どんな夜でも、越えると良くも悪くも朝が来る。
いまは40代、四捨五入で50代となりまして、仕事もひとり親方状態で会社を運営しています、約14年目。
それなので、8月31日の夜と行っても、土日に掛かっていなければ、日中は月末の支払いをシュっと送金したり、自分と相談役的な人間に給与の支払いをします。
そして、自分で作った給与明細を自分に「今月もご苦労様でした。」と思いつつ交付して、「今月も有難う御座います!」の気持ちで「受取り」ます。
なかなかのひとり芝居ですが、個人事業の方は大体そんな感じで月末を過ごされていると思います。
会社勤めの方は仕事終わりに、月例会や打ち上げの飲み会、または単純に軽く一杯なんかも、以前だったら行われていたかもしれませんね。
自分はひとりなので、おつまみを買って部屋でひとりで今月もお疲れ様でしたと、ビールなんて開けていました。
しかし、40代突入で急に喘息になってしまい、以前のようにグイグイ飲むことが出来なくなってしまいました。
すぐに酔うというか、呼吸が若干辛くなるような、体温が妙に上がり過ぎるような、そんな感じになってしまいます。
でも・・、誰か友人や飲み仲間と一緒なら、場の雰囲気でちょっと多く飲めたりするので、気の持ちようもあるかもしれません。
ひとり酒も楽しいけど、会話はそれに勝ることが多いですから。
大人の月末はそんな感じですが、子供の頃や学生時代について思いを馳せてみると・・・
約40日も連続で休める贅沢を全く有難く感じないで、ただただダラダラと過ごしていたように思います。
小学生の頃は、友達がやっていたソフトボールが一緒にやりたくて、そのチームに入るには地域のこども会への入会も必須だったため、こども会はイヤでしたが渋々入会していました。
夏休みの学校以外のイベントは、そのこども会のイベント事や、ソフトボールの練習や試合、遠征あたりが用事と言えば用事でしたでしょうか。
ソフトボールはとにかく楽しくて、どんなに暑くても練習場へ、バットやボール、グローブ、ホームベースなんかも持って自転車をチャリチャリと漕いで出掛けていました。
練習や試合が終わった後に、監督やコーチの買ってくれるジュースが冷えていて、それはそれは美味しくて楽しみな時間でした。
当時はあまり地域にソフトボールチームが少なくて、交流試合も多くはありませんでした。
たまにある交流試合や大会なんかも実に楽しみで、自分は当時が人生の檜舞台と思われる、ピッチャーで四番といった花形選手でした。
自画自賛で御座います!
他に自慢できることが少ないもので・・・。
最優秀選手賞やチーム自体の大会優勝の時のメダルなど、クローゼットの整理をする時にグローブと一緒に出てきます。
グローブはもう手が入らないくらいに小さかったりしますが、当時大事にお手入れをしていたせいか、キレイな状態。
触ると何となくグっと来るものがあって、あの頃の頑張っていた自分を思い出してしまいます。
場所を取ってしまってはいますが、捨てることが出来ないで、そのままクローゼットにすやすやと眠っています。
学校のことで思い出すのは、嫌で嫌で仕方なかった、学内コンクールのピアニカの練習日とプールの登校日。
ピアニカの練習日はとにかく楽器全般の演奏が苦手だったので、登校日はやれ「お腹が痛い」「頭が痛い」とベタでバレバレの嘘をついてはぶっちぎっていました。
練習日の予定表なんかも親に見せずに、どこかへ捨てて知らんぷり。
5~6回以上あったと思われる練習日を1回しか出ないで切り抜けました。
課題曲はサビの部分だけ弾ける状態にしておいて、それ以外は前に立っている子の体でピアニカの鍵盤をぴったりと隠して「エア演奏」で乗り切りました。
音楽の先生にはもちろんバレていたと思いますが、怒られた記憶が無いので「言ってもダメな子」としてスルーされていたんだろうと思います。
どうしても好きになれないイヤなことだったので、自分もスルーされていてラッキーとしか思っていなくて、成績が悪くても何とも思っていない、図々しい子供でした。
プールはクロールの息継ぎがどうしても上手く出来なくて、遠泳でも無いのに顔が平泳ぎのように前を向いてしまっていました。
いまも平泳ぎは出来ますが、クロールは出来ません。。
さらに確実に耳に水が入り、鼻とクチからも水を飲み放題状態となり、息継ぎの瞬間は溺れているように見えていたと思います。
