ハッピー
「田中さんいつもごめんねぇ、助かるわ」
「いえ、困った時はお互い様ですよ」
29歳未婚でなおかつパートナーなしのワイは、誰かが仕事を急に休むことになると、真っ先に交代要員として頼られる。ワイが生まれ育った北海道夕張郡栗山町では最大級のスーパー『ハッピー』で働き始めてから早いもので5年。東京の女子大を卒業して、そのまま都内の保険会社に就職をしたものの、精神的に参ってしまい1年半で退職。逃げるように栗山町に帰ってきた。幼い頃からあれほどまでに強い憧れを抱いていた東京だったのに、今ではあの時の辛い記憶が蘇ってきそうで迂闊にテレビも見られなくなってしまった。いわば東京アレルギーってわけ。
リハビリのつもりでのんびりパートしようと思い、このスーパーに採用してもらったが、1年ほどで言われるがまま正社員になった。月8日休みのシフト制で手取り16万円。欲を言えばキリがないが、実家暮らしのワイは十分満足している。
今回のシフト交代は、パートさんの幼い娘さんが風邪をこじらせてしまったそう。それは仕方ない。ぎっくり腰、親知らず抜歯に伴う顔面の肥大化、身内の不幸、水道管の凍結... など同僚に何かあれば、休みの日でも急いで駆けつけたり、早番から遅番まで通しで働いてきた。しかし、困った時はお互い様と言ってみたものの、この5年で仕事を休んだことはない。よくよく思い返してみたら、栗山町に帰ってきてから風邪を引いていない。なんだかなぁ。ちなみに生まれてから一度も恋人がいたことがない。そんなワイはもちろん自分に自信がない。重ための前髪で目元を隠しながら生活している。
「田中さん!明日出勤になったって聞きましたけど大丈夫ですか?かなり連勤してません?」
閉店作業も終わり、一人またひとりとスタッフが店を後にする中、アルバイトの澤井くんに声をかけられた。澤井くんは22歳の高身長爽やかイケメン。メンズノンノにいそう。今日もかっこいい。尊い。札幌の専門学校を卒業したあと、地元の栗山町に戻ってきたそうだ。今はカメラマンを目指しながらアルバイトで生計をたてているらしく、週に3、4回顔を合わせている。もちろんお客さんのマダム達にも大人気だ。いつだってあの豆柴のような愛くるしい瞳に吸い込まれそうになる。毎月シフトが発表されると、ワイの休日を確認するよりも真っ先に澤井くんとシフトが被っている日を探してしまう。正直に言うと、好き…なのかはわからないけれど、確実に気になってしまっている。しかし、澤井くんとワイが付き合えるわけないのだ。だって、このワイだよ?生まれてこの方恋人がいたことがなければ、デートの経験すらない。気づけば歳だけ重ねてきてしまった。重ねたなんて綺麗な表現じゃなく、塗りたくられたといった方がイメージに近いかもしれない。誰が見ても爽やか好青年の澤井くんのことを好きになる資格などない。それに澤井くんにはきっといい人がいるはずだ。わからないけど。土日もシフトに入っているからいないのかもしれないけど。
「大丈夫大丈夫。特に予定もないし、全然大丈夫」
「でも、さすがに1週間以上休めてないですよね?僕明日予定ないんで、出勤変わりますよ」
「ありがとう。でも本当に大丈夫だから…本当に。本当に。うん、ありがとう」
そう言って足早に店を出て、駐車場へ向かった。保険会社時代に貯めた90万円で買った紫のタントちゃんに乗り込み、ハンドルに顔を埋める。どうしてワイは気になる人とろくに会話することすらできないんじゃ。でもなんだかドキドキしてるし、なんなんだろう。ワイの気持ちを弄ぶなんて許さんぞ若者。ぶはっ。
まあお腹も空いたしとりあえず帰ろう。どうせどうにもならんのだから、悩むだけ時間とカロリーがもったいない。コートのポケットから車のキーを取り出してエンジンをかける。
ギギギギギギッ…ギギッ
え!?なんの音!?タントちゃんからわかりやすく苦しそうな悲鳴が聞こえてくる。もちろんエンジンはかからない。何度も試してみるが、悲鳴は鳴り止まない。エンジンがダメになったんだと悟った。なんでこうも連勤が続いている日に限って…。もう22 時だし、今から修理にきてもらったら何時に帰れるかわからない。よし、今日は遅いし諦めてお母さんに迎えに来てもらおう。助手席においたバッグからスマホを取り出そうとしたその時、助手席の窓をノックされた。
「・・・田中さん、大丈夫ですか?」
澤井くんだ。通勤の時はニット帽を被ってるんだ。よく似合ってる。呑気にそんなことを考えながら、助手席のドアを半分開けて事情を説明した。
「よかったら僕の車、乗っていきませんか?ちょうど通り道だし家まで送りますよ」
「いやいやいやいや、大丈夫大丈夫。ほら、お母さん。お母さん呼ぶから!」
「何言ってるんですか〜遠慮しないでくださいよ」
そう言って微笑みながら、助手席にあったワイのバッグをひょいと拾い上げて、2台分の空きスペースを挟んで止まっているジムニーに澤井くんが乗り込んだ。
ちょ・・・え・・・?ほんとに?ワイのバッグ持ってかれた?ワイが澤井くんに送ってもらうの?
