インディペンデント・レーベルのオーナーたちは、音楽に対する熱狂的とも言える情熱から派生していきます。
アトランティック・レコード
1947 年10 月法人化
社長:ハーブ・アブラムソン(Herb Abramson)
副社長:アーメット・アーティガン(Ahmet Ertegun) (A&R・宣伝担当)
ビルボード誌は「Atlantic's 'Money Man' Is a Woman」という見出しで絶賛
アトランティック社は深刻な課題に直面
1947年後半、アメリカ音楽家連盟(AFofM)の会長ジェイムズ・ペトリロは
を発表しました。この禁止措置は、1948年1月1日に発効され「ペトリロ禁止令」として知られており、音楽産業に大きな影響を与えました。
<ストライキの背景>
第二次世界大戦後、レコード業界は急速に成長しました。
ペトリロとAFofMは、ラジオ放送やジュークボックスでの録音音楽の使用が増えることで、生の演奏の需要が減少して、ミュージシャンの仕事の機会を減少させると考えていました。そして、テレビの普及によって、番組で使用される音楽の権利も重要な課題でした。
AFofMは、レコード会社がレコード売上から得られるロイヤリティをミュージシャンに十分に支払われていないと主張したのです。
AFofMは組合員に対してすべての録音活動を停止するよう命じ、新しい音楽の録音が停止されました。
そもそも「ペトリロ禁止令」とは
技術革新
この技術革新は、アーティストにとってもレコード・レーベルにとっても大変革となりました。
インディペンデント・レーベルの隆盛
「ぺトリロ禁令」の時期は、ビ・バップ形成期と被り、チャーリー・パーカーとディジー・ガレスピーなどの音楽作品の失われた機会を生み出した一方で、インディペンデント・レーベルの活動促進という副次的な効果ももたらしました。
<ジャズ系レーベル>
<ブルース系レーベル>
この期間中にインディペンデント・レーベルが行った録音は、ビ・バップなどのジャズに留まらず、後にリズム&ブルースやロックンロールの発展にも貢献する要素を含んでいました。
インディペンデント・レーベルは、主流から離れた音楽を録音し、それを聴衆に届けるための重要なチャネルとなりました。
AFofMとの間で独自の合意を結び、録音活動を続けたところもありました。
ジョン・リー・フッカーのデビューシングルであり、ブルース音楽における重要な楽曲(1948年リリース)
John Lee Hooker - Boogie Chillen
1950年初めにリリースされた[Chess 1426]
ウォーターズがチェスから初めて出したシングルで、古いデルタ・ブルースのスタンダード・ナンバー「Catfish Blues」を土台にした曲
Muddy Waters - Rollin' Stone
アトランティックの躍進開始
アーティガンとエイブラムソンは、新しいアーティストを求めてナイトクラブを探し回りました。
1949年2月にリリース
Stick McGhee - Drinkin’ Wine, Spo-Dee-O-Dee
この曲はアトランティック初のヒットとなり、40万枚を売り上げ、ビルボードR&Bチャートで最高2位。約半年間チャート・インします。
1949年にアトランティックは 187 曲を録音 (過去2 年間の生産量の 3 倍以上)
コロムビアからの製造販売契約の申し入れ
コロムビア・レコードは、アトランティック社に 1 曲につき 3% の印税を支払うという製造販売契約の申し入れます。
コロムビアは、楽曲を白人アーティストのカバーしてリリースすることを目論んでいたのでしょう。
これで契約は白紙となりました。
「ペトリロ禁止令」は、当時の音楽家やレーベルにとっては大きな挑戦であったものの、結果的には音楽史における重要な転換点となりました。
音楽の歴史を振り返る際、このような挑戦的な時期が新しい創造と変化の源泉であったことを忘れてはなりません。
「ルースが建てた家」
アーティガンとエイブラムソンはワシントンのクリスタル・キャバーンズ・クラブにルース・ブラウン(Ruth Brown)に会いに行きます。
彼女は、交通事故で重傷を負ったが、アトランティック社は9か月間彼女をサポートし、その後契約を結びました。
1949年5月25日に最初のシングルをリリース
彼女は、アトランティックで80曲以上をレコーディングし、当時最も売れたアトランティックのアーティストでした。
アトランティック社の運命にとって彼女の成功は非常に重要で、レーベルは「ルースが建てた家」として知られるようになったのです。