そこにあるものを使う、だから牛糞の床
今このコロナの状況下、先住民をお手本にしたいことがたくさんある。その一つが牛糞の床だ。
インド先住民、ワルリ族の村へ最初に行ったのは2011年だから、瞬く間に9年。少なくとも年に2、3度は通ったし、ワルリ画家を日本に招いて壁画を描いてもらったこともある。狭い我が家に泊まったワルリ族もひとりやふたりじゃない。本当に長い付き合いになる。長すぎて、当たり前になってしまっていることもたくさんある。でも、10年近く通ってきているのだから、そろそろ書いても許されるのかな。自分の脳にしまいこまれてくちゃくちゃにこんがらがっている「先住民ワルリ族」というワードを、ほどいてみようか。このnoteを始めたのはそんな理由からだ。
彼らの暮らしは、私たち日本人が失ったもの、忘れていたセンサーを呼び覚ましてくれる。
そのひとつが牛糞の床だ。といっても、それを真似して作ろうということとはちょっと違う。あるもので、気持ちのいいものを作る、その彼らの暮らしの作法を、私たちの都市生活にも装備してみたいってこと。
その床に最初に立ったとき、足裏がまずその不思議な感触をキャッチしていた。ふかっとしている。少しチリッと当たるものがある。何か有機的なイメージがもわ〜んと立ちのぼってくる。
トラクターがない村だから、力持ちで粘り強い牛は農耕に不可欠だ。彼らはブリーディングも上手。年取って死んでしまう牛もいるけど、赤ちゃんも生まれてくる。毎朝の糞は大切に取っておいて、水で解いて床のメンテナンスに使う。藁や草を食べて牛の腸内で醸成された糞は、粘り気たっぷり。家の壁の材料にもできる。肥料にもなる。
しかし、考えてみたら、こんなふうにいろいろ使うために重要なのは、牛を健康的に育てることだと気づく。いい草を食べないといい床にならない。オーガニックでないと気持ちよくないな、きっと。
あるものを使うということ。簡単なようでいて、環境問題まで話が広がりそうだ。困った。
2011年当時のワルリ族の村にはゴミひとつ落ちていなくて清潔だった。しかし最近は道の脇にゴミの山が出現してきた。キャンディの個別包装のプラごみ、清涼飲料のペットボトルなど、消えていかないゴミが溜まり、脇で牛がむしゃむしゃと反芻していたりするから、たまらない。やめて〜と声がでるけど、彼らだってキャンディを食べたいし、コークだって飲みたいよね。
環境問題のとば口にいる彼を見て思う。私たち日本人は、ずいぶんと文明の森を彷徨い、果ての果てまできてしまった。牛糞の床のように、シンプルで素敵なものは、どこにも見当たらなくて落胆する。
せめて、あの床に最初に立った時の感覚を足裏にとどめてみる。言葉にならない感覚を起点に、そこから一歩を踏み出してみようか。