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ピンク

今日も右足のくるぶしが痛い。社員割引で50%オフだから、と慣れないショートブーツなんか買うもんじゃなかった。擦れて血が滲んでいる。売り場で眺めている時は、無難で何にでも合わせやすそうと思ったが、本当に無難なだけで特に気に入っていない。65点てところだろうか。

「履いているうちにお客様の足の形に馴染むので、どんどん履きやすくなっていきます」

お決まりのセールストークを今回ばかりは私自身の心のお守りにしながらも、いよいよ1ヶ月。合皮でできたこの子は一向に私を受け入れてはくれない。

今朝もいつもの時間にアラームで起きた。早番の日は決まって7:20。目を瞑ったままスマホを探すスキルはここ数年で天下一品になった。本所吾妻橋駅から早歩きで8分のこのマンションに住んで、もう3年半になる。1K24平米西向きで家賃82,000円。コスパは悪くないが、特段気に入っているわけではない。こちらもせいぜい70点。オートロックがあって安心ではあるが、宅配ボックスが3つしかなく、常に満杯。

今日も押上駅で地下鉄を降りて、早足で改札を駆け抜けて出勤。押上駅の真上に私の職場がある。駅構内のファミマで常温のお水とお昼ご飯の菓子パンを買うのが日課。

いつもと同じ時間に起きているのに、なぜか家を出る間際でシンクの水垢が気になってしまったり、AirPodsの右だけが行方不明になったり、この無難ブーツを履いている日に限って、走る羽目になる。恐らく相性が悪い。学生時代から自己顕示欲が強い人は苦手だった。当たり障りない、とりわけ明るくも暗くもない人が一緒にいるには一番居心地が良い。体育委員や放送委員よりも、保健委員によくいるタイプ。

「かおりさん、おはようございまっ」

時折語尾が蒸発してしまう癖を持つこのギャルは、1月半ほど前に新卒で配属されたりりちゃん。ギャル特有の明るさとさっぱりとしたキャラクターで、もうすっかりショップに馴染んでいる。栃木の専門学校でファッションを学び、この春から上京してきたそうだ。30-40代女性をターゲットにしたオフィスカジュアルファッションを取り扱うこのショップとは明らかに雰囲気が合っていない。明るい茶髪に金色のインナーカラーにショッキングピンクのネイル。キティちゃんのサンダルこそ履いていないものの、深夜帯のドン・キホーテでよく見かける風貌そのものだ。みんなその事実に気づいているのだが、誰一人として指摘することはない。彼女はこのショップで働くスタッフみんなと仲が良く、彼女のことを悪く思っている人はいないようだ。もちろん私も。

初めての東京一人暮らしを夜通し満喫しているようで、今日も昨日と同じ服に身を包んでいる。しかしメイクはばっちりだ。今日も濃いめのハイライトが彼女の鼻筋を美しく隆起させている。まるでスキーのジャンプ台。彼女は年代的に金メダリストの船木を知らないだろう。長野オリンピックのあの大ジャンプ、もう一度拝みたいものだ。

「おはよう。今日は早番2人だからよろしくね」

開店まであと40分。まだ薄暗い店内で、倉庫の奥でほこりをかぶった救急箱から絆創膏を取り出し、くるぶしに貼ってみる。使いきれずに何年も救急箱に眠っていたのだろう。粘着が弱くかさかさだ。贅沢に2枚を十字に貼り付けて、剥がれてくる前に靴下を瞬時に履いて固定した。
段ボールを慣れた手つきで開けて、サイズが欠けているアイテムがあれば店頭に、そのほかはビニールに包まれたまま店舗裏に片付ける。今季ラインナップの中で絶対に売れ残り、すぐセール対象になると思っていたドット柄のワンピースがなぜか3点も納品された。同じものがまだ裏に5点あるのに、取り寄せた店長は何を考えているのだろうか。

