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R&Bとソウル・ミュージック②アトランティック・レコードの躍進開始

インディペンデント・レーベルのオーナーたちは、音楽に対する熱狂的とも言える情熱から派生していきます。

アトランティック・レコード

1947 年10 月法人化
 社長:ハーブ・アブラムソン(Herb Abramson)
 副社長:アーメット・アーティガン
(Ahmet Ertegun) (A&R・宣伝担当)

Atlantic Records

アーメット・アーティガン(Ahmet Ertegun)
1944年、初代駐米トルコ大使だった父の死後、母と妹がトルコに帰国したとき、兄ネスヒとともに米国に留まります。
兄弟はジャズとリズム&ブルース音楽の熱烈なファンで、15,000 枚以上の レコードを集めていました。

左がアーメット、右がネスヒ

ハーブ・アブラムソン(Herb Abramson)
アルバート・グリーン(Albert Green)が設立した『ナショナル・レコード(National Records)』でパートタイムA&Rマネージャー兼プロデューサーとして働き、ビッグ・ジョー・ターナーやビリー・エクスタインと契約。
1946年にジェリー・ブレイン(Jerry Blaine)と『ジュベリー・レコード(Jubilee Records)』を設立。その後、ジュベリー社の株をジェリーに売却して、その資金をアトランティックに投資。

アブラムソン夫妻

ミリアム・ビーンストック(Miriam Bienstock)
設立当初は、アブラムソンの妻だったミリアムが財務を担当。
1950年代半ばにアブラムソンと離婚。1957年に音楽出版社のフレディ・ビーンストックと結婚。1958 年、出版担当副社長に任命されました。

ビルボード誌は「Atlantic's 'Money Man' Is a Woman」という見出しで絶賛

 "one of the few women executives in the record industry, a business heretofore noted for its lack of fem talent.”
「これまで女性の才能が不足していることで知られていたレコード業界における数少ない女性経営者の一人」

Miriam Bienstock

トム・ダウド(Tom Dowd)
多重録音やステレオ録音の分野で多くのアルバムの制作に関わり、アトランティックを国内有数のレーベルに押し上げた人物。

Tom Dowd


アトランティック社は深刻な課題に直面


1947年後半、アメリカ音楽家連盟(AFofM)の会長ジェイムズ・ペトリロ

組合所属のミュージシャンによるすべての録音活動を無期限に禁止すること

を発表しました。この禁止措置は、1948年1月1日に発効され「ペトリロ禁止令」として知られており、音楽産業に大きな影響を与えました。

James Petrillo

<ストライキの背景>

第二次世界大戦後、レコード業界は急速に成長しました。
ペトリロとAFofMは、ラジオ放送やジュークボックスでの録音音楽の使用が増えることで、生の演奏の需要が減少して、ミュージシャンの仕事の機会を減少させると考えていました。そして、テレビの普及によって、番組で使用される音楽の権利も重要な課題でした。

AFofMは、レコード会社がレコード売上から得られるロイヤリティをミュージシャンに十分に支払われていないと主張したのです。

AFofMは組合員に対してすべての録音活動を停止するよう命じ、新しい音楽の録音が停止されました。


そもそも「ペトリロ禁止令」とは

1942年と1948年の二度にわたって行われたアメリカ音楽家連盟(AFofM)によるレコーディング禁止の措置です。
【1942年の禁止令】開始: 1942年8月1日 解除: 1944年11月11日
レコード会社がミュージシャンに支払うロイヤリティの問題をめぐって発動されました。この禁止令は、組合とレコード会社間の交渉により、特にビクター(後のRCAビクター)とコロムビアの2大レーベルがミュージシャンにトラスト基金への支払いに同意したことで解除されました。
【1948年の禁止令】開始: 1948年1月1日 解除: 1950年12月14日
この時期には、テレビ放送への音楽使用に関する権利も交渉のテーマとなっていました。大手レーベルが組合に対して訴訟を起こしたこと、およびレコード会社と組合間の交渉が進んだことにより、1950年に解除されました。


技術革新

1948年6月:コロムビアから直径12インチ (30cm) 『33回転』収録時間20分~30分の長時間録音が可能とした【LP (long play) 】盤を発売。
1949年:米RCAビクターが7インチ『45回転 』収録時間5~8分の【EP(extended play)】(ドーナツ盤とも呼ばれています)を発売。

この技術革新は、アーティストにとってもレコード・レーベルにとっても大変革となりました。



インディペンデント・レーベルの隆盛


「ぺトリロ禁令」の時期は、ビ・バップ形成期と被り、チャーリー・パーカーとディジー・ガレスピーなどの音楽作品の失われた機会を生み出した一方で、インディペンデント・レーベルの活動促進という副次的な効果ももたらしました。

