例は多数である必要があるか?実施可能要件を考える。(試行)
知的財産高等裁判所令和5年(行ケ)第10019号判決に基づく実施可能要件の考察
1. はじめに
特許制度において、明細書の記載要件は発明の公開と独占権付与のバランスを保つために極めて重要である。特に、実施可能要件は、当業者が過度の試行錯誤を要することなく発明を実施できるよう、明細書に具体的かつ十分な記載が求められる。本稿では、知的財産高等裁判所令和5年(行ケ)第10019号判決(以下、「本判決」)を通じて、実施可能要件の適用とその判断基準について考察する。
2. 事件の概要
本件は、リジェネロン・ファーマシューティカルズおよびサノフィが保有する特許第6353838号(以下、「本件特許」)に対し、科研製薬が無効審判を請求し、その審決取消を求めた事案である。本件特許は、抗ヒトインターロイキン-4受容体(IL-4R)抗体を用いた中等度から重度のアトピー性皮膚炎患者の治療方法に関するものである。科研製薬は、進歩性の欠如、サポート要件違反、実施可能要件違反を主張した。
3. 実施可能要件の法的枠組み
特許法第36条第4項第1号は、明細書に発明の詳細な説明を記載し、当業者が発明を実施できるようにすることを求めている。これは、発明の公開と特許権付与の対価として、社会に対して発明の内容を提供する趣旨である。実施可能要件は、当業者が過度の試行錯誤を要することなく、明細書の記載に基づいて発明を再現できることを要求する。
4. 本件における実施可能要件の検討
4.1 明細書の記載内容
本件特許の明細書には、抗IL-4R抗体である「mAb1」を含む33種の抗体が取得されたことが記載されている。また、mAb1を中等度から重度のアトピー性皮膚炎患者に投与した際の治療効果や、バイオマーカーであるTARCおよびIgEのレベル低下が示されている。
4.2 当業者の理解
本判決では、当業者が明細書の記載および技術常識に基づき、IL-4Rに結合しIL-4を遮断する作用を有する抗IL-4Rアンタゴニスト抗体(以下、「本件抗体等」)を、公知の方法およびスクリーニングにより、過度の試行錯誤を要することなく製造できると認めた。さらに、これらの抗体を患者に投与した場合、治療効果を有することを合理的に理解できると判断した。
4.3 実施可能要件の充足性
本判決は、明細書の記載が当業者にとって発明の実施を可能とするものであり、実施可能要件を満たしていると結論付けた。具体的には、mAb1以外の抗IL-4Rアンタゴニスト抗体であっても、同様の作用効果を有すると当業者が理解できるとした。
5. 判決の意義と考察
本判決は、実施可能要件の判断において、以下の点で重要な示唆を与えている。
5.1 明細書の具体的記載の重要性
明細書において、具体的な実施例や実験結果が記載されていることは、当業者が発明を実施する際の指針となる。本件では、mAb1の具体的な取得方法や治療効果が詳細に記載されており、これが実施可能要件の充足に寄与した。
5.2 当業者の技術常識の考慮
実施可能要件の判断において、当業者の技術常識や公知の技術が考慮される。本件では、抗体の取得方法やスクリーニング手法が公知であり、これに基づいて当業者が発明を実施できると認められた。
5.3 発明の範囲と実施可能要件のバランス
クレーム範囲が広範である場合、その全範囲について実施可能であることを示す必要がある。本件では、mAb1以外の抗IL-4Rアンタゴニスト抗体についても、同様の作用効果を有すると当業者が理解できると判断された。
この点、実施例が少数であるからという理由だけでは、実施可能要件違反とまでは言えないとの判示がされたことの意義は大きいと考える。