“毒親”奇族の「自分は間違っていない」「自分は正しい」という主張は 独りよがりの申告 “独申” に過ぎない
子どもが親と仲が良いことは“当たり前”で、親のことが嫌いなのは悪いこと
というのが 世間的? 一般的? には考えられているようだ。
親が嫌いだと思う人の多くは、親が嫌いなことに罪悪感を抱きがちで、「罰が当たるのではないか?」といった不安も感じて悩んでしまうらしい。
「親の面倒は、子供が見るべきもの」と捉えている人も少なくない。
特に田舎では、兄弟姉妹の一番上の人が、親の老後をお世話するという古い“しきたり”が根強く続いているという噂を耳にすることも多い。
親も一人の人間 そして子どもも一人の人間
価値観の違いは“当たり前” 『そもそも、人間は理解し合えないもの』
と考えるべきと、私は思っている。
あるご夫婦から相談があったので『親子関係”断捨離”』を考えてみた。
親と子どもの間の扶養義務についての民法の定め
【民法877条 第1項】:直系血族及び兄弟姉妹は、互いに扶養をする義務がある
子供の頃は、ひとりで生きる力はないから、産んだ人には子供を守る義務がある。
しかし、「大人になるまで育てたんだから、子どもが大人になれば親の面倒をみるのが当たり前」というのには違和感がある。
一方で、親から酷い扱いを受けた人もいるのも現実。
今まで散々苦しめられてきたのに、親が年老いたからって面倒を見なければいけないというのは違うような気がする。
【民法879条】:扶養の程度又は方法について、当事者間に協議が調わないとき、又は協議をすることができないときは、扶養権利者の需要、扶養義務者の資力その他一切に事情を考慮して、家庭裁判所が、これを定める
確かに正論だ。
この民法の規定は、最終手段を明確にしたことであって、現実論としては『毒親』問題で家庭裁判所に簡単に申し出ていくとは思えない。
多くの場合は、親子間で解決しなければならない問題なので“厄介”で“ややこしい”。
友人である弁護士から教えてもらった話だが、
「親子兄弟との縁を切りたいという法律相談は非常に多い。でも、「法的には不可能」と回答するだけ。」
『毒親』の定義
「毒親」という言葉は、1989年にスーザン・フォワード(Susan Forward)が出版した書籍『Toxic Parents, Overcoming Their Hurtful Legacy and Reclaiming Your Life』で、「子どもの人生を支配し、子どもに害悪を及ぼす親」を指す言葉として用いた。(学術用語ではない)
『毒親』の明確な定義はない
子どもにとってストレスとなるような言動から、ひどい虐待行為まで行う親のことを示していて範囲は広い
『毒親』の特徴は
主に “過干渉” “過度な管理” “支配” “価値観の押し付け”など。
「とにかく自分が正しい」
“自分=普通”という思い込みから離れられない。
「一人一人考え方が違って、それぞれの正しさがある」
という事を理解出来ない。
誰でも初めから、親が嫌いだったわけでなく、なんらかの“引き金”となる出来事によって積もり積もった思いが爆発する。
親を一人の人間として見たときに、子どものうちはあまり感じなかったが、親と対等に話せる年齢となると
「性格が合わない」
「自己中心的だな」
「考え方が違う」
と感じる部分が多くなっていくと、円滑なコミュニケーションが取れなくなっていって、親を嫌いになっていく。
そして、人として尊敬できる部分がないと感じるようになると、元の親子関係には戻れなくなる。
“一個人”だからこそ他人を嫌いになるのが“当たり前”のことだ。
子離れできない親 親離れできない大人
「子離れ」とは
親が子どもの自立性を尊重して、親としての役割から離れて子供への干渉をやめること
子育てにおいては
「親御さんも、子どもを手放すことが大事」
「親がなんとかしなきゃ」という思いを捨てることが重要
と言われる。(もちろんネグレクトのような放任は論外)
「子離れ」できていない毒親は
子供が一生、親を優先しなければ許さない
というような恐ろしい考えをもっていて、悪気もなく、子供を苦しめる。
「親離れ」とは
子供が成長し自立して、親から離れて行動するようになること
通常の「親と子の関係性」は、子どもが精神的な成長をするに連れて、徐々に親から徐々に距離を置いていくのものだ。
しかし昨今は「親離れ」ができない若者が増加していて、「ニート」や「パラサイト・シングル」等の問題の温床になっている。
この問題は
「子離れ」できていない親 に根本的な要因があるそうだ。
私が出会ってパラサイト化して対応に苦慮した経営者は、所謂マザコンであった。(こんな人に関わられたら本当に大変 ⇓ ⇓ ⇓ )
親子関係の“断捨離”
「断捨離」とは
不要な物を断ち、捨てることで、物への執着から離れ、自身で作り出している重荷からの解放を図り、身軽で快適な生活と人生を手に入れることが目的である。 (Wikipediaより)
人間関係の断捨離は
相手との距離感を見つめ直すことであり、悪縁を断ち切るということ
連絡を取る頻度を減らすことかもしれないし、完全に連絡を断つことなのかもしれない。
人間関係の断捨離に“罪悪感”を覚える必要はない。
残念ながら他人に害をなすような人も世の中には存在し、相性が悪いということもある。
「親を捨てる」 親不孝な言葉だと感じる人の方が多いだろう
誰だって「親を捨てる」ことに迷いや罪悪感を抱えだろう。
しかし、「親を捨てざる負えない」という状況にある子どもが沢山いるのも現実
そんな心の葛藤があっても、なんらかの決断をしなければならない状態に至れば、「譲れないことは譲れない」という毅然とした対応が必要。
これには大きな勇気と覚悟を伴う。
人間関係断捨離は、自分の“輝ける未来”に向かう入口にすぎない。
次のステージへの入口を見つけて、開けることができるのは 自分の“行動”次第
親子関係断捨離も必要だ
親も子も ひとりの人間としての個人
自分にとって「足枷」になっているモノが「親子関係」なのならば、親子関係の“断捨離”も行えばいい
人は、産まれた瞬間から、ひとりの人間としての個人で、自由なはず
親も子も、ひとりの人間としての個人なのだから
自分が親として”毒親”にならないように教えてくれた、反面教師として親に感謝するしかない。