<ジャズ系レーベル>

【ブルーノート・レコード (Blue Note Records)】
設立: 1939年 創立者: アルフレッド・ライオン
ブルーノートは、ハード・バップの録音で知られるようになりました。アート・ブレイキー、ソニー・ロリンズ、ホレス・シルバーなど、多くのジャズの偉大なアーティストたちと仕事をしました。

【サヴォイ・レコード (Savoy Records)】
設立: 1942年 創立者: ハーマン・ルビンスキー、フレッド・メンドールソン
ビ・バップの発展に重要な役割を果たしました。チャーリー・パーカー、デクスター・ゴードン、ジジ・グライスなどのアーティストがこのレーベルで活躍しました。

【プレスティッジ・レコード (Prestige Records)】
設立: 1949年 創立者: ボブ・ワインスタイン
マイルス・デイヴィス、ジョン・コルトレーン、ソニー・スティットなど、ジャズ界の多くの著名アーティストによる録音をリリースしました。


<ブルース系レーベル>

この期間中にインディペンデント・レーベルが行った録音は、ビ・バップなどのジャズに留まらず、後にリズム&ブルースやロックンロールの発展にも貢献する要素を含んでいました。

インディペンデント・レーベルは、主流から離れた音楽を録音し、それを聴衆に届けるための重要なチャネルとなりました。
AFofMとの間で独自の合意を結び、録音活動を続けたところもありました。

Modern Records

【モダン・レコード(Modern Records)】
設立:1949年 創立者:ビハリ兄弟
ロサンゼルスでR&B レーベルとしてスタート。ジョン・リー・フッカー、B.B.キング、エルモア・ジェームス、アイク・ターナー、エタ・ジェームスなど、数多くの伝説的なアーティストの初期キャリアを支援しました。

ジョン・リー・フッカーのデビューシングルであり、ブルース音楽における重要な楽曲(1948年リリース)

John Lee Hooker - Boogie Chillen


Chess Records

【チェス・レコード(Chess Records)】
設立: 1949年 創立者: チェス兄弟(レナードとフィル)
1947年にシカゴに設立されたアリストクラット・レコード・レーベルの共同所有者となり、マディ・ウォータースを発掘。
1949年に全株式を買収して、1950年社名をチェスに。

1950年初めにリリースされた[Chess 1426]
ウォーターズがチェスから初めて出したシングルで、古いデルタ・ブルースのスタンダード・ナンバー「Catfish Blues」を土台にした曲

Muddy Waters - Rollin' Stone


アトランティックの躍進開始


アーティガンとエイブラムソンは、新しいアーティストを求めてナイトクラブを探し回りました。

1949年2月にリリース
Stick McGhee - Drinkin’ Wine, Spo-Dee-O-Dee
この曲はアトランティック初のヒットとなり、40万枚を売り上げ、ビルボードR&Bチャートで最高2位。約半年間チャート・インします。


1949年にアトランティックは 187 曲を録音 (過去2 年間の生産量の 3 倍以上)

コロムビアからの製造販売契約の申し入れ

コロムビア・レコードは、アトランティック社に 1 曲につき 3% の印税を支払うという製造販売契約の申し入れます。
コロムビアは、楽曲を白人アーティストのカバーしてリリースすることを目論んでいたのでしょう。

アーティガン:「アーティストの印税は?」
コロンビア社幹部:「え?何を言ってるんだ。当然支払わないよ」

これで契約は白紙となりました。

Columbia Records



「ペトリロ禁止令」は、当時の音楽家やレーベルにとっては大きな挑戦であったものの、結果的には音楽史における重要な転換点となりました。

音楽の歴史を振り返る際、このような挑戦的な時期が新しい創造と変化の源泉であったことを忘れてはなりません。

同時代の他レーベルとは違い、アトランティックは想像力溢れる積極的な起業精神、ビジネスに対する鋭い洞察力、文化的洗練、センスの良さといったものをうまく融合させることで成長していく。
これだけの資質を同時に揃えることができた企業は、当時、他の業界でもかなり希有な存在だったに違いなく、実際、音楽業界においては、今でもほとんどまったくと言っていいほど聞いたことがない。

ピーター・ギュラルニック著「スィート・ソウル・ミュージック」より抜粋


「ルースが建てた家」


アーティガンとエイブラムソンはワシントンのクリスタル・キャバーンズ・クラブにルース・ブラウン(Ruth Brown)に会いに行きます。
彼女は、交通事故で重傷を負ったが、アトランティック社は9か月間彼女をサポートし、その後契約を結びました。

Ruth Brown

1949年5月25日に最初のシングルをリリース


彼女は、アトランティックで80曲以上をレコーディングし、当時最も売れたアトランティックのアーティストでした。
アトランティック社の運命にとって彼女の成功は非常に重要で、レーベルは「ルースが建てた家」として知られるようになったのです。



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