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【真面目に】冷戦下アメリカの人種差別とジャズのアナザーストーリー
『ジャズ』は レコード・ラジオ・映画といった娯楽メディアとして発達していった 黒人文化にルーツがある【20世紀的文化】です
この『ジャズ』を【アメリカを代表する文化】とすることに関しては 白人社会では素直に受け入れられなかったようです
『偏見』『先入観』は 人間の根底にある『意識や歪み』『潜在意識』が関わることなので 「抑制すること」「時間をかけて解消していくこと」は可能とは思いますが簡単にはいきません
1940年代前半のロサンゼルス
ロサンゼルスは かつてスペイン~メキシコ領であったことから メキシコ キューバ プエルトリコといったラテン系アメリカ人 アフリカ系アメリカ人(黒人)太平洋地域に対する玄関でもあるので東洋系人種も多くいる地域
1940年代初頭ロサンゼルスには 多くのメキシコ系アメリカ人労働者階級の若者たちがいました
彼らは「アメリカ主流社会への反抗」「メキシコの価値観・文化を保持する親世代への対立感情」があり 『ズート・スーツ』『ダックテイル(髪型)』『カロ(エルパソ出身者特有の言葉)』という独特なスタイルで『パチューコ』『ズート・スーター』とも呼ばれていました
『ズート・スーツ』とは
1930年代末東海岸で生まれた極端にだぶだぶしたシルエットが特徴のスーツ スウィング・ミュージックとともに西海岸に広がっていきました
第二次世界大戦下 羊毛・絹およびその他の布地を使用した民間衣料の商業生産は規制されていたにも関わらず ロサンゼルスの多くの人を含む「海賊盤」の仕立て屋は 大量の配給生地を使用した人気のズート・スーツを作り続けました
そこで 多くの米国の軍人と民間人は
ズート・スーツ自体を戦争努力に有害と考えズート・スーター(ズート・スーツを着た人)は非アメリカ人
と見なすようになっていきます
個人レベルではなく 個人を取り巻く共通の集団や社会構造が 人種差別に影響を与えるようになっていき 大きな事件が起こります
スリーピー・ラグーン事件
1942年8月2日の朝 23歳のホセ・ディアスが イーストロサンゼルスのスリーピー・ラグーン(公共プールから追放された若いメキシコ系アメリカ人が頻繁に訪れる人気のある貯水池)近くで何者かの暴行で殺害された事件
ロサンゼルス市警は メキシコ系の若者を片っ端から逮捕
ホセ・ディアスの死の正確な原因を含む十分な証拠がないにもかかわらず 当日スリーピー・ラグーンを訪れていたという理由だけで ギャングの17人を殺人容疑で起訴
1943年1月13日:カリフォルニア史上最大の大規模な裁判
22人の被告のうち『3人が第一級殺人罪で無期懲役』『9人が第二級殺人罪で懲役5年』『5人が脅迫罪で懲役1年』の有罪判決を宣告
スリーピー・ラグーン事件裁判とは 公平な裁判を受けることができず冤罪ともなってしまった青年たちの裁判です
ズート・スーツ暴動
1943年6月3日の夜 海兵隊員がダウンタウンで手あたり次第ズート・スーターに襲い掛り スーツを引き裂き ダックテイルを切る暴行に及んだのが始まりで 6月8日までロサンゼルスで発生した 米国海兵隊員グループとズートスーツを着たメキシコ系・アフリカ系アメリカ人との一連の街頭戦闘
カリフォルニア州知事によって任命された委員会は「攻撃は人種差別によって動機付けられた」と結論付けましたが ロサンゼルス市長のボウロンは「メキシコの少年非行」が暴動を引き起こしたと主張(多くの負傷者がでましたが 死亡者はなしという報告)
この2つの事件によって アメリカ社会全体から「メキシコ系アメリカ人の若者は犯罪に走りやすい集団」と見なされるようになりました
事件から2年後の1944年10月
スリーピー・ラグーン弁護委員会(少年たちの無罪を訴える)の活動もあって 州控訴裁判所は 有罪判決を維持するには証拠が不十分であると満場一致で決定
【スリーピー・ラグーン事件】の被告は 前科を抹消されて刑務所から釈放されました
「ジャズ・アット・ザ・フィルハーモニック」誕生
ノーマン・グランツ
アメリカのジャズの音楽プロデューサー 興行主 ヴァーヴとパブロという二つのレコードレーベルを創設
( ⇓ ⇓ 詳細は下記記事をご参照 ⇓ ⇓)
1944年7月2日:ロサンゼルス・フィルハーモニック・コンサートホールで2,000人以上もの観客を迎えたジャム・セッション・イベント
「ジャズ・アット・ザ・フィルハーモニック(以下「JATP」と略す)を開催
このイベントはスリーピー・ラグーン弁護委員会からの要請もあって『被告人支援の資金集め』として開催されました
出演者:ナット・キング・コール J・J・ジョンソン レス・ポール ベニー・カーター テディ・ウィルソン イリノイ・ジャケーなど
クライマックスは 白人のギターリスト:レス・ポールと黒人のピアニスト:ナット・キング・コールによる即興演奏(観客は総立ちで空中に帽子が飛び交っていた)
第1回JATPは大成功
第二次大戦中から50年代にかけて 全米各地で数百回開催(全盛期には年間150回開催 ヨーロッパやアジアにも進出する大規模事業へ)
ノーマン・グランツの特徴は 社会起業家 SDGsの走り?
