三十八話「はなめがね」
よく分からない話。
Oさんが一人暮らしを始めたときのこと。
家賃の安さを優先して駅から離れたアパートの一室を借りたのだが、妙に居心地が悪い。はじめての一人暮らしだったし、慣れない新生活で日々積み重なるプレッシャーからストレスがたまっていたのかもしれない。
彼女いわく、言葉では説明しづらいものだが、自分の家なのに気の合わない知り合いの家にいるような、まるで誰かの家にあがりこんでいるような感覚が拭えなかった。
そんな生活でも、例えば映画や動画なりを集中してみたり、歯を磨いたり、風呂にはいるときだったり、そんなときだけは得体のしれない圧迫感から解放されていた。
だが、いつの頃からか、そんなときでもふと後ろを振り返ることが増えた。うなじに無駄な髪の毛がすっ・・・と滑り込んでくるような違和感、誰もいないはずの一室なのに、どこかから視線を感じるようになったという。
そんな生活を続けてそろそろ1年が経ちそうになったある日のこと。
その日のOさんは、ちょっとしたことでイライラが収まらずに、玄関から居間までの通りを行ったり来たりしていた。
すると突然、ガクッと体が地面に叩きつけられた。
状況が理解できずにパニックになった頭と、激痛の走る足を抱えながらOさんはその場でのたうち回った。
痛みが軽くなったところで足場を確認すると、ちょうど足一本が突っかかるほどの穴が開いていた。どうも床を踏み抜いて転んだようだった。
今度はこの穴をどうすればいいのか、誰に連絡して、慰謝料は・・・などと頭のなかが混乱しながらも、床の様子はどうなっているのか穴を覗き込んで確認してみた。
真新しかったフローリングが破片状になり、埃まみれで薄暗い空間におかしなものがあった。
ペンギンのキャラクターがマスコットの雑貨屋でよくみる“ 鼻めがね ”。なんとも間抜けな一品なのだが、Oさんは眼鏡を使わないし、そんなものは買ったことも貰ったこともない。
しかも、その” 鼻めがね ”は、まるでいまそこに誰かが置いていったような状態であった。
その” 鼻めがね ”を手に取ったとき、Oさんのなかで氷解するものがあった。
そうか。いつも” コイツ ”が自分のことを覗き込んでいたんだなあ。
だから誰かと生活しているような気がしたのか。・・・と。
Oさんはいまでもそのアパートに住んでいる。
「なんなのか分からないけど、覗くだけじゃなくて、こっちに来るようになったんじゃないかなあ」
家賃の安さと” ソレ ”が引っ越さない理由だというのだが、いまいち要領を得ない。
「それはどういうことですか?」と尋ねても
「ただの妄想ですよ。でも、本当に鼻めがねがあるのか家にきて確かめてみます?」と、彼女はいたずらっぽく笑うだけであった。
もちろん、それ以来Oさんとは連絡を取っていない。