もうさ、ほら。ここまで来たら覚悟を決めよう。ただ車が故障した惨めなワイを心優しい澤井くんが助けてくれるんだ。ただただそれだけなんだから。そうだよ。そうそう。ワイもいい歳した大人だし、人の善意を素直に受け入れる練習をさせてもらおうじゃないか。ルームミラーで前髪を確認して、タントちゃんに別れを告げ、ジムニーくんの助手席に乗せてもらった。重ための前髪はいつだって微動だにせず乱れ知らずにつき、こういったハプニング時にはもってこいだ。
「ほんとにいいの?・・・ありがとう」
澤井くんはにこっと微笑んでからエンジンをかけて、ジムニーくんをゆっくり発進させた。車内はいつも微かに感じていた澤井くんの心地よい香りが漂っている。なんの柔軟剤を使っているのか気になったが、聞くと気持ち悪がられそうなのでゴクリと飲み込んだ。あぶないあぶない。車のステレオからはラジオが聞こえてくる。若いのにラジオが好きなんて素敵だなぁ。
信号で止まったら、急に緊張感が押し寄せてくる。ワイ、今、澤井くんと2人きりだよね・・・しかも車内という密室。いわばドライブデート。鼻息荒くないかな、大丈夫かな。ワイのドライブデート初体験は突如やってきた。ドキドキ。心臓の音が聞こえてきそうだし、空腹でお腹もなりそうで怖い。
「あ、田中さん。セイコーマート寄ってもいいですか?僕、小腹空いちゃって」
「セイコーマート?う、うん。もちろん!」
町のど真ん中にあるいつものセイコーマート。出勤前の朝や、仕事終わり、休みの日にだってこれまで何度も買い物をしてきたこのセイコーマートだが、家族以外と来るのは初めてだ。車を停めて、澤井くんの後ろに続いて店内に入った。
澤井くんは店内をゆっくりと1周してから、ホットシェフコーナーのフライドチキンを手に取った。
「これ好きなんですよね〜。田中さん食べたことあります?」
「ううん、食べたことないや」
「じゃあ一口あげますね!食べてみてください」
澤井くんはワイにもホットコーヒーを買ってくれた。本当はホットシェフコーナーに並ぶ鮭おにぎりを食べたかったけれど、やめておいた。レジ横で交代でコーヒーを淹れて、カップを手に車に戻った。なんだかデートみたいで照れる。
「あ〜やっぱうまいわ。田中さん、どうぞ!」
そう言って澤井くんが使った爪楊枝を新たなチキンに刺して、ワイにくれた。爪楊枝に唇をつけぬよう変な緊張感を抱きながらパクッと口に入れる。
「お、おいしい!おいしいねこれ!はじめて食べた〜!」
「よかったです。すごい美味しそうに食べますね!田中さんってそんな素敵な笑顔を隠しもってたんですね〜」
・・・笑顔?ワイ、今、笑ってたんだ。屈託のない表情でそんなことを言ってくれる澤井くんに、トキメイテル。そう、ワイ、今、ときめいている。ヤダァ。
澤井くんはまだ車を出す様子はない。2人で熱々のコーヒーを少しずつすすりながら、当たり障りのない会話をした。たった10分。コーヒーを飲みながら、仕事や学生時代の話をしただけ。正確にはほとんど澤井くんの話を聞いていただけ。でもね、それが本当に楽しくて幸せな時間だったんだ。
「じゃあ、そろそろ帰りましょうか。田中さん、明日もお仕事ですもんね」
「うん。そうだね、ありがとう」
ジムニーくんは雪道をゆっくりと走り出した。次の休みは、ちょっと足を伸ばして札幌の美容室へ行ってみようかな。思い切って髪型を変えてみるのもありかもしれない。重たい前髪にも飽きてきた。ぐふふ。