✅ 社会的に寛容な精神を広め人種差別をなくすこと
✅ ビジネスを成功させること
✅ 素晴らしいジャズを社会に提供すること
全ての公演会場との契約内容は次の通り
✅ チケット販売・客席の割り当てに一切人種隔離を行わない
✅ 上記に違反があった場合にはコンサートをキャンセルする
✅ キャンセル料は 契約料の50%(つまり50%は返還しない)
※ 同じ原則を出演者が利用するホテルやレストランにも適用
他のイベント・プロモーターよりもジャズ・ミュージシャンには『高いギャラ』を払うことを誇りとしていました
「差別をしなければ経済的に得をし 差別をする者は損をするような状況」
を作り出そうとしたのがグランツの信条でした
経営者と消費者に少しの勇気があれば市場原理が次第に差別を解決する
JATPは何を生み出したのか?
<JATPがビジネスとして成功した要因>
✅ スウィング・ミュージック関連音楽産業は深刻な不況だった
(ビッグ・バンドは解散・再編を余儀なくされる状態)
✅ ジャム・セッションが前提コンサートなのでリハも不要で効率的
(有名ジャズ・ミュージシャンなので集客も簡単)
✅ このコンサートをレコード化して安定した収益が見込める
(ジャズ・ミュージシャンにとっては魅力的な職場)
グランツの活動は『公民権団体』『黒人系プレス』などから注目を浴びるようになり 社会運動家として評価されましたが
結果として 本筋の『人種差別』に関することよりも
世界随一のジャズ興行主(ジャズを売ることで誰よりも金を稼いだ人物)
人種間相互理解を促す『デモクラシー』を売って成功したジャズ百万長者
一人の起業家の成功物語にしかなりませんでした
グランツの動きは アイゼンハワー大統領の文化交流プログラム『ジャズ・アンバサダー』につながっていきます
『ジャズ・アンバサダー』
1956年からアメリカ国務省が後援し アメリカの価値を世界的に広めるために 黒人と白人ジャズ・ミュージシャンの混成バンドを 文化外交イニシアチブの一環として 東ヨーロッパ 中東 中央アジア 南アジア アフリカをツアーを行います
1955年のニューヨーク・タイムズには
アメリカに極秘音響兵器あり = ジャズ
という報道もあったそうです
アメリカ内の人種差別問題の好転を非白人諸国(アフリカ・中東)の印象付ける材料として『ジャズ』
アメリカ国内の『人種差別問題』に対する解決策に結び付かない
『アメリカ=人種差別国家』のプロパガンダ等式を否定すること
ジャズ・ミュージシャンが利用されただけでした
ダイバーシティーにおいて
『ジャズ』=『アメリカを代表する文化』?
潜在的な偏見への意識を高めることが問題解決に役立つか?
逆に人がより人種に敏感になってしまい問題を悪化させるのか?
研究や意見が分かれるところだと思います
『潜在的偏見』を抑制する動機は次の2つが考えられます
『内発的なもの(自分の信念)』『外発的なもの(他者からの視線)』
皮肉なことに
『外発的な抑制』が強まれば『潜在的偏見』は強まる傾向にあります
そして 人は自分で決めたことには直ぐに行動力に移せるのですが 他人から決められたことには反発したくなるもの分かります
今回の記事で取り上げた事例は 冷戦下のアメリカにおいて
✅ 『ジャズ』を使ったビジネスで成功した社会起業家
✅ プロパガンダとしての『ジャズ』の機能に期待する政治家や官僚
✅ 生き残りをかけた有名『ジャズ』ミュージシャン
といった存在がいることが浮き彫りになったのですが
その人々の動きは 大衆運動の基盤となる労働者階級とは疎遠になるだけで 人種隔離政策撤廃・公民権運動には結びついたとは言い難い結果だったと考えます
メアリー・L・ドゥジアック(アメリカの法理論家・公民権史家)曰く
冷戦は公民権改革を促したが 改革の視野を形式的平等と機会均等に限定し 階級に起因する不平等から人々の目をそらさせただけ
あくまでも個人的な見解ですが 日本型経営企業の『D&Iごっこ』『なんちゃってD&I』が同じ構造のような気がします
次回以降に続きます