「かおりさんて、マジで33に見えないすよね。29か30くらいかと思ってました」

綺麗なまなざしでいつでも自分に正直に生きている様子の彼女。かくいう私は、先週33歳の誕生日を迎えた。成城石井で買った1,500円もするスパークリングワインで自分を祝いながら、インスタで子豚の動画ばかり見ていたなぁ。そういえばあの日飲みきれずに半分残したけど、もう炭酸が抜けちゃってるだろうな。炭酸の抜けたスパークリングワインほど悲惨なものはない。去年の誕生日も同じように半分無駄にしてしまったから、今年こそは白ワインにしようと思っていたことを今、思い出した。歴史は繰り返す。

軽快で独特な音楽と共に、開店5分前を知らせる館内放送が鳴り響く。中学生の頃に初めて買ってもらったガラケーで、自作した32和音の着メロのようなこの音楽。嫌いじゃない。あーたし、さくらんぼー🎵好きな人からの着信は決まって大塚愛だったな。

梅雨入りした雨模様の東京。ましてや平日の今日は、開店しても館内ががらんとしている。人気がして振り返るたびに、忙しなく配達に勤しむ配達員さんと目があうだけだ。今日はいつもの韓国風イケメン配達員さんお休みなのかな。使い込まれた様子のロゴ入りキャップから白髪が覗く60代と思しき配達員さんが、すでに汗の雫を額いっぱいにならべて、見るからに重たそうなかご台車を押していた。

「ってか109に配属になった同期がこの前MDの河合さんに裏でインスタ聞かれたらしいんすけどwwやばぁw」
「昨日相席屋で会ったマッチョ、まさかのやり投げ選手でウチより胸あってまじ笑いましたwwしかも乳輪超ピンクでさらに爆笑でしたww」

暇を持て余した押上のギャルは、次から次へと絶妙なネタを投下してくる。ひとつひとつ掘り下げれば当面は話題に困らないはずだが、彼女は話を膨らませる気はないらしい。なぜ乳輪の色を知っているのだろうか。

「いらっしゃいませ~ どうらんさんせ~」

どうぞご覧くださいませ。やけにこなれた彼女の発声は癖になる。その声に吸い寄せられたかのように、コツコツと音を立てて入店する1人の女性。特にあてもなくふらっと立ち寄った様子。同い年ぐらいかな。
くるっと反対側から回り込み、さりげなく左手の薬指を確認する。

“ない”

心の中で小さくガッツポーズ。男女問わず、左手の薬指を確認することが癖づいてしまった。3つ目のマッチングアプリに登録し始めた頃から、結婚観が変わった。期待というよりも執着。既婚者に向けられる視線も憧れから妬みに変化していた。友人の結婚報告をインスタで目にする度に白髪が2本ずつ増えるような気がした。

「気になるお品物がございましたら、ぜひお鏡で合わせてみてくださいね」

このお客さんも私の仲間かもしれない、そう考えたら心なしか優しく接したくなった。
ぱっちり二重のきれいな目、マスクをしていてもわかるかわいさ。ニッコリと目尻を落とし、会釈で返してくれた。

「お姉さんの履いているブーツ、かわいいですね」

かわいらしい見た目から想像するよりも半音低い声で、私の無難ブーツを褒めてきた。

「ありがとうございます!今季の新作なんです。何にでも合わせやすいので、とっても便利ですよ」

シューズが並ぶ棚へ移動し、自然な流れで試し履きしてくれることに。

「これ24cmでしたよね?いつも24cmなんですけど、これはちょっと小さいかな・・・」

このブーツは1cm単位でしか作られていない。そして生憎25cmは在庫がない。税別12,000円。閑散とした今日の売上目標に与える影響は絶大。なんとしても持ち帰ってもらいたい。切なる願い。

似たデザインのブーツも何点か試し履きしてみるもしっくり来ない様子。結局この無難ブーツの24センチを再度履いてみることに。

「やっぱり今日のコーデにもぴったり!失礼します。あっ、指先は少し余裕がありますね。素材がまだ固いので窮屈に感じるかもしれませんが、履いていくうちに少しずつ馴染んできますのでサイズは問題ないと思いますよ」

