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⑯『ジョジョの奇妙な冒険』feat.Bad Company

虹村 形兆

杜王町に住む高校生でありながら、自らの目的のために冷酷な手段を用いて弟の虹村億泰とともに杜王町のスタンド使いの増加に大きく関与した人物

スタンドは「バッド・カンパニー」

ミニチュアサイズの軍隊を具現化した群体型スタンド。
歩兵、戦車、ヘリコプターなどを含む小型の軍隊が統率された行動をとり、相手に大規模なダメージを与えることが可能。


スタンド名の元ネタは、イングランド出身のスーパー・バンド

Bad Company(バッド・カンパニー)


まずは、Bad Companyが結成されるにあたり、その原点とも言えるバンド「Free」について

Free(フリー)

1968年にイギリスで結成されたブルースロックとハードロックを融合させたスタイルで、4月19日に最初のライブを行った時には、メンバーは全員ティーンエイジャーでした。

Free

15歳:アンディ・フレイザー(b)(Andrew Fraser) (1952/7/3~2015/3/16)
17歳:ポール・コゾフ(g)(Paul Kossoff) (1950/9/14~1976/3/19)
18歳:サイモン・カーク(ds)(Simon Kirke) (1949/7/28~ )
18歳:ポール・ロジャース(vo,g)(Paul Rodgers) (1949/12/17~ )

1969年3月14日ファースト・アルバム「Tons of Sobs」リリース
1969年10月セカンド・アルバム「Free」リリース
この2作は高い評価を受けたものの、セールス的には決して成功したとはいえませんでした。

1970年6月26日:3rdアルバム「Fire and Water」リリース

Fire and Water

このアルバムからのシングル・カット『All Right Now』がヒット
(UKチャート=2位・ビルボートHot100=4位)


1971年に入るとFreeは全米ツアーを行い大成功して、その勢いで4月来日公演を行いました。当時の日本のライブ会場は、欧米に比べると規模は小さかったものの、曲間の観客とのやり取りや、感情的なパフォーマンスが印象に残るものだったと言われています。


しかし、ポール・コゾフの薬物問題や、メンバー間の音楽的な方向性の違いによってメンバー間の亀裂が表面化していた時期でした。


1972年に好調な活動のさなかFreeは、あっけなく解散。

解散で急遽ライブ・アルバム「Free Live!」がリリースされました。

Free Live!

バンド解散後、メンバーはそれぞれユニットを汲みましたが、どれも長続きはせずに成功しませんでした。


1972年:オリジナル・メンバーで再結成

意図は、重度のドラッグ摂取癖に陥ったポール・コゾフを救おうというもの
1972年5月スタジオ・アルバム『Free at Last』をリリース

Free at Last

ツアーも再開しましたが、ポール・コゾフは病気が悪化してリタイア

これを機に、ポールと意見が合わなかったアンディ・フレイザーは脱退

海外ツアーも決まっていたこともあり、新しいメンバーとして
山内テツ(b)
ラビット(John Bundrick)(key)
を迎えいれて、ポール・ロジャースがギターも兼務する体制になりました。


1972年再来日公演は、7月22日後楽園球場、24日甲子園球場で、EL&P(Emaerson,Lake & Palmer)の前座と言う形で開催されました。

1973年1月スタジオ・アルバム「Heartbreaker」リリースして、アルバムは高い評価を得ましたが、解散することになりました。


荒木先生が描いたキャラクターやスタンド名には、音楽やアーティストの持つ物語が巧みに織り込まれており、読者にその深い背景を感じさせる工夫が随所に見られます。

また、壊れてしまったものや人に対する敬意や惜別を作品に込める傾向があると感じています。

Freeのポール・コゾフは、Pink Floydのシド・バレットと同様に、天才的な才能を持ちながら、薬物依存や精神的な問題によりキャリアが短命に終わったミュージシャンです。

虹村形兆と東方仗助の関係性は、一見対立しているように見えますが、深く掘り下げると共通する要素やテーマが浮かび上がります。



Bad Company結成


1973年にポール・ロジャースとサイモン・カーク
ミック・ラルフス(Mick Ralphs) - ギター(元モット・ザ・フープル)
ボズ・バレル(Boz Burrell) - ベース(元キング・クリムゾン)
というメンバー構成でBad Company が結成されました。

バンド名「Bad Company」は、「アウトロー」や「悪い仲間」という意味を持ち、社会や権威への反抗的な態度を象徴してます。

1974年5月24日:レッド・ツェッペリンが設立したスワンソング・レコード(Swan Song Records)からファースト・アルバム「Bad Company 」リリース
(UKではアイランド・レコードからリリース)


シングル「Can't Get Enough」は全米5位、全英15位のヒット
アルバムは、アメリカだけで500万枚、全世界で1200万枚を超える大ヒット

Can't Get Enough


1975年3月28日セカンド・アルバム「Straight Shooter」リリース
UK: Gold、US: 3× Platinum)


1976年1月30日3rdアルバム「Run with the Pack」リリース
(UK: Gold、US: Platinum)


1977年3月4日4thアルバム「Burnin' Sky」をリリース
(US: Gold、USでは50万枚にとどまった)


1979年3月7日5thアルバム「Desolation Angels」リリース
(US: 2× Platinum)


前作から3年ぶりの1982年に6thアルバム「Rough Diamonds」をリリース

Rough Diamonds


この時期には、メンバー間の人間関係は非常に悪化しており、ポール・ロジャースが「家族と過ごしたい」という理由でバンドを脱退します。


荒木先生が見出した可能性のある共通点


虹村 形兆とポール・ロジャースには、家族を巡る「犠牲と選択」というテーマが共通しています。


形兆は、不死身の怪物と化した父親を「殺して楽にする」という苦渋の決断をしました。
そのために、自ら「弓と矢」を使って杜王町の住人に犠牲を強い、多くのスタンド使いを生み出します。

弟・億泰には厳しく接する一方で、実際には彼を大切に思っています。
しかし、形兆の過激な手段を億泰は理解できず、兄弟の間には深い溝が生まれています。

彼の行動は愛情の表現であり、家族を思うがゆえに彼自身を犠牲にしたものと言えます。


Paul Rodgers


ポール・ロジャースは、バンドの成功を維持することと家族との時間を両立させるのは難しく、彼はキャリアの頂点にありながらも、音楽活動を一時中断し、家族を優先しました。


当時のポールの奥様は、日本人の清水 眞智さんです。
彼女は、女優の野添ひとみ(旦那は”探検隊長”として有名な:川口浩)の姪です。

叔母がTV「夜明けの刑事」のプロデューサーであったこともあって、ポールは劇中歌「Yoake no Keiji」を無償で(一部日本語)で歌いました。

番組内での使用のみを条件に書き上げた楽曲で正式盤は存在していません。

Yoake no Keiji


形兆の行動は「正義」ではありませんが、彼の動機は純粋であり、善悪の境界線が曖昧であることを示唆しています。

形兆の行動は破壊的ですが、その根底には「父親を救うためならどんな手段も選ばない」という覚悟と家族への愛情が隠されています。


続く、、、




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