見出し画像

What's Stax ? Why Stax Now ? ① ~Otis Redding登場

ソウル・ミュージックにおける黒人と白人との混交はまさしく60年代のソウル・ミュージックの発展と大きく関わっていた。そのリスナーが黒人大衆から大きく飛び出して白人、特に学生を中心とする層に浸透するためには白人ミュージシャンというのは大きな力になったはずである。しかもスタジオの中だけだったら人種の偏見にさらされることはない。だがいったん外に飛び出すや、人種の差別や偏見の嵐に身を置かなければならなくなる。

メンフィス・アンリミテッドP87より抜粋


1957年にテネシー州メンフィスで当時銀行員であったジム・スチュワート(Jim Stewart)が音楽産業に興味を持ち、自らの音楽レーベルを立ち上げるという彼の夢からサテライト(Satellite)レコードを設立します。

当初は、主にカントリー、ロックンロール、ポップミュージックを扱っていましたが、、、

Jim Stewart

ジムは、Ray Charlesの「What'd I Say」に触発されてR&B路線に舵を切ります。

Ray Charles
1952年6月、アトランティック・レコードと契約(1952~1959)
1953年「Mess Around」がアトランティックでの最初のヒット(US R&B チャート3位)。1954年「I Got a Woman」がR&Bチャート第1位。
What'd I Say
レイの自伝によると、1958年の12月に行われたコンサートの終わりに、余った時間を埋めるために、彼が即興で演奏することによって偶然生まれた作品とのこと。当時はラジオで流される一般的な曲の長さは2分半程度であったが、「What’d I Say」は7分半以上も続く曲であったことからシングル盤は、3分半の、両面のシングルレコードに分割され、タイトルは「Part1(A面)」「Part2(B面)」とされた。

サテライト・レコードがレコーディングしたアーティストで、初めて成功を収めたのはRufus Thomas & Carla Thomas親子です。

'Cause I Love You(1960)」がアトランティック・レコードとの配給契約を獲得する助けとなり、これがスタックスの成長と発展の土台を築いたのです。

このレコードは、アトランティック・レコードのジェリー・ウェクスラーの注目も集め、彼はマスターをリースし、アトランティックの子会社であるアトコ・レコード・レーベルからこの曲をリリースします。


カーラ・トーマスが16 歳のときに書いた曲「Gee Whiz (Look at His Eyes)」を 1960 年にサテライトからリリースし、全国的なセンセーションを巻き起こします。


初期に契約したバンド:マーキーズMar-Keys)
デビュー・シングル「Last Night」をリリース。
しかし、この楽曲はスティーヴ・クロッパーがピアノで参加しただけで、他はスタジオ・ミュージシャンによって録音されていました。

同曲は最終的には、ポップス・チャート3位、R&Bチャート2位、約100万枚の大ヒットとなります。

この大ヒットによって行われたマーキーズのツアーには、実際にレコードで演奏していた黒人ミュージシャンが参加できなかった。
61年に黒人と白人の混合バンドが人種差別が激しい南部でツアーをしていたらどうなっていたか、、、


【レコード会社とレーベルの関係】

レコード会社(Record Company)
音楽の製造、配布、販売を行う企業。アーティストの発掘、契約、録音、プロモーション、マーケティング、配信までの全プロセスが含まれます。レコード会社は、音楽作品の商業的成功を目指し、アーティストやバンドと契約を結ぶ。

レーベル(Label)
特定の音楽ジャンルやアーティストグループに特化したブランドや印。
レコード会社は一つまたは複数のレーベルを所有しており、それぞれのレーベルが独自のアイデンティティや市場戦略を持ちます。
レーベルはアーティストと直接契約を結び、そのアーティストの音楽的方向性やイメージを形成する役割を果たします。

簡単に言うと、レーベルはレコード会社の下で運営されるサブブランドまたは部門と考えることができます。アーティストは通常、特定のレーベルと契約を結びますが、実際にはそのレーベルを所有するレコード会社との関係になります。



サテライトのレコードショップのオーナーであった姉のエステル・アクストン(Estelle Axton)との共同経営へと移り、レーベル名も2人の最初の(STewartとAXton)2文字を取りSTAXとし、1961年に本格的なスタートを切りました。
(カリフォルニア州に同じ名のサテライト・レーベルが存在していました)

【スタックス制作の初アルバム】

【スタックスとしての最初の大ヒット曲】

1962年にリリースされたBooker T. & the M.G.'sの「Green Onions」。
インストゥルメンタルトラックながら、Billboard Hot 100チャートで第3位に達し、スタックス・レコードの名を全国に知らしめることとなりました。

Booker T. & the M.G.'s

Booker T. & the M.G.'s
オルガン奏者のブッカー・T. ジョーンズ、ギタリストのスティーヴ・クロッパー、ベーシストのルイス・スタインバーグ(後にドナルド "ダック" ダンに交代)、ドラマーのアル・ジャクソン・ジュニアからなるバンド。
スタックス・レコードのハウスバンドとしても活動し、多くの他のアーティストのレコーディングにも貢献。


当時のラジオ局の規則

当時、多くのラジオ局は「特定のレーベルへの肩入れを疑われるのを嫌い」、同じレーベルからリリースされた新曲を同時に1、2曲以上は放送しない規則を掲げていた。
この対策として、他のレーベルと同様、スタックスも複数の傘下レーベルを設立していた。最も有名なのがヴォルト(Volt)であるが、他にもエンタープライズ、チャリス、ヒップ、サフィスなどのレーベルがあった。

Wikipedia

Otis Reddingは、ヴォルト(Volt)

1962年10月
Otis Reddingの"These Arms of Mine"がリリースされました。


「チトリン(chitlins)」
豚の腸の部分のことで、黒人が奴隷だったころ、豚の肉の部分は白人が食べてその残りのこの部分をうまく調理して食べざろうえなかった。下ごしらえをした豚の腸をじっくりと煮込んでから酢やチリソースを添えて食べることが多いが、茹でてから衣をつけて揚げることもある。
「チトリンサーキット」
黒人聴衆たちのためのツアー会場のこと(アメリカ南部の黒人ナイトクラブやライブハウスを巡業すること)白人がブッキングするライブに対してこのような呼び方になったと考えられる。

デビュー当時のOtis Reddingも「チトリンサーキット」で腕を磨きました。


当時のスタックスは、レーベル主催のコンサートを通じてアーティストのプロモーションを行うことは少なかったのです。

スタックス・レーベル主催の初コンサートは、1965年夏、ロサンゼルスで開催されて成功を収めましたが、スタッフとアーティストの一部が「ワッツ暴動」に巻き込まれたのです。

「ワッツ暴動」
1965年8月11日~8月17日:ロサンジェルスの黒人居住区ワッツで、白人警官官が蛇行運転していたマーケット・フライ(当時21歳)を逮捕したことに端を発して、黒人住民と争いになり,警察と群衆が衝突・放火・略奪で死者34人,逮捕者4000人弱を出した事件。

警察が暴動中に男を逮捕している様子

続く、、、

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?