日曜日
*小説です
「あの線路をたどっていったらどこに着くの」
日曜日の昼下がり、世界中から明るい色を全部集めたみたいな縁側のひだまりの中で、息子は言った。まるで、どうして空は青いの?と聞くようなさらりとした口ぶりだった。僕は驚いた。線路を目に留める人なんてこの村には一人もいなかったからだ。
僕の住んでいる平家の後ろ側に山があり、その麓と平行に古ぼけた線路が横たわっている。いつ使われていたのか、それがどこに繋がっているのかは誰も知らない。というより線路は彼らの目に見えておらず、忘れ去られていた。それぐらい線路は錆び朽ちていて、土っぽいこの村の風景に奇妙なくらいよく溶け込んでいた。大人になって思い出すことは無くなったが、僕が小さい頃には線路が棺桶みたいに見えて、死を連想させたことを覚えている。実際、それはもうすでに死んでしまった線路だった。
この村は小さく山に囲まれていて、線路は山を超えた隣町まで伸びている。でも、誰もその線路がどこで終わっているのか知らない。純粋に知りたくなった。
「行ってみようか」
なんでそんなことを口走ったのか今でもわからないが、考えるよりも前に口が動いていた。多分春の日差しのせいだろう。考えることが億劫になるくらい、能天気な日曜日だった。
そうして僕と息子は線路沿いを歩き、それがどこまで繋がっているのかを探る旅に出ることにした。旅と言っても大袈裟なものじゃない。息子の今年の5歳の誕生日にプレゼントしたパタゴニアの綺麗な青いリュックサックにタオルとじゃがりことねるねるねるねを詰め、僕の鞄には軍手と懐中電灯2本と水筒と冷蔵庫に入っていたハムサンドウィッチをつめた。STAND BY MEみたいに死体が見つかるだろうか。そんなことを思いながら僕は息子の手を取って家を出た。
線路の近くを歩くのはどういうわけか気味が悪かったが、口に出したらもっと怖くなってしまう予感がした。息子も同じことを考えていたのか、小さな拳に力を込めながら静かに歩き続けている。僕たちはまるで、線路の葬式に参列しているみたいだった。そうして緩やかな曲線をたどっていると、隣町に着いた。たまに買い物に来る隣町には、特に目新しいものはない。道の駅で新玉ねぎが安く売っていて、帰りに買って帰ろうと思いながら通り過ぎた。
隣町を過ぎると、日が落ちかけていた。そして人気のない集落に出た。奇妙だったのは、どこの家にも明かりが付いておらず、人も一人も見えないことだ。家が綺麗なことから推測するに、最近人がいなくなってしまった集落なのであろう。薄気味が悪さを感じたが、まだ歩き続けた。線路はどうせもう少しで終わるだろう。終わらなかったら引き返せばいいだけの話だ。「お腹すいたしこわい」と息子が僕の袖を引っ張った。「じゃあ、あのベンチで休憩しようか」近くにあった木のベンチを指さす。木のベンチに座ると、体が疲れていることをどっと感じる。足に溜まった乳酸が僕をうんざりさせた。息子は隣に座って、じゃがりこを美味しそうに食べている。水筒を渡すと、妻に何も言わず家を出てきてしまったことを思い出した。おもむろにスマホを取り出し、LINEを開こうとしたが開かない。どうやら4Gも使えない場所みたいだ。僕はただの鉄の塊になってしまったスマホをじっと見つめた。何やら嫌な予感がした。
