金沢ピープルファイル003: 原田英二④
どんな町にもたいていひとつは気のおけない食堂があります。竹内紙器製作所のある幸浦で言えば「メルヘン」がそう。これからするのはそのメルヘンをめぐる、ある家族についての物語。あらかじめおことわりしておきたいのはすべて本当の話だということ。
第4回 会社員だった頃
これまでふたつの会社に勤めた。ひとつめは大塚商会。飛び込みでコピー機を売り込んだりして、当時営業職が300人くらいいた中でトップセールスマンになった。社長賞を獲ると社長と料亭に行けたんだよ。一回登ったら降りられないから、会社には10ヶ月しかいなかったけど9回(社長賞を)獲った。今だに破られていないみたい。大塚商会の連中が来てくれるから引っ越しをするときも業者を呼んだことがないんだ。引っ越し屋よりも高くつくんだけどね。
コピー機を買ってくれた会社の中に、学生の頃に社員にしてくれと訪ねて断られた会社があってね。県庁前のビルなんだけど、出入りしている人たちがブルーとかピンクのシャツを着ていておしゃれだなって思ってたわけ。コピー機を買ってくれたのは山田常務っていう人だったんだけど、この会社に入りたかったんですって言ったらじゃあ1週間後に来いってことになって試験を受けたの。それがふたつめの会社の西田通商。
西田通商では綿製品課を作った。それまで旅館やホテルがそれぞれ独自に作っていた浴衣を、筒袖にしたり簡単に縫製できるようにして、中国でまとめて大量生産したものを旅館やホテルが発注するっていう仕組みとマーケットを作ったんだ。まだ言葉もなかったけれど、いわゆるリネンサプライの草分けだよね。その頃、日本はタオルを輸出する方だった。でも例えばアメリカのマーケットはインドからタオルをガンガン輸入していた。日本のタオルの風合いは柔らかくていいんだけど、しばらくすると穴があいちゃって業務用には向かなかった。インドのタオルは硬いんだけど丈夫で、業務用にはそれがちょうどよかったんだ。
あの頃は仕事となると夢中になっちゃうから家に帰らないこともしょっちゅうだったし、いろんな人が家に出入りしていた。奥さんが寛容だから怒られなかったけれど、家族にしてみれば朝起きると知らない人がいたりしてさ、一緒に朝ごはん食べてるけどあの人誰? ってなってた。みんな娘のことを可愛がってくれてさ、娘もみんなを親戚だと思っていた。僕があんまりだったから、もし僕がいなくなったら奥さんと娘の面倒をみるって言ってくれる人もたくさんいたみたい(笑)。