まんまるパンと赤ちゃん。
さぁて、出掛けよう。
これから楽しみにしていた舞台を観に行く。
初めて行く会場だから、ちょっとだけ早めに到着出来るように余裕を持って部屋を出た。
駅までの道すがら、スマホで乗車時間と乗り換え、到着駅から会場までの一番近い改札口をチェック。
イヤホンからはタイムフリーのラジオ放送が流れている。
部屋を出てすぐ、50メートル位歩いた自動販売機の辺り。
大汗をかいたおばちゃんから声を掛けられた。
「あのぅ、すいません、K駅はどちらになりますか?」
少しだけ訛りのある話し方が不安気だった。
イヤホンを外して「駅に行くので、では、ご一緒に。」と答えた。
おばちゃんは嬉しそうな顔で「助かりますぅ」と言った。
話を聞くと大学病院へ行って駅へ戻るつもりが、途中でわからなくなってしまったらしい。
ちなみに現在の位置は、大学病院の正反対の位置。
「駅から出て左に左にって病院へ着いたんです。それで、帰りも左に左に行ったけど戻れなくて」っと。
「・・・でしょうねぇ、どんどん逆へ進んでおられます。帰りは右に右にですね。」
「あ!! そうですねぇ、そうだぁ・・・」
顔を赤らめたおばちゃんはタオルハンカチで、汗を拭き拭き話している。
「わたしはT県から来まして、娘がお産で入院をしているんです。前に一回来たことがあって、行きも帰りもタクシーに乗ったんです。今回は歩きで行ってみようと思って、そしたら・・」
「そうですねぇ、駅から病院までだとタクシーは勿体ないかもしれませんね。」
「でも! タクシーなら確実に着きますもんねぇ。今回もそうしたら良かったんですけど・・」
前回は「行けた」ので、きっと自信があったのだろう。
チラっと見えたスマホの画面も地図表示はされているようだし。
「娘の家もここからちょっと離れていて、あまりこっちには来ませんのでねぇ。大丈夫だと思ったんですけどねぇ。。」
おばちゃんは自信を無くしたのか暑さなのか、しょんぼりしている。
「あぁ、でも、お荷物もあるからタクシーはラクでしたよねぇ。」
パっと明るい表情になり、「そうなんですぅ!」とおばちゃんは元気を取り戻した。
「娘は体操をすごく頑張ったんだけど、お腹に余裕が無いみたいでどうしても引っくり返らなくて。もう、すごく頑張ったんだけど、余裕がなくてダメなのねぇ。」
恐らく「逆子」らしい。
「娘さんはスリムでいらっしゃるんですか?」
おばちゃんは誰かに話したくて仕方ない状態全開だし、気になって来たのでつい余計なことだが聞いてみた。
「150ちょっと位で、30何キロだったかな。」
そりゃあ、相当スリムだ、けど恐らく現在の数値では無いんだろうな。
「それでね、帝王切開になったの。きょう、日付が決まってね。仕事があるからいつでも行ける訳でもないから。。」
確かに自然分娩だったら、日付は確定出来ない。
「失礼な言い方かもしれませんが、仕事がおありでしたら、返って日付の確定した手術の方が安心ですね。他のみなさんも来られるでしょうし。」
我が意を得たり風の表情で「そうなの!仕事が休めるんでねぇ!」と。
きっと近い内に、またいらっしゃるんだろうと思う頃、駅が見えて来た。
するとおばちゃんが「あぁ!! Aがあったぁぁ!!」
嬉しそうな声を上げた。
駅の近くの恐らくファミレスのAで、誰かと落ち合う予定だったのかもしれない。
病院から思いっきり「コの字」を描いて駅に着いたから、時間をオーバーしている雰囲気。
「あぁ、良かった、親切な人で助かりました!!」
「今度いらっしゃる時は、行きは左、左、帰りは右、右で。」
笑ってしまいそうな顔をどうにかこらえて、道順を伝授した。
「ほんとですねぇ、助かりました! あ、これ、持って行って下さい!」
おばちゃんはカバンをゴソゴソして、白い小さな紙袋をこちらに差し出した。
「途中のパン屋さんで買ったんだけど、少しだけど御礼に!」
これから舞台観劇・・。
なので「出掛けますので結構です。元々駅に向かってましたんで。」とお断りした。
「でも、ほんとに嬉しかったから、持って行って!」と、グイっと手のひらに乗っけられてしまった。
「有難う御座いました。ホントに助かりました!」
何回もお礼を言ってくれるおばちゃんへ、「そうですか、では頂戴致します。娘さん、お大事になさってくださいね。」と返事をして会釈した。
おばちゃんは安心した様子でAへ向かって行った。
駅の改札を抜けて地下鉄へ向かう。
手の中のパンはとても温かい。
きっと焼き立てパンを大事に持っていたんだと思うし、待ち合わせた人にあげるつもりだったんじゃないかな。
舞台を観て帰宅してから、袋を開いた。
真ん丸のかわいいパンが1個入っていた。
さつまいもが練り込まれたほんのり甘い優しいパンだった。
パンみたいにまんまるで元気な赤ちゃんが生まれて、娘さんも元気に一緒に退院出来ますように。
それと・・
今度はまっすぐ帰って、おばさん達で焼き立てパンを仲良く食べて欲しい。
そんな風に思った、気分の良いある日の話。