暗闇の色は
通勤で乗り換えに使う駅が最近、絵の具の匂いを充満させている。
去年の夏頃から始まったこの工事は、駅の見た目を大きく変えることはなく、けれども着実に工程を進められているらしい。
ある一定期間で警備員の立ち位置が変わっているから、おそらく。
長期的な工事のせいで、月が変わるごとに通れない通路ができていたり、昨日まで平気で通っていた通路が狭くなって不便に感じたりしているが、先週どこを工事していたかはもう思い出せない。
そんな駅が最近、なんとなく絵の具の匂いを漂わせるようになった。
不快ではないけれど、気持ちよくもない。
毎日乗り換えるだけのその一瞬、長くて5分、顔をしかめることもない程度の、かすかな違和感。たったそのくらいのこと。
電車で隣のお姉さんから強烈な香水が香ってくるより、ずっとマシな、そのくらいのこと。
しかしながらただひとつ、この絵の具の匂いは、私の身体に不思議で大きな変化をもたらした。
この駅にいる間、私の眼前に、匂いや音が色となって現れるようになったのだ。
ゆらゆらと、さらさらと、流れて移ろいゆく姿をしばらくずっと見続けなければならない身体になってしまったのだ。
これは大変、困ることであった。
私は仕事柄、帰宅する頃には半規管がクタクタになっており、非常に酔いやすくなってしまっている。
車窓をぼーっと眺めているだけでも酔ってしまうし、スマホの画面や本の文面を見るなんて言語道断。
すぐさま平衡感覚が失われ、胸とこめかみの辺りがジリジリと圧迫されてしまう。
目をつむるしか、無事に帰宅できる方法がないのだ。
ところがこの、絵の具の匂いにより授かってしまった特殊な感覚は目を瞑っていたとしても、まぶたの中の暗闇の中で、ゆらゆらと、さらさらと、流れ移ろいゆくではないか。
耳や鼻から入った物理信号は、カラフルなマーブリングのインクに変換され、あの水面を自在に漂う色色になって私の暗闇で揺らぎ続けている。
この絵の具の匂い自体は、どろっとしていて赤や紫をどんよりと漂わせる。
右のほうからやってきて、下へ下へと泳ぎながら、どっぷりと溜まって私の身体をも重くさせる。
その間に移動している私自身の足音が、黄色になってポトポトと、暗闇の水面に落とされる。
じわっと広がって、停滞する毒色の上へ極めて薄い半透明の色膜をのばしていく。
それから電車が来るまでの、束の間の静寂に、青色が左のほうからざーーっと流れてくる。
目の前のパレットを洗い流すように、重さを感じさせないスマートさで、あっという間に私の暗闇は青になる。
青になり、藍になり、黒になりかけた時、真っ白と真っ赤が右のほうから一斉に、土砂崩れのようになだれ込んでくる。
電車が来た。
全てを混ぜて、チカチカと目の奥を刺激しながら、少しずつやんわりと薄く光に消えていく白と赤。
なんとか空席を見つけて、すでに気持ち悪くなっている身体をずっしりと沈める。
隣のおじさんの雑誌の匂いは草色、目の前のお姉さんの香水は橙色。
混ざって混ざって、でもちゃんと輪郭は見えているから灰色になんかならなくて。
そうはいっても、綺麗とは思えないのだけれど。
色の渋滞に目が回り、意識を取り戻したのは最寄駅のひとつ前。
大勢が降りていってようやく深く息がつけるこの時になって、ようやく色地獄から解放される。
あの絵の具の匂いは何なのか。
どうして突然色の海が現れたのか。
きっとあの匂いがしなくなるまで解明できないに違いない。
だから、どうせなら、綺麗な海を見せておくれよ。
たのしく生きます