What's Stax ? Why Stax Now ? ③アトランティックの思惑
ジェリー・ウェクスラー(Jerry Wexler)
ニューヨークのユダヤ系の家に生まれたジェリー・ウェクスラー。
ビルボード誌の記者時代のウェクスラーは、音楽ですら人種差別的に扱われていることに違和感を感じたことから「レイスを使った名前で呼ぶ時代じゃないだろう」という考えから『Rhythm&Blues (R&B)』と表現することを提案。1949年から『R&Bチャート』がスタート。
1953年、ウェクスラーは、アトランティック・レコードの共同経営者になり、音楽プロデューサーとしての活動が始まります。
レイ・チャールズやドリフターズを手がけ、アトランティックはブラックミュージックの一大レーベルになっていきました。
1960年、ウェクスラーはスタックスに『ルーファスとカーラの全ディスクのマスターリース契約と、スタックスの全リリースの配布における先取特権に関するハンドシェイク契約』を提案します。
この契約により、アトランティックはスタックスの流通を引き継ぎ、スタックスのレコードが店頭に並ぶようになっていきました。
カーラ・トーマスの新作がいつまでたっても上ってこないことに業を煮やしたウェクスラーは、プロデューサー/エンジニアであったトム・ダウド(Tom Dowd)をスタックスへ派遣し、スタジオのレコーディング機材をモノラルからステレオにするなどの近代化を図ります。
新機材で録音してヒットしたのが「Walking The Dog
なぜSam&Daveのレンタルは成功したのか?
アトランティック・レコード所属のサム&デイヴ(Sam & Dave)をスタックスにレンタルするのは、実質的には、彼らをスタックスでレコーディングさせるための提携と見なすべきと思います。
スタックスが持つ音楽的環境とサム&デイヴの音楽スタイルが、非常によく合っていました。サム&デイヴのエネルギッシュで情熱的なパフォーマンススタイルは、スタックスのバックバンド、特にブッカー・T. & ザ・M.G.'sやバーケイズといったグループと非常に相性が良かったのです。
ウェクスラーは、スタックスがサム&デイヴに適した制作環境を提供し、彼らの才能を最大限に引き出すことができると判断したのでしょう。
サム&デイヴのスタックスでのレコーディングは、彼ら自身のキャリアだけでなく、スタックス・レコードのレーベルとしての地位を高めるのにも貢献しました。
この提携は、音楽業界におけるレーベル間の協力の成功例としてしばしば引き合いに出され、ソウル音楽とR&Bの黄金時代を象徴する出来事の一つとなっています。
1966年6月
「Hold On, I'm Comin'」がビルボードR&Bチャート第1位
ビルボードHot100で最高位21位。Cash Box Top100で最高位16位。
大ヒットとなって、スタックスの名が全米に知れ渡ります。
ウイルソン・ピケットとスタックス
ウィルソン・ピケット(Wilson Pickett)は、アトランティックに所属しており、ウェクスラーの思惑(ピケットの音楽性がスタックスの生のサウンドとよく合う)によってスタックスに送り込んでレコーディングを行わせました。
彼のスタックスでの最も有名なヒットには、「In the Midnight Hour」(1965年)で、ブッカー・T. & ザ・M.G.'sのメンバーであるスティーヴ・クロッパー(Steve Cropper)と共同で書いた曲です。
この曲は、ピケットのキャリアにおける転機となり、ソウルミュージックのクラシックとして広く認識されています。
ピケットは、1960年代のソウルミュージックを代表するアーティストの一人となり、彼の成功は、アトランティックとスタックスの間の協力関係の成果を象徴しており、両レーベル間のパートナーシップがいかに音楽史に影響を与えたかを示しています。
ハンドシェイク契約の落とし穴
スタックス・レコードは、その独特な「メンフィス・サウンド」で知られていき、生のエネルギーとソウルフルな演奏が特徴でした。
1965年5月、スタックスはアトランティックと正式な全米を対象とした配給契約を正式に締結しました。
ウェクスラーを全面的に信頼していたジム・スチュアートは弁護士にも相談せずサインしてしまったのです。
これが後々大問題となります。この契約には、アトランティックがスタックスから受け取ったマスターの所有権を有する旨の条項が含まれていたのです。
続く、、、
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