20分ほどの休憩ののち、もうだいぶ暗くなってしまったので懐中電灯にスイッチを入れて僕は息子と手をつないで歩き始めた。光は懐中電灯と月しかないが、もう不思議と怖いとは思わなかった。春の夜風は心地よい。胸いっぱいに吸い込むだけで健康になった気がする。少し甘い香りのする5月の風は、僕の心をいくらか軽くさせた。息子も、疲れている割には気持ちよさそうに歩いている。いい時間だ、と思った。そうしてダラダラと30分ほど歩いたのち、線路がいきなり山に入り込む場所が現れた。山の中は電車が通れるくらいの小さなトンネルになっているようだ。僕たちは懐中電灯で中を注意深く観察すると、トンネルがたった5メートルほど続いた先で、いきなり行き止まりになり、線路がなくなっていた。そんなことあるはずがないと思っていると、下に空いている大きな穴に気がついた。とても大きな穴だ。穴は吸い込まれそうになるくらい黒黒としていて、思わず足がすくむ。落ちないようにと僕は汗ばんだ息子の手を精一杯握る。息子も小さな手を握り返す。そうして二人で注意深く穴の中を覗き込んだ。静かに懐中電灯を当てると、四角くなっている穴の側面に、さっきなくなったと思った続きの線路が現れた。僕たちは思わず息を呑んだ。下に落ちるだけの穴に線路を作っても、文字通り乗客が全員死ぬだけだ。頭が混乱する。この線路はなんのために作られたのか?いつ、誰が、なんのために落ちるだけの線路を作ったのか、いやそれとも、この下はどこかの場所に続いているのか。静かな暗闇の中、懐中電灯の光だけが白く無愛想に光っていた。
しばらく息子と顔を見合わせていると、穴から音が聞こえ始めた。驚いて声が出なかったが、確かに海の音だ。波のズズズズズ、、という音が鼓膜に張り付く。何回かしか聞いたことがないのにひどく懐かしい音だった。「これ、海の音だとおもう」どこを見ているのか、虚ろな目で息子が言う。息子の言葉は僕の気持ちを確信に変えた。こんな山で海の音が聞こえるわけない、とかそんなことを考えられるはずがなかった。考えるのが億劫になるくらい、美しい波の鼓動だった。
「飛び込んでみようか、海に出るかもしれない」僕は息子にゆっくりと話しかけた。残響だけでも阿呆なことを言っているのがわかる。でも、本能が行きたいと叫んでいる。息子は僕の目を真っ直ぐ見つめ、そして穴に飛び込んだ。穴 に 飛 び 込 ん だ 。
これまで生きてきた中で一番大きく心臓が跳ねるのを感じて、僕もわなわな震える足で急いで穴に飛び込んだ。どれぐらいの時間落ちていたのか、1秒だったと言われても納得してしまうし、1年だったと言われても納得してしまうようなひどく穏やかな時間が僕たちを包み、落ちていった。
「ザン」軽やかな音を立てて僕と息子は、落ちた。それは砂浜だった。白い砂浜に嘘みたいに透明な水が押し寄せている。暖かく柔らかな風が全身を撫でる。本当に海に出たのだった。信じられない。さっきまで真っ暗だったのに、空もまだ青とピンクが溶け合っている。綺麗な夕暮れ時だ。上を見上げると、小さな黒い穴がぽつりと空中に浮いていた。僕たちはそこから出てきたらしかった。「大丈夫?」僕は驚いている息子を立ち上がらせ、砂を叩いた。息子はきゃっきゃと笑った。僕も大笑いした。シリアスな旅をしてきた僕たちには、こういう時間が必要だった。一通り笑った後、僕たちは後ろを振り返った。そこにはさらに信じられない風景が広がっていた。オレンジの光、たくさんの談笑する人たち、山盛りのフルーツ、ヤシの木、ココナッツジュース、ご馳走、綺麗な髪にハイビスカスをつけた美女。まさに天国だった。なんて素敵な場所なんだろう。
「ようこそいらっしゃいました」品のいいおじいさんの声が聞こえた瞬間、ひどく酔ったような心地がして目が回り、その場にうずくまった。頭がガンガンする、ふわふわする。
やめて、待って、僕の、僕__________________________________________________
次の瞬間、なんでうずくまっていたのかも忘れて立ち上がった。ここは、どこ?まあどうでもいいか☆楽しい楽しい楽しい楽しい楽しい。横を見ると、青いリュックを背負っている少年がにこにこ笑っている。年は5歳くらいだろうか。「それでは行きましょう、ごゆっくりどうぞ」おじいさんがふわっと微笑みかけ、僕は少年と一緒に人々の中に混ざっていった。
おわり