1940年代の西海岸での大きな事件とジャズ・アット・ザ・フィルハーモニック
1940年代のアメリカ西海岸地域は、戦争と経済成長による人口爆発と都市化していきます。
ロサンゼルスは、かつてスペイン~メキシコ領であったことから、メキシコ・キューバ・プエルトリコといったラテン系アメリカ人やアフリカ系アメリカ人と太平洋地域に対する玄関でもあるので東洋系人種も多くいる地域です。
「アメリカ主流社会への反抗」「メキシコの価値観・文化を保持する親世代への対立感情」があり、独特のファッション・スタイルをしたメキシコ系アメリカ人の若者たちは『パチューコ』と呼ばれ、周囲の人々からは、「ギャング集団」と見なされて、疎外されていました。
『ズート・スーツ』:極端にだぶだぶしたシルエットが特徴。上着はたっぷりと長く、スラックスは裾口で急に詰まった感じのシルエット。
人種に関係なく、このファッション・スタイルの人は『ズート・スーター』と呼ばれました。
『ダックテイル(髪型)』:日本で「リーゼント・ヘアー」呼ばれている髪型で、アメリカでは「ダックテイル・ヘアースタイル」と呼びます。
多くの米国の軍人と民間人は、ズート・スーツ自体を戦争努力に有害と考え「ズート・スーターは非アメリカ人」と見なすようになっていきます。
【スリーピー・ラグーン事件】
1942年8月2日の朝、23歳のホセ・ディアスがイースト・ロサンゼルスのスリーピー・ラグーン(公共プールから追放された若いメキシコ系アメリカ人が頻繁に訪れる貯水池)近くで何者かの暴行で殺害された事件。
ロサンゼルス市警は、メキシコ系の若者を片っ端から逮捕。ホセ・ディアスの死の正確な原因を含む十分な証拠がないにもかかわらず、当日スリーピー・ラグーンを訪れていたという理由だけでギャングの17人を殺人容疑で起訴。
1943年1月13日:カリフォルニア史上最大の大規模な裁判
22人の被告のうち『3人が第一級殺人罪で無期懲役』『9人が第二級殺人罪で懲役5年』『5人が脅迫罪で懲役1年』の有罪判決を宣告
事件から2年後の1944年10月:州控訴裁判所は、有罪判決を維持するには証拠が不十分であると満場一致で決定。被告全員、前科を抹消されて刑務所から釈放されました。
【ズート・スーツ暴動】
1943年6月3日の夜、イースト・ロサンゼルスで、アメリカ海兵隊員がダウンタウンで手あたり次第ズート・スーターに襲い掛ってスーツを引き裂き、ダックテイルを切る暴行に及んだのが始まり。
この一連の街頭戦闘は、6月8日まで続きます。
カリフォルニア州知事によって任命された委員会は「攻撃は人種差別によって動機付けられた」と結論付けましたが、ロサンゼルス市長のボウロンは「メキシコの少年非行」が暴動を引き起こしたと主張して、意見の食い違いが表面化しました。
ジャズ・アット・ザ・フィルハーモニック(以下「JATP」と略す)
1944年7月2日:スリーピー・ラグーン弁護委員会からの要請『被告人支援の資金集め』の目的も併せて、ロサンゼルス・フィルハーモニック・コンサートホールで2,000人以上もの観客を迎えたジャム・セッション・イベント「JATP」が開催されました。(主催者は、ノーマン・グランツ)
<出演者>
ナット・キング・コール、J・J・ジョンソン、レス・ポール、ベニー・カーター、テディ・ウィルソン など
クライマックスは、レス・ポール(白人のギター・リスト)とナット・キング・コール(黒人のピアニスト)による即興演奏で、観客は総立ちとなり、空中に帽子が飛び交っていたほどの盛り上がりでした。
この第1回JATPは大成功によって、第二次大戦中から50年代にかけて、全米各地で数百回開催(全盛期には年間150回開催)して、ヨーロッパやアジアにも進出する大規模事業へ発展していきました。