【真面目に】『ビ・バップ』の誕生は西洋音楽史上の大革命だった?(後編)
マイルス・デューイ・デイヴィス三世(Miles Dewey Davis III)
1948年末 マイルスはチャーリー・パーカー(以下「バード」と略す)のバンドから脱退
ギル・エバンス(ユダヤ系カナダ人ピアニスト・編曲家)との親交を深め 黒人コミュニティでは聴く機会がなかった様々な西洋音楽を学ぶ
『クール誕生(Birth of Cool)』を制作(録音:1949~1950)
アドリブを重視しないアンサンブル重視の「クール」な楽曲
ノネット(9重奏団)を率いて 作り込まれた音楽を目指した作品(ホルンやチューバなどジャズでは珍しい楽器が入っている)
バードの『ビ・バップ』とは真逆のアプローチ
リー・コニッツやジェリー・マリガンといった白人ミュージシャンを起用
当時のマイルス・ファンのアフリカ系アメリカ人層からは批判された際
と発言したと伝えられています
当時『クール誕生』は商業的な成功や評価には結びつきませんでしたが 50年代の白人中心のウエストコースト・ジャズに多大影響を与えます
1949年5月パリで初の海外公演
パリでの国際ジャズ・フェスティバルに参加(マイルス初の海外公演)
『クールの誕生』制作と同時期ですが このライブでは『ビ・バップ』の演奏を繰り広げています(ラジオ番組の録音のため音質が良くない)
パリでは 『ビ・バップ』の人気が高くジャズは文化として評価されており マイルスは大歓迎を受けスターとして扱われました
パリ滞在中にサルトルやピカソに会ったり 歌手のジュリエット・グレコと恋に落ちたりといった大きな経験をします
黒人が演奏する音楽を何の偏見もなく受け入れるオーディエンスの存在に初めて触れたマイルス
しかし 帰国したアメリカは 依然として白人と黒人の間に厳然たる壁のある差別社会でパリとのギャップに心を痛め マイルスは ヘロイン中毒に陥っていきます
1950年9月にロサンゼルスでヘロインの不法所持で逮捕
これ以降1954年に復活するまで マイルスは完全なジャンキーとしての暗黒時代に突入していきます
ビ・バップの悪名高きフィクサー
1949年元旦 NYのジャズ・クラブ『ロイヤル・ルースト(Royal Roost)』からのバードが出演したラジオ生放送がありました
このジャズ・クラブのオーナー兼仕掛人が モーリス・レヴィ―
バードやデクスター・ゴードンといったスターをブッキングして ラジオとの相乗効果でビバップ・ブームを盛り上げていきます
1949年12月15日 ブロードウェイ52ndストリートにジャズ・クラブ『バードランド(Birdland)』をオープン
司会者:ピー・ウィー・マーケット
毎夜店内から生中継ラジオのDJ:シンフォニー・シド
エヴァ・ガードナー ゲイリー・クーパー マリリン・モンロー マレーネ・ディートリヒなどの著名人が集う世界一のジャズ・クラブになっていきました
モーリス・レヴィ―は イタリア系犯罪組織マフィア「コーサ・ノストラ」(ルチアーノ家)管下の(ヴィト・ジェノヴェーゼ)の部下で 音楽エンタメ部門を仕切った幹部
著作権法を逆手に取って「パトリシア・ミュージック」という音楽出版社を設立(バードランドで初演される楽曲の著作権を全て取得)
ジャンキーだったマイルスは 多くのクラブでブラックリストに載っているので 出演できるジャズ・クラブは『バードランド』だけでした
『バードランド』から発信されるラジオ番組のテーマソング(1952年以降)
♬Lullaby Of Birdland♬(作曲は盲目ピアニスト:ジョージ・シアリング)
『ビ・バップ』革命とは何だったのか?
『ビ・バップ』革命は
『ビ・バップ』は「スウィング・ミュージック」へのアンチテーゼ
マイルスの『Birth of the Cool』が『クール・ジャズ』の起源とされていて
『クール・ジャズ』は『ビ・バップ』へのアンチテーゼ
『クール・ジャズ』は 1950年代前半から西海岸で白人を中心に演奏された「明るく健康的なアレンジを多用するジャズ」=『ウエストコースト・ジャズ』としてムーブメントを起します
一方イーストコーストでは フォーマットがLPになり長時間の録音が可能になったこともあり ニューヨークのジャズ・ミュージシャンを中心に『ハード・バップ』が創造されます
『ハード・バップ』は『ウエストコースト・ジャズ』へのアンチテーゼ
白人主導の表社会・裏社会 そして人種差別の厳しい現実の闇社会を明らかにしていった『ビ・バップ』革命は
ジャズという狭い範疇だけではなく
と考えていいでしょう