金沢ピープルファイル003: 原田英二①
どんな町にもたいていひとつは気のおけない食堂があります。竹内紙器製作所のある幸浦で言えば「メルヘン」がそう。これからするのはそのメルヘンをめぐる、ある家族についての物語。あらかじめおことわりしておきたいのはすべて本当の話だということ。
「なんの話をしていたんだっけな。まったく、何を話していてもおふくろにたどり着いちゃうんだ」
30分ほどお話を伺ったところで原田さんはそう言って楽しそうに笑いました。そう、メルヘンのことを語るにはまず「おふくろ」の話をしておかなければなりません。
▶︎おふくろのこと①◀︎
メルヘンが創業したのは1979年のこと。それからさらに遡った1950年代、戦争が終わってしばらくした頃、おふくろは野毛で鰻屋を始めたんだ。戦争に負けてしょんぼりしていた親父に代わってね。裂き、剥き、焼き、なんでも自分でできたし。タレの作り方だけは誰にも教えなかったな。
おふくろの生家は神戸のバナナ問屋だった。その頃のバナナ問屋というのはものすごい大金持ちだったんだよ。おふくろには姉がいて、その姉がフランスのリヨンに向かう船で船医に恋をした。祖父はその船医に病院を建ててあげたんだ。そしてその船医には弟がいたんだけど、つまりそれが親父だったというわけ。おふくろは親父をひと目見て『この人のお嫁さんになる!』と子どものときから決めてたんだって。
親父の生家は当時の台湾でいちばん大きなお寺だった。親父は寺を継ぐのが嫌だったものだから、東大に入ったら仏門に入らなくていいって言われてほんとうに東大に入っちゃった。じいさんも渋々認めるしかなかった。東大を卒業した後は大蔵省の役人になって、外交官も務めた。太平洋戦争のとき、日本は鉱石を採掘するために仏領インドシナにフランスと合弁会社を作ったんだけど、親父はその責任者として赴任することになったんだ。
当時、まだ日本人は誰でも自由に海外渡航ができるわけじゃなかった。それでもなんとかして親父に会いたいおふくろは、新聞でJALのエアガール、今で言う客室乗務員の募集を見つけるとこれだとばかりに応募してね、見事にJALのエアガールになったんだ。東京から福岡の板付、青森からマカオを経由してベトナムという航路を何度か飛んだ後、親父のところに転がり込んじゃった。そして姉がハノイで、兄がサイゴンで生まれたんだ(つづく)。