私に影響を与えたアーティストVol.1(デビッド・ボウイ)
九州の田舎で生まれ育った私が、親の転勤の関係で小学5年生だった1972年9月から東京に住むことになった。
“東京人には舐められてたまるか!”という田舎者の特性から(?)小学校では強がって悪ぶっていた。
(九州弁バリバリで、“標準語喋れない”というコンプレックスから自分からあまり喋らなかったというのが理由だが、、)
東京生活にも慣れてきた頃、何気なく観ていたTVから、男性が濃いメイクを施し、煌びやかで派手なスタイルでノリの良いビートを演奏するミュージシャンの姿に身体が固まった。
グラムロック(Glam Rock)の象徴的な存在である
“デビッド・ボウイ”(David Bowie)
が、私を “ロック大好き” “ファッション大好き” “アート大好き” の世界に導いてくれたと言って過言でない。
とにかく“デビッド・ボウイ”全てが
「カッケー!」
の一言だ。
うろ覚えでしかないが、雑誌「ミュージックライフ」だっただろうか?中学校時代は自分の部屋に“デビッド・ボウイ”の記事を切り抜いて貼っていた。
そして、レコードジャケットを壁に飾るインテリアとしても最高にカッコよかった。
ミュージシャンとしての“デビッド・ボウイ”
アルバム毎にスタイルを変化させていった“ロックレジェンド”だ。
好きなアルバムを上げたら悩み続けて眠れなくなるが、
あえてベスト5をあげると?
< The Rise and Fall of Ziggy Stardust and the Spiders from Mars >
グラムロック時代の象徴的アルバム
<Station to Station>
ソウルミュージックに拘ったアルバム
<Let’s Dance>
最大のヒット・アルバム
<The Next Day>
iTunesチャート1位になった“Where Are We Now?”を含む
<Black Star★>
遺作であり、グラミー賞で最多の5部門を獲得
とは言え ベルリン三部作 『ロウ(Low)』 『英雄夢語り (Heroes)』 『ロジャー (Lodger)』も外せない
俳優としての“デビッド・ボウイ”
日本では、『戦場のメリークリスマス』での英軍将校役が有名ではあるが、
私は、
『ハンガー』(カトリーヌ・ドヌーヴと共演)
『ツイン・ピークス-ローラ・パーマー最期の7日間』
での“デビッド・ボウイ”が好きだ。
ファッション・アーティストとしての“デビッド・ボウイ”
先日亡くなられた山本寛斎氏が、ジギー・スターダストやアラジン・セインのステージ衣装を手掛けていたが、ジャン=ポール・ゴルチエ、ポール・スミスにも影響を与えたと言われているほどの“ファッション・モンスター”だ。
ここは、Rolling Stones誌の記事をご参照頂きたい。
起業家としての“デビッド・ボウイ”
1997年当時、9億1,700万ドルもの推定資産を持ち「世界で最も価値のあるミュージシャン」だった“デビッド・ボウイ”は、楽曲のロイヤルティを証券化した『ボウイ債』(正確には資産担保証券(ABS))を発行した。
1990年以前に録音された自らの楽曲(278曲、アルバム25枚)の著作権が生み出す利益と、将来ライブで稼ぐ金を担保にして発行した。
ムーディーズからA3の長期信用格付けを受け、アメリカの保険会社プルデンシャル・ファイナンシャルが一括して全ての債券(総額5,500万USドル)を買い取った。
知的財産権の証券化や、ポップミュージックや映画などのアート&エンターテインメント産業の新たな資金調達方法の“先駆け”でもあった。
親日家としての“デビッド・ボウイ”
日本の芸術や美意識に深い敬意を持ち、歌舞伎の変身ワザ?の「早変わり」やメイクを歌舞伎役者の坂東玉三郎(五代目)に直接学んだそうだ。
2016年1月10日にボウイの訃報に際し、阪急電鉄は公式ツィッターで、6300系電車をバックに撮られたボウイの写真と共に、追悼メッセージを送った。
(写真家:鋤田正義氏の撮影)
“デヴッド・ボウイ”が涙した京都の庭園(正伝寺の山水庭園)
私も昨年、この庭を訪ねた。
シーズンオフでもあったので、貸切状態で、ゆっくりと静かに庭園を眺めることができた。
しばらく静観していると、心が洗われたような気持ちになり、自然に涙が流れていた。
音楽・ファッション・アートそして
「何事においても安住してはいけない。常に“変化”し続けなければならない。」
という人生観も
私に教えてくれたのが、