言葉に溺れる
金曜日の夜だから、ちょっとくらい良いよね、いつもしない話をしようかな。
私は身体で受け入れるより、脳で受け入れる方が果てしなくきもちよかったりする。
身体で受け止めるのは苦手だ。
身体と思考が分離して、私自身を置いてけぼりにしてしまう感じがする。
よく「相手のことがわかったような気持ちになれる」「ひとつになれた気がする」なんて聞くけれど、私の身体がポンコツなせいか、そんなきれいなことを感覚として持てたことがない。
それに比べて、言葉を交わすことで「わかったような気持ちになれる」ことが、ままある。
気持ちがいいとか、トんじゃうとか、そういうんじゃないけれど。
人との会話で自分の意識を掘り下げたり、相手の中身がさらけ出されるところを目の当たりにしたり、そういうことに時々恵まれる。
そういう時、私は自分の脳をぐっちゃぐちゃにされてる感覚と、人の脳をぐっちゃぐちゃにしている感覚がある。
たぶん、凹も凸も両方同時に使っている感じ。そんな使い方できないからわからないけど。
その人の言葉を聞くのが、きもちよくなる。
私の中から言葉を引きずり出すのが、きもちよくなる。
私にとって、相手の身体が私の身体にもたらす快楽より、相手の言葉により私の脳と心が全力で稼働したときの快楽の方が、はるかに大きいのだ。
おしゃべりがすきだからだろうか。
相手の目を見つめるのがすきだからだろうか。
人の奥底を見せてもらえるのがすきだからだろうか。
昔からそう。
誰かと手を繋ぐよりも、誰かと思考をつなぐ方がうれしかった。
誰かと抱き合えるよりも、誰かと意識を合わせられる方が胸が高鳴った。
誰かといろんな体液を渡し合うよりも、誰かと言葉を渡し合う方がしあわせだった。
会話で感じる快楽も、言ってしまえば音による身体感覚によるものだけれど。
それだけではないあの脳が私の頭蓋骨の中でぐるぐるぐちゃぐちゃと動き回っている感覚が、私はたまらなく好きなのだ。
自分の言葉で私がそんなことを考えてるなんて、想像しただけで気持ち悪いと思うかもしれないけれど、私はこの感覚の中毒だから許してほしい。
そういう感覚を味わえそうな人たちの言葉を、私の脳をぐちゃぐちゃに掻き回してくれる人たちの言葉を、死ぬほど心待ちにしているどうしようもない人間なのだよ、私は。
そして私は、今何よりも、この感覚がわかる人と言葉を交わしてみたいと思っている。
いるかどうかわからなくても、私一人しか持ってない感覚なんてないだろうから。
出会えたことはまだ、一度もないのだけれどね。
たのしく生きます