荒れた夏、落雷と拍手喝采。
海の思い出と言いますと、子どもの頃に家族で毎年海へ泊りで出掛けていました。
自営業の両親はそんなに仕事がノっている状態では無い中、姉と兄と自分の三人きょうだいを毎年頑張って連れて行ってくれました。
行きつけの旅館はどうやって見つけたのか謎ですが、おぼろげな記憶で3階か4階建てで、最上階はその気になれば外から丸見えな大浴場でした。
当時は高い建物が無かったし、望遠鏡があれば覗き放題だったかと。
大人になり車で前を通った時、建物は残っていましたが、全然旅館と関係無いサーファーな方が集うお店になっていました。
東京から伊豆まで「踊り子」だったのでしょうか、電車に乗り、両親ときょうだい3人の5人で賑やかに二泊三日で出掛けていました。
いつも思いっきりお盆の時期に行っていたので、海は自分達のような親子連れでとても賑わっていました。
旅館の1階の駐車場にゴムボートや浮き輪が置いてあり、それを持っては海で大喜びで遊んだものですが、今思い出すと、他のお客さんのものだったような・・
遊んだ後に乾かしていただけだったような・・・
そんな記憶がチラリズム。
使った後はまた駐車場に戻していたと思いますが、そこの記憶があいまいなことは内緒にしておきましょう。
約40年近く前の持ち主の方、申し訳ありませんでした。(念のため)
海だけにお夕飯は海の幸がたっぷり。
お刺身の舟盛りが豪勢でしたし、サザエのつぼ焼きの苦味も思い出します。
旅館そばの商店街は夜店を出していて、きょうだいでソフトクリームを買って貰ったものです。
買って貰った傍から道にソフトクリームを落してしまい、小さい自分はボロ泣き。
見かねたお店の方が、サービスでもうひとつ作って下さったことは嬉しい思い出のひとつです。
そんなある年。
お盆の天候は大荒れでしたが、無理を言って海に連れて行って貰いました。
旅館もキャンセルが出ていたのか空いていて貸切の風情、海も波が大荒れで高く、今考えると危険ですが、そんなことはおかまいなしのきょうだいは大喜びでフィーバーしていました。
ただ、太陽は出ていないため気温も低く、フィーバーしては、砂浜に戻って冷えた体にピッタリな紫のくちびるに赤みが戻るまで過ごし、またフィーバーを繰り返したものでした。
夜につれて天候の荒れ具合は増していき、旅館の部屋の窓に激しく雨が打ち付けられるほどに。
「こわいねぇ」なんて話しながら外を眺めていると、雷がビカッと光ってはズドォォォンと海に落ちる状態になってきました。
ビカビカビカ、ズドーーーン!!!
海に細いものから太いものまで雷がバッシバシ光っていました。
そんな旅館からいつもながめていた「4126」の電話番号だったり「海底温泉」で有名なあのホテル。
こちらは庶民的な旅館でしたから、子ども心に「金持ちホテル」と思って見ていた、あのホテル。
離れた場所に小さく見えるそのホテルの明りが明滅していました。
しかし、こちらの旅館は煌々と明かりが灯ったまま。
気付くと、家族全員が黙ってあのホテルを見つめていました。
雷鳴が轟く数秒後に明かりが明滅するホテル、片や窓に打ち付ける雨音だけが聞こえて、明りは盤石な旅館室内。
そして、クライマックスが訪れます。
ひときわ大きな雷鳴と共に、あのホテルが停電したのです!!
一斉に窓の明かりが溶け、暗い夜に没したホテル。
期せずして家族が
「ワーーッ!!」と歓声を上げて拍手をしていました。
(おいっ)
知らず知らずに一丸となって「勝負」をしていたのでしょう。
「庶民旅館 vs 金持ちホテル」
こちらは明りに支障無し、と。
大人になった今、雷や停電のニュースを見ると、あの鮮烈な勝利を掴んだ瞬間の記憶を家族で「あの時は凄かった!」と語らうのです。
「消えたよねぇ(こちらは安泰)」っと。
大人になりドライブで伊豆方面へ行った時に「あのホテル」の前を通ることがありました。
子どもの頃に見た「金持ちホテル」のイメージと違って、年月を感じさせる様相であり、結構庶民的な雰囲気でした。
家族で外食や旅行をする機会が殆ど無かった子ども時代。
考えると、両親が頑張って連れて行ってくれた旅館も室内は清潔でお料理も美味しく、子どもがギャーギャー騒いでいても従業員さんは大目に見てくれていたので、有難い話でした。
泊ったことの無い「ホテル」の響きは自動的に「金持ち」のイメージを持っていたんだと思います。
今の自分なら泊まれるホテル。
子どもの頃の自分に「旅館とそんなに大差ないよ」と教えてあげたいところです。
あ、あの頃の家族全員にも(笑)