R&Bとソウル・ミュージック⑬サム・クックの死が伝えたメッセージ
アメリカの黒人音楽の長い歴史において、サム・クックほど後のシンガーに大きな影響を与えたシンガーはいないだろう。
サム・クックが後のソウル・シンガーに影響を与えたのではなく、サム・クックに影響を受けたシンガーのことを『ソウル・シンガー』と呼び、そういったシンガーたちがサム・クックのスピリットを受け継いで完成させていったのが『ソウル・ミュージック』と冗談交じりに主張した音楽評論家もいます。
1963年1月12日
サム・クックは、マイアミのハーレム・スクエア・クラブでライブ・レコーディングも兼ねたライブを行いました。
この時の白熱のライヴは、1985年なって『Live at the Harlem Square Club, 1963』としてリリースされます。
1963年6月11日
ケネディ大統領が、テレビ全国放送で公民権運動に関して言及したその夜、ミシシッピ州ジャクソンでNAACP(全国黒人地位向上協会)のリーダー:メドガー・エヴァースが帰宅途中に背中を撃たれて死亡しました。
メドガー・エヴァースが公営の墓地で2万5千人の参列者を集め埋葬された同じ日に、サム・クック一家はフォレスト・ローンの墓地で小さな葬儀を執り行っていたのです。
1963年8月28日:ワシントン大行進
ワシントン大行進に参加した有名な音楽アーティストは、ボブ・ディランをはじめとする白人のフォーク・ミュージシャンです。
黒人アーティストたちが、目に見える政治的な行動をとることは大きなリスクでしかない社会情勢だったのです。
サムクックは、ボブ・ディランの『風に吹かれて』を聴いて触発され『A Change Is Gonna Come』を作ったのです。
1963年11月22日:ケネディ大統領暗殺
テキサス州ダラス市(現地時間12時30分)遊説中の第35代アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディがパレード中に銃撃され死亡した暗殺事件が起こりました。
この事件は、奇しくもサム・クックのアポロ・シアター一週間公演の初日に起こりました。出演前に暗殺事件のニュースを聞いたサム・クックは、ショックを受けてその後の公演をキャンセルします。
1964年1月30日
『A Change Is Gonna Come』はロスアンジェルスのRCAスタジオで録音されました。
(1964年3月1日リリースのサム・クックのアルバム『エイント・ザット・グッド・ニューズ』のB面1曲目に収録されます。)
1964年2月7日
TV番組『ザ・トゥナイト・ショー・スターリング・ジョニー・カーソン』でに出演して『A Change Is Gonna Come』を初めて披露しました。
(NBCは、サムのパフォーマンスの録画を保存せずに消去)
1964年2月25日
WBA/WBC世界統一ヘビー級タイトルマッチ
ソニー・リストン(王者)vs カシアス・クレイ
前評判でカシアス・クレイは圧倒的不利と言われながらも、6ラウンドTKO勝利で新チャンピオンになりました。
カシアス・クレイは勝利を祝うパーティーを早々に後にして3人(マルコムX、ジム・ブラウン、サム・クック)が待つモーテルに向かいます。
翌朝『ネーション・オブ・イスラム(NOI)』への加入を発表して、「カシアス・クレイは奴隷の名前だ」という理由で『モハメド・アリ』と名乗るようになりました。
数日後 サム・クックはアリをニューヨークのコロンビア・スタジオに連れて行き、新しいチャンピオンの為の曲をプロデュースします。
1964年8月15日
「Miller High Life Beer Presents "Blues Under the Stars"」と銘打たれた無料コンサートがシカゴ・ホワイトソックスのホーム・グランド『コミスキー・パーク』開催されました。
出演者は、マディ・ウォーターズ、チャック・ベリー、スティーヴィー・ワンダー、マーヴィン・ゲイ
観客たちは黒人と白人が一緒に座り、興奮とビールによって、観客席のあちこちで小ぜり合いが起こるなか、警備員に取り囲まれながら、このコンサートの最後をしめくくる サム・クックが登場しました。
この年にスターラーズと行ったシカゴ公演では、ゴスペル関係者から「ブルース・シンガーをステージに上げるな」と罵声に追われ、涙ながらにステージを降りたという経験をしていたサム・クック
シカゴの6万人の観衆を前に熱唱して、故郷に錦を飾ったのです。
1964年12月11日
ロサンゼルス中南部のフィゲロア通り 91 番街にある「3ドルから」という手書きの看板が何とも寂寥感を漂わせていた『ハシエンダ・モーテル』の駐車場には、その場に全くそぐわない静かにアイドリングする真新しいチェリーレッドのフェラーリ250 GT カリフォルニア・スパイダー。
誰もいないその車内にはウイスキーの空ボトルが床に落ち、後部座席にはブラック・ムスリムの機関紙「モハメドは語る」が無造作に置かれていたのです。
『ハシエンダ・モーテル』の管理人バーサ・フランクリンからの通報を受けて真っ先にモーテルに着いた警官は、下半身をあらわにしたまま壁にもたれ、床に座って死んでいる男を確認し、血に染まった壁とメチャメチャになった部屋の中を見て、「またニガーが殺されただけの話」と考えていた警官が、事の重大さに気がつくのに時間はかかりませんでした。
殺害された黒人男性の名は「サム・クック」
同じ頃、半ブロック先の電話ボックスで、ロス市警は誘拐されたと通報してきたリサ・ボイヤーを発見し保護しました。
サムの遺体はロス市警がすぐに運び去り、司法解剖され死体保管所に放置されました。
死因は、管理人バーサ・フランクリンが至近距離から発砲した一発の22口径弾が、左の脇の下近くから入り、両肺を通過して心臓を貫通したこと。
そしてサムの頭部には、鈍器によるものと思しき約五センチのこぶが残っていました。
この事件が明らかになったのは朝刊には間に合わなかった時間帯でした。
ラジオとテレビは低俗な部分が強調された警察の説明をそのまま報道したのです。
また、事件の次の日の新聞記事は、黒人紙では一面の大見出しだったにも関わらず、ニューヨーク・タイムズ紙は「黒人スター歌手の死」として34面の小さな記事にすぎませんでした。
クックの最初の葬儀は1964年12月18日にシカゴのARリーク葬儀場で執り行われました。彼の遺体を見ようと、凍てつくような寒さの中多くのファンが4街区以上に列をなしたのです。
その後、遺体はロサンゼルスに飛行機で戻され、12月19日にマウント・サイナイ・バプテスト教会で2回目の礼拝が行われました。クックはカリフォルニア州グレンデールのフォレスト・ローン記念公園墓地に埋葬されました。
不可解な部分だらけの殺害事件ですが、後日に執り行われた裁判では7人の陪審員は、たった15分間の審議の後、管理人バーサ・フランクリンの正当防衛を認める裁定を下し「無罪」となりました。
サムの死後60年たった今でも、真相は謎に包まれたままです。
「出る杭は打たれる」
「出過ぎた黒人は闇に葬られる」
これが白人主導のアメリカ社会の掟なのかもしれません。
1965年2月21日
サム・クックと親交のあったマルコムXが暗殺されました
1965年4月17日付R&Bチャート
ソロモン・バークがサム・クックへ捧げた追悼歌「Got To Get You Off My Mind」が第1位を獲得。