過去を抱きしめ続けることに意味はあるか
今日もひたすら引っ越し準備をしています。
3年半ほど住んだ今のお家ですが、なんという物の多さ!
そして大事な書類がソファの裏から出て来て今ちょっと焦ってます…明日電話しなきゃ…
棚の偉大さに気付かされ、自分が捨てられない人間であることを自覚する毎日ですが、ふと年末にシネマカリテで見た「ハッピーオールドイヤー」(ナワポン・タムロンラタナリット監督/2019年)を思い出しました。
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ハッピーオールドイヤーのあらすじを簡単に紹介すると、留学先でミニマリズムに影響を受けた主人公が帰国し、実家のリフォームのため断捨離を行っていく様子を描いたタイの映画です。
先にあるように私は捨てられない人間なので、ミニマリズムについて扱うこの映画にさほど関心はなかったのですが、見始めるとやはり自分には異様に感じられ、以前読んだ韓国の作家ハンガンの「菜食主義者」を思い出しました。こちらは次第に菜食主義者になっていく女性を描いています。
自分や自分の周りから何もかも排除していこうとする行為は、長い時間をかけていつの間にか嫌な物ばかりで埋め尽くされてしまった自分自身への反抗なのではないかと思います。
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自分にとって許せない物、嫌いな物に気付いたのはいつのことだろうか。
私は社会人になってからそのような物がだいぶはっきりして来たような気がします。
折に触れて、嫌だと思う対象や許せない(怒りの)対象は、出来るだけ早く気付くことが出来ると良いなと思うことがあります。
でないと、自分がそれに気づいたときには、その異物の中に自分自身が埋もれてしまっているからです。
大事なのは自分がどう感じるかであって、家族や友人、憧れの人や恋人がどう感じるかではない。
そもそも許せないものに気付くことのない(関わることのない)人生というのも幸せだと思うが、おそらくそうでないことの方が多いのではないか。
菜食主義者にしてもハッピーオールドイヤーにしても、彼女たちは気づいてしまったのではないだろうか、自分にとって許せないものが何であるか。その時、既に汚れてしまった自分を清めようとしているのではないか。
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さて、では物を捨てられない私はつまり、過去を抱きしめ続けているわけです。
でも彼女たちのように、そこにある全てが輝かしいわけではない。目を背けたい物もなくはない。
ハッピーオールドイヤーの中でも、次第に物を捨てることに対して葛藤が生まれてくる。それはなぜなのだろうか。
と、ここまで書いて今日は終わりにしたい。