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Honda

日本車、今と昔

海外赴任の決まった夫が、現地で乗る車を購入するにあたり「ホンダのオデッセイはどうかな」と言ってきた時、私が真っ先に返したのは「え!日本車なんて乗ったらいじめられない?」だった。
2020年代のオハイオ州に越してきて、その反応がいかに時代錯誤なものだったかを理解した。
町はホンダ車で溢れかえり、近所ではホンダに勤めるアメリカ人が豊かな家庭生活を築く。散歩に出て日本人と知れると「コンニチハ」と(皮肉じゃなく)笑顔で話しかけられる。空港にはホンダ車がディスプレイされ、学校のグラウンドにはスポンサーであるホンダのマークが大きく掲げられている。
日本でのホンダの印象とはまた違う、アメリカで築き上げられてきた、Hondaがそこにあった。

日本車に対するそんな時代錯誤な印象は、30年前のデトロイトにて私に植え付けられたものだ。
もはや教科書の注釈に小さく載せられている程度かもしれないし、嘘のような話だが、当時日本車に乗っていると卵を投げつけられることなど日常茶飯事で、デトロイトに駐在していた私の一家は車をトヨタからフォードへ慌てて買い替えていたのを覚えている。
その時の恐怖感をいつまで経っても忘れることはない。
何か悪いことをしている。誰かが困るようなことに加担している。そんな意識を張り付けて、肩身の狭い思いで現地校へ通っていた。

時代は過ぎた。
2020年に再びアメリカに来て以来、日本人であることで嫌な思いをしたことは、信じられないほどだが、一度もない。嫌な思いどころか、日本に住んでいればただの人だったのが、アジアの中でもとりわけ日本であるということで良い思いすらしているかもしれない。キュートで、アートで、ヘルシーで、Hondaを創った国、日本だから。
きっとアメリカの他の場所では違うだろう。私がこのような体験をしているのは、ここオハイオにHondaがあるからだ。
30年前にデトロイトで体感した人種の隔たりと、現在自分が体感する人との親しさの距離を埋めたのは、私が個人的には知らない、誰かの集合だ。

名もなき戦士たちに、感謝を


その30年間に、何人の日本人がオハイオにやってきたのだろう。
いくつの家庭が、異国暮らしの不安の中で、お父さんの帰宅を深夜まで待っただろう。
その人たちはどんなプレッシャーに耐え、どんな速さで仕事を押し進めてきたのだろう。
何度言葉や、文化の壁に当たってきたのだろう。
どんなに凄い仕事をしてくれたのか、その人たちは自覚しているのだろうか。

私は車の進化にもビジネスにも詳しくないが、異国に住んで生活する肌感覚だけは、読み取れる。
名もなき書き手として、日本からの名のない30年分の戦士たちに感謝したい。

例えばこれは、オハイオ州主催の"Invention Convention"という、子どもたちが競って出たがるコンテストのスポンサー欄。


安心感の土壌


アメリカのサッカーフィールドで、対戦相手に負けて悔し涙を流す日本人の子が存在できる背景には、Hondaのスポンサーフラッグがそこにはためいていることがあると私は思う。
安心感が生まれてこそ、スポーツに励むことができる。悔し涙を流すほど我を忘れて集中するのは、誰もが自然にできることではないのだ。いろんな意味での豊かさが組み合わさって、ようやく子はスポーツに打ち込める。
経済的な意味だけでなく、家庭から、そして社会から得られる安心感も、大いなる豊かさと言えると思う。

日本からの子どもたちがHondaの国として敬意を持って接してもらえ、町のあらゆるところにスポンサーとしてそのロゴを目にして得られる安心感を作り出してくれて、ありがとうございます。

母親の努力だけではどうにもできない異国での確実な安心感。そんな視点から、感謝を伝えたい。


Makiko

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