R&Bとソウル・ミュージック⑨映像が大衆に「夢」も「不都合な真実」も見せつける時代へ
1960年代は「テレビ時代の幕開け」として語られている民主党の若きジョン・F・ケネディが共和党のリチャード・ニクソンを僅差で破った大統領選挙での幕開けでした。
映像が大衆に「”夢”を見せる時代」の始まりだったのですが、、
「理想」が「分断」へ
JFKが提唱した「ニューフロンティア」は、新しい世界を切り開く、新しいことを始めるという事を示唆していて、公民権や社会的・民主的な改革が含まれていました。
人種隔離賛成派の暴力を受けながらも、不当な差別に抗議する黒人たちは闘い続けます。
1960年2月:ノースカロライナ州グリーンズボロでは、4名の黒人大学生により『シット・イン』と称される新たな直接行動が始まりました。
人種差別撤廃に向けて闘うムーブメントは徐々に広がっていきましたが、黙っていなかったのは南部を中心とした『保守層』です。
彼らの主張は「古き良きアメリカ」を守り抜くこと
KKK(クー・クラックス・クラン)は、60年代に南部で復活して、公民権運動に対しても銃撃・爆破事件を繰り返すようになっていました。
フリーダム・ライドのバスの炎上写真などは海外のマスコミでも大きく取り上げられ
をさらす国際的な話題に膨らんでいきました。
映像が大衆に「”不都合な真実”を見せつける時代」の始まりでもあったのです
Chain Gang
60年1月
サム・クックはRCA レコードと契約して最初のシングルをリリース
一聴して曲調が非常に明るく楽し気でダンスをしたくなるポップスなのですが、歌詞はブルースマンの叫びのような奴隷労働の描写なのです。
RCAはR&Bに関して特に実績があったレーベルではありません。
サム・クックは、当時の黒人の置かれた状況を”歌”によって伝えたかったので、あえて白人社会の流儀に従い、白人社会の中へ踏み込んでいき、自らの歌を数多くの人に聴かせる方法を選んだと私は考えています。
「Teenage Sonata」は、サム・クックの良さが少しは出ていましたが、
RCAが用意したヒューゴ・ペレッティとルイジ・クリアトーレという白人プロデューサー・チームは、サム・クックの良さを引き出すことは出来ませんでした。スタンダード・ナンバーの焼き直した2枚の企画アルバムは、白人の大人層を狙った愚作です。(あくまでも私の個人的感想です)
これ以降、サム・クックとJ.W.アレクサンダーの意見が取り入れられるようになっていったのです。
サム・クックが「やりたいこと」の多くがメジャー・レーベルRCAでは実現できないことも分かっていて、資財を投じて自身の「サー・レーベル」を設立しました。そして、同時に若い黒人シンガーへのチャンスを与えようとしました。
サム・クックの知名度・人気は”うなぎ登り”で高まっていきました。
マルコムXやモハメド・アリとも親交を深めていて、公民権運動にも積極的な関わりも世間に知れ渡っていきます。
サム・クックは白人社会にとっては『悪いクロン坊』の代表格となっていったのです。
Georgia on My Mind
1960年9月 レイ・チャールズは、ABC-Paramount Recordsから「Georgia on My Mind」をリリースして、ビルボードHot100第1位のミリオンセラー
1962年4月リリースのアルバム『Modern Sounds in Country and Western Music』が、ビルボード・アルバムチャートで第1位を獲得
1962年10月には『Modern Sounds in Country and Western Music Volume Two』をリリース
この2枚のアルバム成功によって、レイ・チャールズは、カントリー・ミュージック、リズム・アンド・ブルース、ポップ・ミュージックの融合にも貢献した「"The Genius"」「"Brother Ray"」として、メジャー・レコード会社で芸術的決定権が与えられた最初の黒人音楽家の1人となったのです。
These Arms of Mine
1962年
アトランティック・レコードのジョー・ガルキンが、ギタリストのジョニー・ジェンキンスに興味を持ち、ライブに向かう途中にスタックス・スタジオに立ち寄り、ブッカー・T&ザ・MGズとのセッションを提案した。
セッションは予定よりも早く終わったために、ジョニーのバンドのボーカリスト兼ソングライター(兼運転手)であったオーティス・レディングにも2曲を歌う機会が与えられた。
この時の録音が、1962年10月「These Arms of Mine」はVoltからリリースされて、『オーティス伝説』そして『メンフィス・ソウル』の始まりです。
人種差別が色濃く残っているメンフィスにおいて、スタックスは完全に別世界の切り離された存在の会社だったのです。
奇妙な果実(Strange Fruit)
ユダヤ系アメリカ人の作家アベル・ミーロポールが1937年に書いた詩に音楽をつけた「奇妙な果実(Strange Fruit)」は、1939年にビリー・ホリディによって紹介されました。
告発的な内容ですが、南部を中心とした黒人へのリンチ・暴行はアメリカ人にとってはほとんど常識とも言えるものでした。
1965年 ニーナ・シモンが「奇妙な果実(Strange Fruit)」カヴァーをリリースします。
この歌は、人種差別の蛮行を直接的に告発している以上に、多くのアメリカ人の”不都合な真実”を突きつけることで、人種差別を容認している無言の人々への問いかけだったのです。
公民権運動によって法整備が行われていった1960年代でも、人種差別の実態は然程変わっていなかったのです。
People Get Ready
1965年「People Get Ready」リリース後、シカゴの多くの教会では、歌集に加えられました。
1962年8月4日
マリリン・モンローが、ロサンゼルスの自宅でバルビタールの過剰服用により36歳で死去
1963年6月12日
ケネディ大統領はTV放送で今までになく強烈に公民権運動を推進する決意を表明しました。その夜、車で帰宅したNAACP(全国黒人地位向上協会)ミシシッピ州支部ディレクターのMedgar Evers(メドガー・エヴァーズ)は、何者かの銃弾を背中に受けて倒れ、家族に近い勝手口へと這いよりながら気絶して、救急病院へ運ばれたものの、出血多量で死亡。
1963年8月28日
ワシントン大行進は、事前に周到に準備され、組織的に行われました。
キング牧師とA.フィリップ・ランドルフなど黒人代表の目的は、ケネディ大統領が公民権法案を骨抜きにせず、確実に成立させるように圧力をかけることでした。
6月22日に黒人代表は、ケネディ大統領とホワイトハウスで会談して「ワシントン行進」の構想を説明し、公民権法を成立させる必要を訴えました。
ケネディ大統領は、集会が秩序だって行われるなら、政府はこれを支持すると約束していたのです。
1963年9月15日
アラバマ州バーミンガムの16番街バプテスト教会で爆弾が爆発し、11歳から14歳の黒人少女4人が死亡。
1963年11月22日
ジョン・F・ケネディ大統領が、テキサス州ダラスで遊説のため市内をパレード中に暗殺されました。