢もばらばらで、こんなにもいろんな方と関わったのは初めてでした。
いろんな生き方があるんだなと驚きました。
今まで狭い世界で生きていたことがわかった瞬間でした。
全力で復興支援活動に人生を注いでいる方もいて、自分の生き方を見つめ直すきっかけにもなりました。
共に活動した時間は短かかったですが、一体感というか、気持ちを共有できた絆というか、あのときに出会いつながっている仲間が今もたくさんいます。
あの場所、あの時間は私にとって間違いなく人生で大きな影響を受けました。

自分ができること

短いボランティア活動はあっという間に終わり、自分が行って何が出来たのか、気持ちの整理はつないまま実家に帰りました。
ただ、あの時のことを忘れずに、自分の置かれた立場で自分がやれることをやろうと思いました。
それは今でも変わりません。
あの時見たことを思い出して、友人で、家族で話そう。
もう少し大きくなったら息子にも話そう。
ちゃんとあの時のことを受け止めて行動していかないと、そう3.11の夜に思いました。


このあと、私は長野県伊那市の農家さんのところで、本格的に農業を学ぶことになります。

(つづく…)

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