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【真面目に】『ビ・バップ』の誕生は西洋音楽史上の大革命だった?(後編)

マイルス・デューイ・デイヴィス三世(Miles Dewey Davis III)


1926年5月26日 アメリカのイリノイ州オールトンに生まれ(その後すぐに東セントルイスに引っ越す)父親は歯科医 母親は音楽の先生で 2つの歯科病院を開業し農場を持つという非常に裕福な家庭で育つ
1944年9月:ニューヨークにやって来たマイルスは ジュリアード音楽院に通うも1945年に中退 その後チャーリー・パーカーとルームメイトとして1年間暮らしながら 当時最先端のビバップ・ムーブメントの中に身を置く


1948年末 マイルスはチャーリー・パーカー(以下「バード」と略す)のバンドから脱退


ギル・エバンス(ユダヤ系カナダ人ピアニスト・編曲家)との親交を深め 黒人コミュニティでは聴く機会がなかった様々な西洋音楽を学ぶ

「あの頃のオレは、ギル・エバンスのアパートにしょっちゅう行って、彼がする音楽の話を聞いていた。オレ達は、初めから気が合った。彼の音楽的アイデアは、すぐにピンときたし、彼にしてもそうだった。オレ達の間では、人種の違いは問題じゃなかった。いつも、音楽がすべてだった。」(引用:マイルス・デイビス自叙伝Ⅰ)


『クール誕生(Birth of Cool)』を制作(録音:1949~1950)


アドリブを重視しないアンサンブル重視の「クール」な楽曲

ノネット(9重奏団)を率いて 作り込まれた音楽を目指した作品(ホルンやチューバなどジャズでは珍しい楽器が入っている)

バードの『ビ・バップ』とは真逆のアプローチ



リー・コニッツやジェリー・マリガンといった白人ミュージシャンを起用

当時のマイルス・ファンのアフリカ系アメリカ人層からは批判された際

「いいプレイをする奴なら、肌の色が緑色でも雇う」

と発言したと伝えられています


当時『クール誕生』は商業的な成功や評価には結びつきませんでしたが 50年代の白人中心のウエストコースト・ジャズに多大影響を与えます



1949年5月パリで初の海外公演


パリでの国際ジャズ・フェスティバルに参加(マイルス初の海外公演)

『クールの誕生』制作と同時期ですが このライブでは『ビ・バップ』の演奏を繰り広げています(ラジオ番組の録音のため音質が良くない)​

パリでは 『ビ・バップ』の人気が高くジャズは文化として評価されており マイルスは大歓迎を受けスターとして扱われました

パリ滞在中にサルトルやピカソに会ったり 歌手のジュリエット・グレコと恋に落ちたりといった大きな経験をします

黒人が演奏する音楽を何の偏見もなく受け入れるオーディエンスの存在に初めて触れたマイルス

「オレにとっては初めての海外旅行で、物事の見方を完全に変えられてしまった。パリという街も、オレに対する待遇も気に入った。」(引用:マイルス・デイビス自叙伝Ⅰ)

しかし 帰国したアメリカは 依然として白人と黒人の間に厳然たる壁のある差別社会でパリとのギャップに心を痛め マイルスは ヘロイン中毒に陥っていきます


1950年9月にロサンゼルスでヘロインの不法所持で逮捕


「ヘロインを打つと、バードみたいにすごい演奏ができると信じていた連中もいたが、オレは、そんな盲信にとらわれたことはない。ヘロインにつかまったのは、アメリカに帰ってきて感じた失望と、ジュリエットへの熱い思いからだった」(引用:マイルス・デイビス自叙伝Ⅰ)

これ以降1954年に復活するまで マイルスは完全なジャンキーとしての暗黒時代に突入していきます

「そのうち、クスリをやり続けるために、売春婦から金を受け取るようになった。自分がしていることがそれだと気づく前に、オレはヒモになりはじめていた。オレは、プロフェッショナル・ジャンキーだった。クスリが生きる目的の全てになって、仕事でさえも、クスリが手に入れやすいかどうかで決めていた。」(引用:マイルス・デイビス自叙伝)


ビ・バップの悪名高きフィクサー


1949年元旦 NYのジャズ・クラブ『ロイヤル・ルースト(Royal Roost)』からのバードが出演したラジオ生放送がありました


このジャズ・クラブのオーナー兼仕掛人が モーリス・レヴィ―

バードやデクスター・ゴードンといったスターをブッキングして ラジオとの相乗効果でビバップ・ブームを盛り上げていきます


1949年12月15日 ブロードウェイ52ndストリートにジャズ・クラブ『バードランド(Birdland)』をオープン

司会者:ピー・ウィー・マーケット

毎夜店内から生中継ラジオのDJ:シンフォニー・シド

エヴァ・ガードナー ゲイリー・クーパー マリリン・モンロー マレーネ・ディートリヒなどの著名人が集う世界一のジャズ・クラブになっていきました


モーリス・レヴィ―は イタリア系犯罪組織マフィア「コーサ・ノストラ」(ルチアーノ家)管下の(ヴィト・ジェノヴェーゼ)の部下で 音楽エンタメ部門を仕切った幹部

「アーティストからロイヤルティをだまし取った悪名高い詐欺師」

著作権法を逆手に取って「パトリシア・ミュージック」という音楽出版社を設立(バードランドで初演される楽曲の著作権を全て取得) 


ビ・バップを演奏のジャズ・クラブの経営母体が『ヘロイン』売買産業なのですから 若きジャズ・ミュージシャン達が『ドラッグ浸り』になったって何も不思議ではないです


ジャンキーだったマイルスは 多くのクラブでブラックリストに載っているので 出演できるジャズ・クラブは『バードランド』だけでした


『バードランド』から発信されるラジオ番組のテーマソング(1952年以降)

♬Lullaby Of Birdland♬(作曲は盲目ピアニスト:ジョージ・シアリング)


『ビ・バップ』革命とは何だったのか? 


『ビ・バップ』革命は 

既存の古い音楽様式によって刷り込まれた制限からの逸脱した「表現の自由」を表した大革命


『ビ・バップ』は「スウィング・ミュージック」へのアンチテーゼ


マイルスの『Birth of the Cool』が『クール・ジャズ』の起源とされていて

『クール・ジャズ』は『ビ・バップ』へのアンチテーゼ

「『クールの誕生』はオレが思うに、バードとディズの音楽に対する反動として支持され コレクターズ・アイテムになったみたいだ。」(引用: マイルス・デイビス自叙伝)


『クール・ジャズ』は 1950年代前半から西海岸で白人を中心に演奏された「明るく健康的なアレンジを多用するジャズ」=『ウエストコースト・ジャズ』としてムーブメントを起します


一方イーストコーストでは フォーマットがLPになり長時間の録音が可能になったこともあり ニューヨークのジャズ・ミュージシャンを中心に『ハード・バップ』が創造されます


『ハード・バップ』は『ウエストコースト・ジャズ』へのアンチテーゼ


白人主導の表社会・裏社会 そして人種差別の厳しい現実の闇社会を明らかにしていった『ビ・バップ』革命は 

ジャズという狭い範疇だけではなく

『ビ・バップ』は 黒人意識向上・公民権運動への影響を与えた大革命

と考えていいでしょう


1950年代中盤以降 時代は変わっていきます!




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