咄嗟に自分の右くるぶしの惨事を思い出し、靴下の上から絆創膏をおさえた。この状況で靴擦れして出血してるなんて口が裂けても言えない。黒い靴下を履いていて安心した。

その後も鏡の前でかれこれ5分は悩んでいる。私にとっては社割で6,000円のブーツ(ユニフォーム)も彼女からしたら12,000円。税込み13,200円。悩んで当然だ。

「じゃあ、こちらいただきます」

心の中で再度ガッツポーズをしながら、感謝と安堵の念を一緒くたにしたお辞儀を何度かしてレジへご案内する。途中で彼女の足が止まった。

「ショーケースの中、このピアスも見ても良いですか?」

ピンクゴールドの華奢なフープピアス。税別1,800円。素材はニッケルなので、金属アレルギーの私は付けられないが、デザインはシンプルで無難かわいい。当たり障りのない無難こそがこのブランドの良いところ。

「ピアスもお似合いですね、お仕事用のアクセサリーをお探しですか?」

「いえ、仕事は飲食なのでアクセサリーがだめで」

「そうでしたか。シンプルなデザインなので、こちらも何にでも合わせやすいですよね」

~タンタンタン♪タンタンタタタタン♪彼女が持つiPhoneがデフォルトの着信音で鳴り始めた。こういうこだわりのない無難な人、仲良くなれそう。

すみません。と目配せをして電話に出る彼女。会話を盗み聞くつもりはなかったが、思ったよりも聞き取りやすい大きな声で話すもので聞こえてしまう。これから電話の相手と合流するようだ。

「すみません。彼が美容室にいっているうちにと思って買い物に来たら、思いのほかはやく終わったみたいで・・・このピアスも一緒に買います」

「あ・・・はい、アリガトウゴザイマス」

彼氏、いたんかい。このまま彼氏が迎えに来て、いちゃいちゃされてもなんなので、手際よくお会計を済ませて品物を袋に詰めた。

「これ、もしよかったら!先週彼と軽井沢へ行った際に買ったフィナンシェです」

2度本気の遠慮を伝えてみたのだが、社交辞令として受け取られたようで、ありがたくいただいた。

「ありがとうございました!また遊びにいらしてくださいね(早く帰って!!!彼氏が迎えに来ちゃう!)」

「した~!またどうぞお越し~せ~」

りりちゃんも押し出しに加勢してくれているようで心強かった。
ショッパーを右肘に引っ掛けた彼女が10メートル程歩いていくのを見守りながら申し訳程度のお辞儀をして、そっと背を向けた。試し履きで荒れてしまったシューズ売り場を整えようと思った、その矢先。

「かおりさん!!まじ!!まじそこに昨日のピンク乳輪いるんだけどwwwwないたwwww」

りりちゃんが大興奮の様子で近づいてきた。ギャルが指さす方向に体を向けると、レディースフロアでは中々見かけないゴツい体付きの男性がこちらに向かって歩いてくる。そして、スマホを持ったままの右手を上げた。

すると、さっきのお客さんの前でマッチョ男性は立ち止まり何やら親し気に話し始める。カットしたてであろう前髪をお客さん改め彼女さんがツンツン触る。マスク越しだが、あのマッチョは恐らくイケメン。

「え、もしかして…ピンクが彼氏…?」

りりちゃんはさっきまで推しのアイドルを見つけたような大興奮で顔を赤らめていたが、急に血の気が引いたような表情に打って変わり寂しい目をしている。

「今日は定時で上がって飲み行こ!行きつけのワインバー予約しとくから!ごちそうする!」

ギャルは眉間にシワを寄せながら目をうるうるさせて、黙って小刻みに3回頷く。目に元気がない分、鼻の隆起が余計に目立つ。今にも船木が大ジャンプをしてくれそうだ。船木〜!跳べ〜!


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