還りゆくケモノたち

 ヘッドを脱ぐ。暑さから解放された爽快感と、もう少し違う自分でいたかったな、という名残惜しい気持ちが同居する。思わず頭を振ってしまう。さっきよりは周囲が見やすくなっている感覚を余韻に残しながら、残ったボディを脱ぐ。
 今日のグリーティングは楽しかった。突発的に近所の住民で計画された小規模なものだったが、まだケモノになることを知らず、それでも親しみをもって接してくれる人々と触れ合うのは楽しかったし、
もう色んな形でケモノになることを選んだ人々とはしゃぎ回るのはもっと楽しかった。近所の公園、買い物に使う商店街、お正月などのイベントの時はおなじみの神社仏閣、この格好で外を歩くようになって長いが、さっきのようなイベントの時は世界がテーマパークになったような気分が味わえる。いつもこの格好で出歩いていても、やっぱりイベントは違うよな。
 ちょうど世界的な感染症が流行り始めて、10年ほど経った頃だっただろうか。国内がまだまだ感染症の不安に苛まれる中で、最初は型破りな、それでも画期的な生活様式を行う人が出始めた。
 このジャンルの歴史は長い。着ぐるみも様々なコンテンツも、国内においても海外においても起源が100年近く前に遡るし、インターネットが普及し、世界中の人々と交流できるようになってからは更に活動が活発になった。一時は奇異な目で見られたこともあったけれど、可愛い、カッコいい着ぐるみで感染症による影響を極力抑えて人と触れ合えるのは、歓迎された。頑張れば自分の思い通りの着ぐるみを作成したり、あるいはオーダーして作ってもらったりする技術やサービスが普及し、着ぐるみの消毒技術や、着ぐるみの中でも快適に過ごせる技術発展が為されたことも普及に拍車をかけた。僕は理由が理由なので旧式の、視界も狭くて温度調節機能がまだない着ぐるみを使っているけれど、それでもみんなとイベントを開いたり、触れ合うのは楽しい。基本家から出なくてもいい、珍しくもないWebライターだけれど、着ぐるみを着れば、途端に外に出たくなる。
 ボディとヘッドに消臭剤をかけたあと、最近買った着ぐるみ用のホルダーラックにかける。ラフコリーがモデルで、ボディのファー部分が長く胸まで垂れるような作りにしてある。これは手作りだけれど、なかなかうまくできたものだと我ながら自慢に思っている。問題がないかどうかチェックした後、仕事と趣味に使っているパソコンに向かう。明日はメタバースで、最近流行りのアバターの製作者にインタビューをするつもりだ。
 ネット世界は現実世界の写し鏡だ。2020年代から注目され始めたメタバースは巨大化し、更に国内コミュニティではケモノの容姿のアバターを用いるユーザーが大幅に増え、今やケモノ専門のメタバースソフトまで存在するほどだ。着ぐるみなしで外に出る機会が少なくなった現在において、メタバースの世界が人と会話する主なフィールドと言ってもいい。場所という制約があるにも関わらず、通話アプリよりも隆盛している、一方で何にでもなれるバーチャル空間を好む、という、現実と虚構が混在する状況が、ネット世界には存在している。かつて流行ったソーシャルネットワークサービスなる概念も、メタバース内に取り込まれて久しい。僕はイラストを扱うギャラリーワールドが好きで、世間話を行うチャットワールドは少し苦手だ、というように、個人に合わせて好きなワールドに行くこともできる。
 そして、ネット世界と現実世界は融合しつつあると言ってもいい。プロジェクションマッピングで自分の着ぐるみを「メイク」する技術が大流行しているし、拡張現実や開発中のホログラムを使って、メタバースにいながら現実の着ぐるみたちとグリーティングする、という試みもたくさん為されている。新型の着ぐるみだと、アノテーションがそのまま視覚モニターに表示されるため、ますます現実とネットの区別はつかなくなっているらしい。ケモノという糊によって、2つの世界はぺったりとくっついてきている。
 ネットに影響されて、現実もまた進歩を続けている。着ぐるみアイドルが人気になることは今や珍しいことではないし、中部地方のホテルや、瀬戸内海の島など、老舗イベントも規模を拡大し、かつての大規模同人誌即売会を髣髴とさせる巨大イベントになりつつある。この国は色んな形で、ケモノに覆われてきている。
 そんな中で、僕が旧式の着ぐるみにこだわり続けるのには理由がある。それは、かつて着ぐるみを着ていた先駆者たちの気持ちを、忘れないためだ。感覚も気持ちも、ケモノに、そう、動物たちになろう、いや、戻ろうとしていたその理想を、まだ覚えていたいからだ。
 僕だけではない。かつてケモノを好む人たちが求めた、動物に戻りたい、という気持ちを次代へと受け継ぐために活動している人たちはたくさんいる。旧式の着ぐるみを必ずしも使う必要はないが、ケモノになることを通して、動物に還る、それを忘れたくないひとは、意外といるんだ。
 今では支持されていない学説だけれど、生物学に環世界というものがある。動物の見ている世界と、人間の見ている世界は、全く異なるという概念だ。人間に動物の気持ちはわからないし、動物の見ている世界は実際には知ることができない。でも、人間には想像力がある。これだけケモノを発達させた想像力を活かせば、動物の見ている世界、人間がかつて失ってしまったものを、想像によって補うことはできるのかもしれない。
 あるいは、やはり否定された学説だけれど、発生反復説というのがある。人間の胎児のような、ある個体の発生過程が、辿ってきた進化の道筋を示している、という話だ。進化の概念でそれは間違いだったのかもしれないけれど、ケモノという文化、ジーンではなくミームの世界では、この概念は当てはまってしまうのかもしれないと思う。
 ニュースには、法改正までして可能になった、とある医学的な臨床試験の話が大見出しで載っている。そうまでして、人々はケモノに、動物に戻りたいのだろうか。今は後天的な人体改造で済んでいるけれど、いずれはきっと、動物の遺伝子を導入されて、人間でもあり動物でもある存在が生まれてくるだろう。僕のように。ケモノは倫理を超えるんだ。でもそれは、単純に人々がケモノに憧れてなりたいのと、一部の人々が動物であったことを思い出したいだけではないのかもしれない。環境破壊は今でも進んでいる。また絶滅も起こるだろう。そうなったときに、彼らの代わりになる者が、人間の中から現れるのではないか、あるいは、せめて彼らのいた証拠を、その身体でもって覚えている者たちが必要になるのかもしれない。ある意味、僕のように。
 きっとこの国は、いずれケモノの国になると思う。そうなったとき、僕は、いや、我々は本当に姿を現すべき時が来るのだろう。僕らのような種が、生まれながらの獣人がどうやって生まれたのか、そして生態系において、この星においてどんな役割を担っていたのか、その時、人々が僕らを受け入れた時、必ず解明してくれるはずだ。その際には、僕が何故絶滅したオオカミの姿をしているのかも、教えて貰おう。
 世界はケモノで満ちている。そしていずれ、獣へと還る。

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