水泳の帽子に確か三級とかの「級」だと「赤線」、三段とかの「段」だと「黒線」を貰えて帽子に縫い込めるシステムがあって、学年が上がっているのにいつまでも「赤線」のままでは気持ち的に辛かった覚えがあります。
クロールで25メートルを泳がないと「黒線」を貰える検定に合格出来なかったので、必死の息継ぎ無しで泳ぎ切ってやっとこさ「黒線」を貰えたような気がします。
これが悲劇の発端。
息継ぎ無しの必死の努力が逆効果として、素晴らしいタイムを叩きだしてしまっていたのです。
近隣の学校の集まる水泳大会の選手に、絶望感に打ちひしがれながら、選ばれてしまいました。。
選ばれし選手は他の児童とは別に泳ぎの練習をさせられました。
何とか息継ぎが出来るようにならないとヤバイ・・と、もちろん頭では思っているのですが、体はいかんせん思うように動きません。
嫌でも選ばれてしまったので仕方なく、一生懸命練習をしていましたが、体得出来ずに大会日を迎えました。
心底イヤで中止にならないかなぁと思っていたことを思い出しました。
気持ちがキュっとなります。。
1年生から色々と種目が行われて行って、5~6年の順番が始まります。
悶々としている間に、自分の出番がやってきました。
泳ぐのもイヤだし、同級生やみんなが見ている場でもあるので、緊張は倍加します。
ドキドキして呼吸も普段より上がってしまっていたと思います。
そして、よーい、スタート。
激しく腕を振り、足で水を蹴って、鬼の形相で泳いでいたと思います。
でも、緊張が呼吸をおかしくしていたせいか、20メートル手前辺りで息が続かなくなり立ってしまいました。
そこで緊張の糸も切れ、気力も途切れ、聞こえていた歓声も耳に入らなくて自分的にはシーンとしている状態で、一応泳ぎ切ったと思うのですが、後の記憶がありません。
恐らく、同級生に慰められたりしたんでしょうけど、さっぱり記憶消失。
これが自分の人生に取っての1位、2位を争う黒歴史となりました。
自分は高卒で、中学・高校はバスケ部に入っていたので、ほとんど毎日学校へ部活をしに出掛けて、そして合宿へ行ってといった夏休み。
いまは日焼けに泣かされているので、陽射し降り注ぐ中を、あの頃はグラウンドをグルグルと憑りつかれたように、水も飲まずに走っていたなんて考えられません。
蒸されたような体育館でも、これまた走り回って、鼻血を出したり。
高校3年は就職が決まってから、夏休みは部活も引退していたので、ガソリンスタンドでバイトをしていました。
これまたお客さんがいらっしゃる間は、外であっちこっちとバタバタで黒の長靴と長袖長ズボンの作業着。
汗ダクダクで洗車や窓拭きに頑張っていました。
割と真面目に遅刻早退欠勤無しで来ていたので、オーナーさんご夫婦に可愛がって頂いて、他のバイトさんに見つからないところでちょっとしたものを下さったり、食事に連れて行って頂いたりしました。
いまはそのスタンドも無く、建売住宅が立っていますが、前を通るとバイトをしていた時のことを思い出します。
いまは宿題の話でネットニュースが大騒ぎしたりしますが、自分はあまり宿題で追い込まれるようなことは無かった気がします。
学校行事の練習をぶっちぎるような子供だったので、怒られたり注意されても聞いていなくて覚えていないだけかもしれませんが。
最近は長期の休み明けは悲しいニュースもあったりします。
昔は無かったけど、今は見えないネット環境で徒党を組まれたり、妙な誘惑があったり、色々なことに追いまくられて息の詰まることが多いような気がします。
「気を付けて見てあげていれば」と言ったところで、困っている本人がクチにも態度にも出さないと汲み取れないと思います。
子供だって人間ですから、感情があって好きも嫌いもあります。
自分が子供の時のことは、今回書いていて思い出そうとしても、細部まできっちり覚えていることは、案外「イヤなこと」の方が多かったように感じます。
大人も子供も時間があっても上手に使えない環境下だったり、場合によっては時間に追われる状態だったりします。
少しでも楽しいことがあって、頑張った分を時間を作って楽しみに当てたり、困ったことがあったら相談したり、聞いてあげられるような、そんな夏休みになると良いですね。
それと、夏休みが終わって、学校が始まることが楽しみになる、または無理をして行かなくて良い、そんな環境にもなって欲しいです。